第13話




 私はドキドキと胸が高鳴っていた。



 あの人はどんな顔をするんだろう。



 私の興味はそんなキーチの見たこともない顔にばかり向いていた。



 それを自覚する術は無かったけど、私は結局なにも成長していない。



 今も、前も、結局……【終末を見ずに今だけしか見ていない】のだから。

キスの温度


◆13◆




「だけど本当にびっくりしましたよ~! この近くに住んでいたなんて!」



「うん、まぁ駅は秋葉原だから人が多くって」



「東京はどこも人は多いですよ! でも嬉しいなあ」



 彼女は何も知らずに嬉しそうに笑った。御徒町のとあるデパートで偶然出会ったことを【偶然を装った】のも知らずに、驚きはしゃいでいる。



「そうだね。池袋も毎日毎日すごいもん」

「あー……私も思い出すなぁ」



「復帰はしないの?」



「うう……ん、どうかなぁ。もうすぐ二人目産まれちゃうし、しばらくは考えられないですかね……」



 少し寂しそうな表情をする彼女の俯く顔は、すっかり母親の顔だ。



「そうかぁ、けど私もずっと現役で頑張って待ってるから。いつか戻っておいでよ」

 母親の顔を覗かせる彼女に笑ってみせてやると、少し安心したように彼女も笑い返してくれた。



「そう言って貰えてうれしいです。けど、木下さんも結婚して家庭に入るつもりないんですか?」



 その問いに私は大袈裟に驚いてみせ、片手をぷらぷらと振り



「ええっ!? 私が結婚?! ないない!」



 とおどけて見せる。

「なんでなんですかぁ~! 木下さんはそんなにきれいなのに~! 放っておく男が馬鹿なんですかね」



 放っておく男……? ふふ、放っておかなかったからこんなことになってるのに。



「ちょっとー【彼氏】がいない、なんて言ってないじゃない! ちゃんといますよーだ」



 そう言って私は薬指の指輪を見せた。



 彼女は一瞬、不思議そうな顔をして直後に大きなアクションで「あ~!」と驚く。

「な、なに?! どうしたの??」



 その反応に驚いた《振り》で返し、私は彼女に聞き返した。彼女はと言うと興奮気味に「ちょっと見せてもらってもいいですか?」と私の左手を触る。



「ごめんねー……バカップルとか言われるかもしれないけど、彼氏がさ左手につけてくれって聞かなくて……。結婚してるわけでもないのに、左手につけるのは嫌だったんだけど」



 苦笑いしてみせる私に、彼女は嬉しそうにはしゃぐと



「この指輪! 私の結婚指輪と同じなんですよー!」



 と興奮して言う。

「ええっ!? そうなの!? すごい偶然!」



 テーブルの上の紅茶のカップがカタカタと小刻みに震えるほど、彼女は無邪気に偶然を喜び、私の反応にも満足そうに「そうですよね! すごいすごい!」と笑った。



「……でも、今してるその指輪と違うよね」



 私はわざとらしく彼女の左手に光る指輪を目で差し指摘し、彼女はそれに恥ずかしそうに笑いながら言った。

「実は旦那がさ、飲みに行った先で失くしてきちゃって……。すっごく怒ったら新しく結婚指輪を買い直してくれて」



「ええー! 失くしたの!? それおかしくない??」



 脳裏に、ベランダから思い切り投げた時の映像が鮮明に蘇り、そしてそれを探しに行った時のことを思い出した。



 そして、それを持ってブティックにいったことも……。



「なんか出張先の接待でクラブに行ったらしくって、上司にホステスが白けるからちょっとだけ外しておけ、って言われてポケットに入れてたら失くしたって……。馬鹿ですよねー」



 あはは、と彼女に付き合い笑いながら外した指輪を顔の横に置き私を上にして揺られるキーチの顔が浮かぶ。



「でもそんなこと言って、浮気してたんじゃないのー?」



 冗談めかしてそう言ってやると、彼女は「それはないですよー」と笑うばかりだった。

「すごい信頼だね! 私だったら浮気だと思ってフルボッコしちゃうかも」



「そういう人じゃないんですって。器用ぶってるけど不器用っていうか……、人を裏切ることが出来ない性格だから」



 人を裏切ることができない。



 器用ぶった不器用。



 この女は本当にあの男の妻なのだろうか。



 

