7筋
座敷の中央に将棋盤。
向かい合うのは宮前(八神側)と、北野(坂口側の真剣師)。
部屋の左右に、陣営ごとに別れて列をなし座る八神・坂口たち。
どちらの意見を通すか、将棋の勝敗によって決しようという代理戦争の顛末を、息をひそめて見つめる。
北野は典型的な
結局、社会復帰できず、真剣師などというヤクザな商売に身を落とし、世の中への恨みに満ちた表情を刻みつけて生きている。
──こんなクソに負けるはずがない。
相手の性根を見据えた宮前は、最初から彼を見下すことに決め込んだ。
身体検査は入念にした。
スマートフォンはもちろん、電子機器は腕時計にいたるまで外させている。
そこまでやらせることに違和感さえ感じるほどだが、相手は平然と応じている。
その流れるような展開は、決められた結末を目指して進む誘導装置のようだ。
目のまえにある将棋盤そのものが、壮大な思考機械の一部を思わせる。
仕組まれた対局という舞台装置の歯車が、ゆっくりと動き出した。
──ただ人間対人間の勝負、博奕で決めようじゃないか。
シンプルなルールだけに、その世界で暮らしてきた人間たちには、抗うのがむずかしい「決め方」だった。
(プロは、アマチュアに負けるわけにはいけへん。せやからプロはアマチュアと対局せん。それが不文律。──やが、ここで勝ち切ってしまうのが、このさい、いちばん手っ取り早い)
目前の醜い顔を瞥見し、宮前は心を決めた。
だれかがそう思わせようとしているなどと、つゆほど想像もしていない。
アマチュアを一段低く見る宮前のまなざしを、北野は怨嗟に凝り固まった目でねめ返す。
そのまま盤上から五枚の歩を取り、無造作に畳に放り投げる。
三枚が裏返り、宮前が先手と決まる。
「感謝せえ、プロに平手で指してもらえることを」
「もらえる……指してもらえるだと?」
北野が駒を盤上にもどす手に力が入り、弾かれて再び畳に落ちる。
「そうや。感謝と敬意をもって、プロの教えを乞え」
「ちっ、なにがプロだ。もう剥がれ落ちただろうが、強さっていう金看板はよ」
宮前の頬が、不快げにピクリと跳ねる。
「将棋ゆうのは、人間と人間が知恵のかぎりを尽くして戦うもんや。機械と遊びたいなら、家ん中引きこもって出てこんときや」
「ああ? 棋譜で語るんじゃねえのかよ、棋士は。名局を残せるからプロなんだろ? てめえらは強いから偉いんじゃねえのかよ」
「強さは重要な要素やが、将棋は日本文化の──」
言いかけて口を閉ざす。当人も信じていないようなことを、言うものではない。
見透かしたように、鼻先で笑う北野。
「ただパズルがうまいだけなら、人間なんてもう偉そうな顔できねえんだよ。なにがプロだ。てめえらは脳の使い道をまちがった、無駄な存在なんだ」
「きさまごときに言われる筋合いはないわ。たかが真剣師が」
北野の表情が、恐ろしく醜く歪む。
「認めたな、同じ穴の
「真剣師ごときが」
「棋士ごとき、真剣師と同レベルだってことを教えてやるよ」
7六歩と初手を突き出し、チェスクロックをたたく宮前。
「きさまは知らんだけや。教えたる、ホンモノの棋士の力を」
「あんたはこれから、俺というニセモノに、あっさり負ける。棋士なんてものが……将棋協会正会員なんてくだらん称号が、どれだけ貧弱で中身のないハリボテか、思い知らせてやらあ」
互いの指し手が、乱暴に交錯する。
「プロちゅうんはな、アマチュアに負けるわけにはいかへんのや」
「ソフトからは、ぶざまに逃げまくっていたがな」
ソフトには白旗を掲げたとしても、人間どうしなら負けるわけがない。
宮前の指がしなり、盤面に駒を打ちつける。
「黙っとき。計算なんざ、勝手にパソコンにやらしといたらええ。わしらがやっとるんは、将棋ちゅう知的格闘技や。……将棋ちゅうんはな、人間と人間が指すもんなんや」
北野の動きが一瞬止まる。
盤上は、淡々と流れる定跡手順。
宮前の表情が一段と引き締まる。
緊張した面持ちで、自分たちの代理勝負を見守る、八神と坂口。
「将棋は名前でも称号でもない、純粋の個人の力量が結果を分ける。だから……棋士はその存在証明を、唯一、勝利によってのみ勝ち取らなければならない」
純然たる勝負として厳しく断じる八神の見解に、やや
「にもかかわらず、プロになった時点で多くの棋士が、その牙さえも抜け落ちてCクラスの掃き溜めに群れている」
宮前に重なる升田幸三が、かつて言ったことがある。
──棋士は無くてもいい商売だ。だからプロは、ファンにとっておもしろい将棋を指す義務がある。
おもしろい将棋。
重大な結果のかかった、そのこと自体のおもしろさ。
目のまえのふたりは、いま、あきらかにその醍醐味を体現している。
まっすぐに宮前を睨む北野。
ある程度の月給と、定期的に負けてももらえる対局料。
それでも生活できるという安心感に、偶然、棋士になってしまった男たちが、浸かっている。
ファンなどいなくても、プロ棋士は食っていける。そんな考えは古すぎる。
だれもが持っているスマホのほうが強いのだから、「強いから食わせろ」すらも意味をなさなくなった。
怒りをこめて、駒をたたきつける北野。
「そうだ、いけしゃあしゃあとプロなんて看板をひけらかして、アマチュアの頂点に君臨してると抜かしやがる。うぜえんだよ、弱えくせに……負けて思い知れよ!」
しなる真剣師の指が、憎悪のこもった駒音を高らかに響かせる。
チェスクロックの刻む冷酷な表示が、宮前の持ち時間がわずかになっていることを示す。
盤面は一見、混沌としているようだが、北野の表情には余裕のせせら笑い。
「くっくっく、詰みそうだなあ、大先生?」
脂汗を浮かべて、盤面を凝視する宮前。
(認めへん。認めたない。認めるわけにはいかへん。まだや、まだ手はある。逆転の勝負手が……)
北野の表情を見て、含み笑いつつ宮前に視線を転じる坂口。
「このままだと見苦しいことになりゃしませんかね、センセ」
部屋の中央では、過酷な命の削り合いが佳境を迎えている。
一方たまきは、坂口の横で、さして興味もなさそうにしている主犯格・坂口息子を見つめている。
最初は気づかなかった。
──あれが、あのときの……あの男?
もっと悪魔のような顔をしていると、思っていたのに。
女を暴力で従わせる、度し難い低劣な男。
たしかに暴力もひとつの力ではある。それを認めたうえで……いま、ただつまらなそうに横を向いている、あの物体は、無力なチンピラ以外の何者でもない。
彼の代わりに、真剣師とかいう男が命を賭けて勝負しているのだということさえ、理解していないように見える。
あれがいかに無能な存在であるか、いまやはっきりと見透かせた。
カッ、と目を見開くたまき。
あれが無能であればあるほど、そのせいで、自己の弱さの意味を考えなければならなかった事実が──業腹だ!
一瞬だけ父に似た修羅の表情を見せ、たまきはゆらりと立ち上がった。
──ゆるしがたい。
そのまま部屋中央の対局者に近づくと、盤面の中心に右手を突いて駒をばらばらにする。
ハッとする一同、集めた視線の交差する位置、たまきは言い放った。
「遊びは終わりよ」
それはまさに、戦場の女軍師。
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