3筋
パーティションで大きく区切られた病室。
窓際には、たまきと京極。
もう一方に、彼らをほほえましく見守る母親と、複雑な表情の父親がいる。
ベッドに上体を起こし、ネットブックの画面に集中しているたまきの頭に、京極がそっと手を添えていた。
「昔からありましたね。あの子、なにかに集中すると、まわりがまったく見えなくなってしまうから……」
静かな表情で昔の娘を思い起こす母。
勉強中、首に力を入れることを忘れて机に頭突きをするたまき。
笑って額のコブを恥ずかしげに撫でていた。
「またやっちゃった」と、ぺろっと舌を出しながら。
「ひとつのことに熱中する、それ自体はわるいことではない。むしろ才能でさえある。その才能を守り育てる義務が、周囲にはあるが」
同じく父として、回想する小さな娘の姿。
いっしょに道を歩いているときに突然、かくんと倒れて頭をトラックにつぶされそうになったことがあった。
あわてて駆け寄る八神とボディガードたちは、当人から話を聞いて、その意味をしばらく図りかねたものだ。
できなかった計算がね、解けたの。
やったー。
「突然、何事かに集中する。その集中が過ぎると、肉体のほうをうまくコントロールできなくなってしまうのでしょう。とくに首まわりの筋肉の力が抜けてしまう。──そのタイミングをね、彼は見極めて、支えてあげたんですよ」
森野は目を閉じ、数日まえに起こった出来事を、どこか誇らしげに八神に伝える。
その日、見舞いにきた京極は、いつもと同じように、たまきの部屋でネットブックを開いていた。
「ちょっと作業しますね」
画面上、コマンドラインから、すごい速さでプログラム言語を書き連ねる京極。
そこに並んだ画面のひとつに、将棋の駒があった。
たまきは顔を上げ、か細い声を漏らす。
「将棋……?」
「ご存知ですか? 日本の伝統文化で」
たまきは見つめられて、突然不機嫌になり、ぷいとそっぽを向いた。
「はん、くだらない」
そのままベッドから無作法に蹴りだされた足が机を蹴ると、ネットブックは落下する。
あわてる母親の面前、かろうじて壊れる直前にキャッチする京極。
「たまき!」
厳しい表情の母親から、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く娘。
すみません京極さん、と申し訳なさそうに頭を下げる母親。
こんな娘ではなかったのに、と言いかけて口を噤む。
それがPTSDのせいだと、京極ももちろん理解している。
うなずきながら、たまきに視線を移す。
「ぼくがつくったソフトです。けっこう強いですよ。やってみますか?」
後刻、森野は廊下で立ち話をする医師と京極の会話を聞いた。
「彼女に将棋のゲームを与えたそうですね」
「ええ、テッセラクトというソフトです。いけませんでしたか?」
京極は首をかしげ、医師の意見を承る表情。
「いえ、熱中している間は発作も起きないようですから、わるいことではありません。それにしても、なぜ彼女が将棋好きだと?」
「偶然ですよ。趣味で組んだ将棋のプログラムが、コンピュータ将棋大会でけっこういいところまでいったんです。それをいじってるところを見られて」
医師はあごをひねりながらうなずいて、納得の表情で言った。
「ほう、プログラマの方でしたか。なるほど、彼女はそのゲームに、あなたを感じているのかもしれませんね。だから……」
「というわけで、ドクターも将棋を治療の一環として認めてくださいました。そうして先を読むことに集中したとき──」
すっと伸びた京極の手が控えめに、だが確実に、落ちそうになったたまきの頭を支えてバランスをとる姿が、伝える森野の脳裏に強烈に印象づけられている。
「そうか……」
「あの子は、支えられていることにすら気づかず、集中を維持して、みごとな手順で相手を寄せきったそうです。あなたの教えてくださった将棋で、いまや段位を持てるレベルだそうですよ」
こもった吐息を漏らす八神。
脳裏に至宝たる愛娘たまきの表情が、無尽蔵の濁流のように溢れる。
──途端その表情が、ぐにゃりと甘ったるくゆがむ。
妻は、やれやれと肩をすくめ、見ないふりをする。
父親の妄想は走り出し、最強の棋士になった娘の横には、誇らしくもでれでれ顔の自分がいる。
自慢の娘。最愛の遺伝子。この世でいちばん大切なもの。
たまきのことを思うだけで、自身が忘我の境地となることを、強い意志の力で厳に戒めなければならないと自覚する。
──そのとき、斜め後方から屈強な黒服の男が姿を現し、八神の傍らに寄り添った。
ちょうどいいタイミングで、八神の表情がキッと引き締まる。
察したように身を引く森野。
ここからが八神の真骨頂、本職の領分だ。
「オヤジ、例の件ですが」
囁く黒服にうなずきを返し、八神の
「ケジメはつける。街を焼き払ってでも探し出せ」
その「親分」の
はっ、と頭を下げたとき、ふと周囲に走るざわめき。
見まわした八神は、病室のほうに駆けていく妻と看護師たちの姿を見つける。
たまきのいつもの発作だと気づき、八神の表情はさらに厳しさを増した。
噛み締めた唇と、握り締めた拳から血がにじむ。
慣れているはずの黒服さえ、かすかに青ざめて身を引いた。
ベッドでは、たまきがうなされていた。
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