 違う、あの男は。



 笑いながら人を裏切れるし、不器用ぶった器用な男だ。



 この女は本質とは真逆なことを言っている。馬鹿な女だ。



「あ、そろそろお母さんが家に帰ってきちゃう! すみません木下さん、今日は買い物するのに実家の母に子供を預けてて……もう帰ってくる予定なんです」


「そうなの?! ごめんね、引き留めちゃって、早く行ってあげて」



「いえ、あの……楽しかったです。良かったら、その……また」



「うん、お茶しよ。城崎さんにもよろしく」



「はい、伝えておきますね」



「職場で毎日会うけど」



「ふふ」



 外見からはまだお腹の膨らみが分からないが、彼女はお腹をさすってテーブルを立ち伝票を抜こうとした。



 私はその手よりも早く伝票を抜き、掌を広げて彼女に見せた、



「ここは私が払うわ」



「え、そんな大丈夫ですよ!」



「いいの、その代わり次は奢ってね」



 私の言葉に「次も会おうね」という意味を汲み取ったのか、彼女は困った顔を笑顔に戻して「そうですね、パンケーキもつけちゃいます」と言った。

「それと、もう一つ」



「? なんですか」



「敬語で喋らないで、タメなんだから。それと良かったら、私の事は『マイ』って呼んでよ。その方が私も呼びやすい」



 彼女は少しだけ迷った素振りを見せたけど、持ち前のポジティブさを発揮させてすぐに「わかったよ、マイ」と状況に適応してみせた。



「それそれ。それで行こう、同じ『マイ』だもんね。……マイ」






 月曜の朝、キーチは血相を変えて私の部屋へやってきた。



 ドアを開けた私の顔を、まるでオバケかなにかでも見たような真っ青な顔で見詰めて、ふるふると唇を震わせている。



「かわいい」



 今まで私に余裕しか見せなかった、常に有利な立ち位置から見下ろし続けてきた男の、余裕のない不利な顔。



 男とはこんなに愛しい生き物だったのか。

 私が放った「かわいい」という発言に反応することもなく、キーチはドアを引き中へ入ろうとした。



『ガキン』



 なんの音かとキーチが手元を見るとドアがそれ以上開かないことに気付いたようだった。



 そして手から肩にかけて伝わる冷たく堅い感触。次に私の胸当たりでピンと張る鎖を見た。



「まだお化粧してないから」



「……どういうつもりだよ。お前、自分が何してるのか分かってんのか!?」



「なにって? なんのこと言ってるの?」



「とぼけるな!」



 キーチの大きな声。こんな声は聞いたことがない。男の人に怒鳴られるとすごく怖いはずなのに、私はなんだかそれもかわいく見えた。

「大きな声出しちゃ駄目でしょ」



「とにかく中で話そう」



「あとで会社で会えるじゃない」



「うるさい!」



 キーチは怒っている。キーチを怒らせたのは初めてだけど、私はこの状況が楽しいとさえ思っていた。



 愛する男が、こんなにも私に振り回されてる様が余計に彼を愛しくさせる。守ってあげたくなる。

「一体なんのことを怒っているの? 私にはわからないんだけど」



「マイのことだ!」



「マイ? マイは私でしょ」



「……ッ! ふざけるな!」



 ガキン、ともう一度強くドアを引く。当然開くはずがない。



「あの……警察呼びましょうか」



 隣の部屋の住民がドア越しに私に対して尋ねた。これだけ騒いでいたら当然だろう。



「あ、いえこれは……」



「呼んでください」



「マイ!」



「さっきからマイマイって……一体誰の事? 私のこと? それとも」



「今から通報します」



 隣の住民がそう言ってドアを閉めようとするのをキーチは慌てて止めた。

「あ! もう去ります! すみません、もうやめますから!」



 住民が無言でドアを閉め、キーチは「……!」となにか言いたげに私を一度見ると、急いでその場を去って行った。



 キーチの背中が見えなくなるまでドアの隙間から見守り、彼がいなくなったのを確認すると私はドアを閉め、閉めたドアに背をもたれその場にへたり込んだ。



「あはは、あははは!」



 笑った。




「やめ……やめろって!」



