2筋
「いわゆるPTSDの一種と考えられますが……」
沈痛な面持ちで宣う医師の対面には、たまきの母。
三十台の和服美人が、医師とは質のちがう真摯な悲哀を示す。
その脳裏には先刻の娘の姿。
数分まえ、たまきはベッドのうえで泣き叫び、暴れていた。
手足を押さえつける看護師、鎮静剤を投与する医師。
母はゾッとした表情で、遠巻きに見つめることしかできない。
「でも娘に、あんな持病は……」
「心理的なものです。戦場から帰還した兵士などに見られて有名になりましたが、傾向としては女性に多い……いわば
恐怖の表情で自分を見つめた娘を思い返し、母は沈痛に首を振る。
面会謝絶のプレートがかかった病室。
金切り声とともに、看護師とカートが飛び出してくる。
点滴スタンドが倒れ、アンプルは割れ、廊下は惨憺たるようす。
「無理です、先生……っ」
看護師の悲鳴。困ったような表情の医師。
悲痛な面持ちの母親の首肯を受け、医師は対処のため病室にはいる。
数分後、病室内には、呆然とした表情のたまき。
涙ぐむ母親。
傷だらけの看護師。
注射をトレイにもどす医師──。
「意識状態を下げないと処置できないのです。申し訳ない。……強度の対人恐怖です。徐々に慣らしていくしかありませんが、お母さんも気をつけてください」
ベッド上、うつろな表情のたまき。
その目は、なにも見ていない。
状況にさしたる変化もないまま、数日が経過した。
廊下に飛び散る見舞い品。
母親は沈痛な面持ちでそれを片づけながら、見舞いにやってきた同級生に対するヒステリックな
娘は変わってしまった。
時間をかけて治療するしかないとわかってはいる。
だが──。
ふと顔を上げ、病室内を見て、彼女は
そこには京極がいた。
娘を救ってくれた男として、一度だけ挨拶をしたことはある。
その彼が、何事もなかったようにたまきの横に立ち、水の入ったコップを差し出している。
この事実が意味すること。
たまきの意識状態はクリアである。
自分の意思で顔を上げ、水を飲むだけの
母親自身さえ、近寄るだけでいつ爆発するかわからない娘の発作、その時限爆弾のような娘の間近に、なんの拒絶も受けず京極が立っている──。
病室のまえの廊下、森野は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました、京極さん」
頭と腕に包帯を巻いた京極は、感情の読めない面持ちで会釈を返す。
その声音には京都のイントネーションがあった。
「いえ、もともと三日に一度は兵庫に用事がありますから。先日もポートアイランド(計算科学センター)の帰り、たまたま寄り道をして事件に居合わせただけで」
京極士郎。大学院の研究生。
量子力学の一分野に携わり、素材系研究の一環で兵庫のSPring8や『富岳』に定期的に顔を出す。
「──この方がお好きなようですね。お見舞い品、指定されました」
京極の手には、アイドル俳優・仙道
母は、やや気恥ずかしげな表情で、
「申し訳ありません。18にもなって、アイドルの追っかけというのもどうかとは思うのですが」
「いえ、何事かに熱中できるというのは、いいことですし、才能だとも思います。──それでは、お見舞いがてらお渡ししてきますね」
再び丁寧に頭を下げる母親。
長い間のあと顔を上げた視線のさき、窓から見える景色に注意を向ける。
黒塗りの車が病院のゲートをくぐる。
車はそのまま病院のエントランスに横付けた。
エントランスから直行した、恰幅のいい紳士をまじえ、診察室には三人。
医師の口から、あらためて父親である老紳士・
「強度の対人恐怖症ですが、母親など一部の例外に対しては心を開きます」
八神は不機嫌そうな表情で、
「……それ以外、だれに会ってもその、発作というのが起こるのか」
「いまは多少、軽快していますが。なんと言いますか……」
八神は口ごもる医師から顔を背け、妻の表情を一瞥したのち、一人ごちるようにつぶやく。
「結局こうなったのは、半分はわしのせいというわけか」
八神の脳裏には、先刻の娘の姿。
父親を見て激しく恐怖の表情を浮かべ、発作の兆候を感じた医師の機転で鎮静剤が投与された。
ほどなくぐったりするたまきを見つめる父の苦悶の表情が、いまに重なる。
思いやるように、妻はそっと夫の肩に手をかけ、
「あなたの教育がまちがっていたとは、私は思いませんよ」
「厄介なケースで、自分がそういう状態だということを認めることができません。プライドの高い女性で、それ自体は必ずしもわるいことではないのですが」
医師の言葉を聞き流し、八神は懐からタバコを取り出すが、灰皿を見つけられず懐にもどした。
「悪いものは悪い、弱いものは悪い。絶対に。──だから強くなれと教えた。相応の能力さえあれば、他者に組み敷かれることなどないのだと」
彼自身、そうやって生きてきた。
医師はうなずいてから首を振り、
「その理想を崩壊させる、非力な自分を認められない。彼女の誇りが、彼女自身を否定してしまうのです」
「──発作は突然起こるのか?」
「たまたま彼女を助けた京極さんが身近にいて、守ってあげている──」
森野の言葉を引き受けて、医師がつづける。
「と、彼女自身が感じられている──場合のみ、発作は抑制されるようです。単に意識を失う程度ならまだいいのですが、この発作はきわめて危険な自傷衝動を伴うケースが多く、治療が終わるまでは、なるべく安全な環境におくためにも……」
露骨に舌打ちする八神。
「あの男から引き離すなということか」
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