9筋
「受けないのか!」
宮前をはじめ、八神、坂口も、将棋を知っている全員が瞠目した。
だれもが「受ける一手」だと判断している場所で、踏み込むということ。
ある程度の棋力が前提ではあるが、将棋を観ていて、いちばんおもしろい瞬間でもある。
「さきにたたいておく手……なるほど、手抜くかどうか考えさせられる手ェや。黙って金を取ってしまってもよさそうやが」
「実戦的だな。これは考える」
将棋を知る男たちの声が交錯する。
北野は邪魔くさそうに時計に目を走らせ、あわてて歩をとる。
「……ちっ」
「たたきがはいった。これがはいれば、当然」
「もう一本か」
「左右でたたいて陣形を崩すことで、先手で角打ちがはいる。これは一転、受けにまわらざるをえない」
部外者の解説が、北野に脂汗を強いる。
八神、坂口、宮前の思惑が、それぞれ交錯する。
(相手に鋭い手を指され、喉元に刀を突きつけられているが)
(こっちの首を切り落とされるまえに、きさまの心臓を貫くぞ、という返しの手。……なるほど、あのドラ息子の手には負えんわけや)
(だが、その手に心臓を貫ける力があるかどうかは、まだあいまいだ。さきに首を切り落としにいったら、勝っていたかもしれへん。だが負けないための手を選んだ。そう、実戦的とはそういうこと)
宮前は、北野とたまきの表情を交互に見やる。
たまきは一通り拠点を残したところで、悠然と自陣に受けの一手を入れる。
──かかってこい、か。
宮前は、そこに不遜とも思える余裕を見て取る。
「すぐに見える2四の仕掛けは、四手先まではほぼ一本道や。ここは考えどころやな」
「くそったれ」
焦りの表情で手を進める北野。
すべてを見透かしたように眺めるのは、たまきと京極。
(複雑化した局面で、ソフトの思考ルーティンをコントロールするのはむずかしい。仕掛けたあとの指し手の評価に、時間がかかりすぎる。テッセラクトなら……評価値がマイナス50より大きければ待ちを選ぶ)
時間に追われて自陣に手を入れる北野。
部外者の声が耳にうるさい。
「……待ったか」
「攻めの構想としては、飛車と桂馬を取り、一段目と8五に打てれば勝ちパターンになるが」
その局面では二、三枚分の駒損になっている。ふつうなら怖くて踏み込めない。
北野もよくわかっている。
そうやって、彼我に共通の認識が形作られるなかを、淡々と進行するのが「完全情報ゲーム」の特徴でもある。
(当然、避けるべき局面という評価だが……問題は、そのテッセラクトの思考を彼女がすでに知っている、ということだ)
京極の意を受けたように、たまきは、にやりと笑った。
「言ったでしょう。あんたの薄っぺらな裏側まで透けて見える、って」
鋭く突き出された歩。
勝敗は、もはや明らかだ。
勝利の瞬間、京極の耳打ちを受けた八神が、ただちに北野の首根っこを捕まえた。
京極がネットブックになにやらコマンドを打ち込んだ瞬間、北野が両目を押さえる。
黒服がその両手を締め上げ、ひとりが京極の示唆を受けて北野の眼鏡を取り去り、眼球を大きく開かせる。
「盲目になってみますか?」
カシャン、とシャッターが落ちるかのように、北野の目のまえが真っ暗になった。
目が、目がァア! と悲鳴が上がる。
「どういうことだ?」
八神の問いに、京極はやや外れた答えを返す。
「既存の血糖値モニター用コンタクトレンズの構造を、転用していますね。要するに外部とつないでレンズ上に情報を流していたというわけですが、おそらくユーザーの目線に追従して画像解析、最善手を計算したうえで、コンタクトレンズ上へとレスポンスするシステムでしょう」
「どうりで、このクソガキ、目がちかちか光っとったわい。気持ちのわるい」
主観に満ちた宮前の言葉を、京極は即座に否定する。
あいかわらず的を射ているとは言い難いが。
「いえ、その技術もありますが、現実的にはパッシブな方法を採用すべきです。アクティブな画素を使うと消費電力が増しますが、外部の光を利用できれば極低電力で実現できる上、目に対する負担も減らせますから」
能動的に光らせるのではなく、すでにある光を遮断することで、情報を伝える方法ということだ。
