8筋
たまきは傲然と視線を上げ、北野と坂口一味を見下ろす。
「遊びは終わり。ご老人は引退なさるらしいわ」
「八神の娘……」
見上げる宮前の表情には一抹の安堵。
困惑から怒りへ変わるまえに、たまきは宮前への憐欄から、北野へ静かな侮蔑のまなざしを転じる。
「おまえの醜い裏側まで透けて見えた。はらわたごと引きずり出されたいか、それとも悪事を認めて屈するか?」
「どういうつもりだ、てめえ……っ」
気色ばむ北野側。立ち上がる一同。
たまきはゆっくりと、いままで宮前が座していた座布団に腰を下ろす。
「そもそも当人どうしで決着をつけるのが筋。あんたが土下座をするか、あたしにさせるか、選ばせてあげる」
たまきはまっすぐに、自分を汚そうとした坂口息子を指差す。
女ごときが、という怒りの表情で立ち上がる坂口息子。
「てめえ、将棋できんのかよ」
京極は、たまきの背後を支える位置取りで、
「サロンでは六段の腕前ですよ」
じっさいは九段以上の実力があるが、それを教えてやる必要はない。
坂口息子は腰を引き、
「じ、冗談じゃねえ。将棋なんてくだらねえよ、くだらねえ」
将棋を愛する全員の視線が、やや厳しさを増す。
坂口息子は首を振るだけで、たまきのまえに座ろうとはしない。
たまきは、まっすぐに相手を見据え、
「屈するなら土下座しなさい。許してあげるかはわからないけれど」
「ふ、ふざけるな。勝っていたのはこっちだ。悪いのは敗者だ。そうだろう、おやじ」
坂口息子がここですがりつけるのは、父親しかいない。
そんな不肖の息子にいら立ちをおぼえつつも、坂口には、ここで息子を庇護する以外の選択肢がない。
「……せやな、そのための代打ちでもある。どうしてもと言うなら、うちの代打ちとの指し直しなら、認めてやらんでもない。だが負けたときは」
「好きにしたらいいわ。だって負けるはずがないもの。そうよ、あたしを、だれだと思っているの……」
京極は、相手から見えない位置で握り締めるたまきの手にこもった力、浮き上がる汗、かすかにふるえる指先から、極限の緊張感を張り裂ける直前でこらえていることを感じた。
彼女は──誇り高い。
一方、誇りのカケラもないドラ息子を守るため、坂口陣営は小声でささやき交わす。
坂口と北野は互いに顔を寄せ、
「アマ六段か。それなりの実力ではあるが」
「ご心配なく。プロの九段に勝ってたんですよ。負けるわけがない」
視線のさき、すでに自分の分だけ駒を並べ終えたたまきがいる。
──この女の薄っぺらな自信を、打ち砕いてやればいい。
このさい、それがいちばん手っ取り早い。
さっき宮前が抱いていたのと同じ予断の罠に、期せずして、いま彼らも陥っている……。
将棋は淡々と進む。
まるで指定局面のように、相掛りの陣形から力戦型へと移行しそうな気配。
全員の視線が盤面に集中する。北野が27手目を着手。
──京極は目を細め、回想する。
宮前と北野の対局を観戦していたときの、たまきとの会話を。
「どこかで見たような手順ね」
「将棋は似たような展開になりやすいですから。……どういう意味です?」
「あなたが気づかないなら、ちがうかもしれないわね」
ぷいとそっぽを向くたまき。
京極は、しばらく考えてからハッとする。
「これは……テッセラクトの評価関数」
中盤の独特な指し回しは、京極のつくった将棋ソフトの指し手によく似ている。
とくにいい意味で〝人間らしい〟と高評価を受けた、中盤の駒損を苦にしない角切りは、数手以内に駒の有効性評価において十二分に損失を補填する。
「そう、独特な癖のある、だからこそ相手が人間のときにより強さを発揮する、あなたのテッセラクトよ。……一致率は90、というところかしらね」
「チョイスモードですか」
テッセラクトには、次の一手的に、さまざまな選択肢を提示してくれるモードがある。
将棋は、とくに難解な中盤の選択肢においては、いかにコンピュータの性能が進化しても、瞬時に〝正解〟を出すことはできない。