京極が通信に割り込んで北野のコンタクトレンズに指示したのも、光をすべて遮断しろ、だった。
一般人にとっては鼻白むような話だが、京極は、むしろだれより感心して北野を眺めていた。
電波そのものは、すでに世の中に満ち溢れている。その遮断することの困難な共有資源を、最大限に利用したのだ。
みずから持っているのは、チップを埋め込んだコンタクトレンズだけでいい。
必要なのは、空間を満たす電波から、目的の情報だけをやり取りする技術。
彼がすごいのは、そのイメージを実現までさせたところだろう。
「ソフトの弾き出した最善手を知る方法としては、かなり高度ですよね。まあ、やっていることは」
「ただの卑怯なイカサマ野郎だ」
全員の視線が冷え切っているところをみると、どうやら坂口のほうもイカサマについては知らなかったらしい。
ただ将棋が強い男、というだけでその才能を買った。
いずれにしろ、イカサマはバレたらもう、すべてが終わりだ。
八神は氷のような目で、相手方を見下ろした。
「こいつは預からせてもらうぞ」
「……まさかイカサマとはな。好きにしろ。そんな役立たずの下郎には、東京湾がふさわしかろう」
横を向いて吐き捨てる坂口の言を俟つまでもなく、ほぼ全員の内心に死のイメージが広がった。
たまきだけ、まるで興味がない表情で立ち上がり、父のまえにつかつかと歩み寄ると、
「あたしは勝ちました、お父さん。認めてくれますね?」
「あ、ああ。おまえは自分で自分の悪……いや、弱さを断ち切った。わしはおまえを、誇りに思う」
たまきはさしたる感動もなく、ただうっすらと笑みを浮かべ、踵を返す。
料亭の車寄せ。
たまきの体重の多くを腕に引き受けて歩く京極の耳に、かすかな声音が届く。
「……べつに、勝つ必要はなかった、でしょ?」
見透かしたようなたまきの表情に、京極は一瞬動きを止め、それから感心したように口を開いた。
「あの時点で成功は確約できませんでしたが……料亭内に飛び交っているブルートゥースから、アクティブなカメラのイメージ・キャプチャー・コンポーネントを含む、複数のあやしいアクセスログは割り出せました。
身体検査の結果からいっても、通信に重いバッテリーを使うような装置は考えづらい。BLEなら、パッシブWi─fiよりも消費電力を激減させて、画像データを送受信できます。方式は既存のプロファイルから割り出せましたので、いざとなったら割り込み処理の」
「そういう話はいいわよ。要するに荷物のなかのノートパソコンとでも、つながってたんでしょ」
「高性能なスマートフォンかもしれませんが、機内モードでもブルートゥースはつながりますからね。かなり手作り感のあるプラグインのように見受けました。……いやあ、けっこうな才能ですよ、これはこれで」
「褒めてどうするのよ」
それでも彼は、褒めずにはおられないのだろう。
京極が変人であることは、たまきもすでによく心得ている。
この手の技術屋と、まともに会話できるとは考えないほうがよい。
うながすようにして歩を進める。
そんなふたりの後ろ姿を、宮前が追いかける。
無造作に呼び止め、追いつく間もなく問いかける。
「どこで将棋を習った?」
たまきは、うざったそうに手で追い払うしぐさで、
「パソコンよ。だいたい将棋なんて、習うようなものじゃないでしょ。とっくにコンピュータのほうが強い、たかがゲームなんだから」
そこに同意するわけにはいかない宮前は、ややムッとしたが、とりあえず頭を下げ、
「いずれにしても助かった。礼を言う」
「ふん、情けないわね。ほんとにプロなの?」
「言われてもしゃーないな。引退間近の老残兵ちゅうこっちゃ」
「興味ないわ」
エスコート役を急かし歩み去るたまきの背中から、宮前は目を離せない。
「興味ない、か。──まあ、それはそっちの都合や」
そうして何事かを思う表情。
一方、ふと眉根を寄せるたまき。
夜空を見上げるその彼方、スターゲイザーの降り注ぐ星域、真紅の機体を駆って敵を屠る女兵士のイメージがよぎる──。
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