ソフトはさまざまなパラメータを統計的に処理するが、攻撃的に指すか、あるいは玉の安全度など防御を優先するかは、ある意味「好み」で決定していいようなところもある。
つまり「どちらでも大差ない」場合、人間が選んでも「大差ない」のだ。
「ただ終盤の傾向は、一致率100に近いわね」
「正解を出しつづけるモードですね」
一直線の手順になる変化。これを瞬時に割り切ってしまうのは、思考ルーティンの如実な進歩を示すものだ。
なによりすごいのは、彼女がこの短時間で、そのことに気づいたこと……。
やはり彼女は天才だ、と思った。
斜め後方に位置する京極は、戦うたまきの表情を見つめつつ、別の画面も追っている。
(まさに想定どおり、か)
京極の指が、手元のネットブック上をすべるように走っていることに、そのときはじめて森野だけが気づいた。
視線を転じれば数メートル先に、愛娘が対局している後ろ姿。
いま、その娘と横に座る男との間に、不可思議な紐帯のようなものがつながっていることを、母親の直感で感じ取っている。
彼らはいったい、なにをしているのか、そして、このさきになにをもたらすのか?
たまきはまっすぐに相手を見据え、しなる指で駒を打ちつける。
(どういう方法かはわからないけど、目のまえのこの男は、ソフトの能力を借りて指している)
とくに終盤の異常に早い読みきりは、コンピュータに特有の〝計算力〟を如実に示している。
だが現実問題、対局者自身は金属探知機にかけられ、両者とも電子機器をもっていないことは証明されている。
だとしたら、その謎を解かなければならない。
京極の指は、あいかわらずの速度でキーボード上を走り、なんらかの情報をつかみつつある。
室内に行き来する微弱な電波そのものは、ジャミングされているわけではない。
電波はその周波数によって、通信可能な距離、範囲、性質が異なる。旅館が用意している無線LAN以外にも端末は見つかるが、あやしいところは見つからない。
疑わしいものがあるとすれば、いくつかのブルートゥース端末。
機内モードを入れていても、いくつかのデバイスは自動的にIDを交換しているから、説明がつかないということはないが……。
そんななか、オンとオフをくりかえすあやしげな端末が見つかった。
端末が起動しているかどうかを伝えるだけの、単調なパケット通信のようにみえる。
だが最新のマルチストリームにもかかわらず、使っているプロトコルが古い。
──棋譜など、単純な識別記号の羅列にすぎない。
「42K……」
とても短いこの数字が、必要なタイミングで伝達されたとき、ひとりの人間の人生を決定するくらいの意味をもつことがある。
カチ、カチカチ、カチ……。
「4筋、2段目、金」
たった1バイトにも満たない符合を、伝達するだけだ。
ソフトの助けを借りるのに、全部の指し手を教えてもらう必要はない。ただ重要な局面で、わずかなヒントがあればじゅうぶんだと、トッププロも言っている。
形勢が一気に決する、重要な局面の一手で。
「どう伝えているんだ」
人間はすでにAIに屈しているが、人間どうしの戦いが終わったわけではない。
むしろ正解がわかるからこそ、人間の能力のすばらしさ、それを汚す行為の下劣さが際立つ。
カチカチ、カチ……。
局面は、いよいよ危険な領域に近づいている。
盤上には運命の局面。
たまきは、わずかに目を見開いた。
(──ここ。この局面で、テッセラクトは4二金を最善手と判断する)
しかしきのう、たまきが病院で見つけた最新の変化によれば、4二金にはソフトが評価をあきらめる直後の局面に、致命的な読み抜けがある。
京極は微笑を浮かべ、
「たまきスペシャル、とでも名づけましょうかね」
つぎにくる、ほとんど必至とも思える攻めを無視して、平然と相手を攻め立てる……盤上この一手。
たまきの指した強手に、京極以外の全員がざわめいた。
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