 キーチは声を殺して必死に抵抗しようとした。



「なんで? 私にはしたじゃない」



 女性と違い、男性トイレは頻繁に往来がある。



 その分滞在時間も短いけれど、それもまた女性とは逆と言っていい。

「こういうことするの好きなんでしょ」



 吐息を漏らすキーチのそれを口いっぱいに頬張ると、キーチは情けない声を短く出した。



 本当になにからなにまで逆転してしまったようだ。



「おう、お疲れ」



「あ、お疲れ様です」



 小便器の前で話す男子社員の声。声を殺すキーチを裏切るように私の口からは、舌舐めずりの音。

「……」



「……」



 小便器で立っていると思われる男子社員は、会話をやめ耳を澄ましているようだ。



 確実に、なにかに気付いている。



 もちろんそれは、キーチにも分かっているようだった。



「行くわ」



「あ、ああ……はい、僕も」



 手洗いの音と去ってゆく足音。そして、またやってくる社員。

 私は構わずに音を立ててキーチに尽くしてあげた。



 キーチは抵抗しようとするが人が来るたびに、力が弱まる。



「うっ!」



 結局、女も男も同じだ。



 こういうシチュエーションがたまらないのだろう。キーチも同じなのだと分かって私は少し嬉しくなった。



 口内に迸った熱の固まりを、喉を鳴らして流し込む。



 キーチを見ながら飲むそれは、これまでに感じたことのない味がした。

「最近マイとしてないみたいだね。……感心感心」



 キーチが出すものの味質で最近しているのか、していないのかくらいは分かるようになった。



 キーチを支配している気分がとてもよくて、私は何度もキーチをトイレに押し込んでは同じことをした。一度関係を清算しようとしたキーチは、マイ(キーチの奥さん)の名前を言うとすぐに黙り、私のやりたいようにされた。



 週末にもなると私はキーチに会えない代わりに、土日のどちらかはマイとランチに行ったりする仲になり、彼が私に語ることのなかった私生活も把握した。



 マイと会う回数を重ねる度、毎回少しずつ膨らむお腹を見て、絶対にあの男を幸せにするものか。その想いが強く、強く湧き上がる。

 私とマイが会っている時にキーチは一度も姿を現せなかった。



 そんな生活が3カ月ほど経った頃、私はマイともすっかり打ち解け、仲良くなり……子供とも会う仲になっていた。



「柚希ちゃん、パパは優しい?」



 2歳になったばかりの柚希は、分かる言葉と分からない言葉があるようで、「パパ」という言葉には反応したけれど、その後に続く言葉の意味が分からず首を傾げていた。



「優しいよねー」



 マイが柚希の頭を撫でて、「やっとパパママくらいは言えるようになったんですけど、他の子は上手く喋れる子もいて……」と心配そうに言った。



「大丈夫だって、小学生になれば誰だって話せるし」



 この子がずっと喋られないで、ずっとずっと苦しめばいいのに。



 そんな気持ちを押し隠しながら、私は言った。


「今度、城崎さんも一緒に連れてきたら?」



 マイに尋ねるとマイは笑いつつ「何回か言ってるんだけどねー……」と前置きをし、その上で「女子会に男がいるのもおかしいだろ」って言って来たがらなくて。



「まぁ職場で毎日会ってるから」



 そう言うとマイは溜息をつき「そりゃそうか」と納得した様子だった。



「あ、そうだ」



 買い物に付き合うという名目で会っていた私は、ベビーカーの横に置かれた大き目の荷物に目をやると、マイにある提案をした。




「おかえり……」



 玄関を開けたキーチの顔は凍り付いていた。



「どうも城崎さん! 今日はお邪魔します~」



 白の壁に茶色の屋根。ガレージにはファミリーカーと小さなキックボードと三輪車。



 典型的なマイホーム。

 その幸せの塊の家から出てきたキーチは、まるで別人のようにも見えた。



 家族の前での、見たことのない顔。



「ごめんねー輝一さん。荷物が多いから手伝ってもらっちゃった」



「あ、ああ……その、でもマイは……」



 マイという名前を言って、しまったとばかりにキーチは口を押さえた。



「ん、私? 私は大丈夫だよ」


 当然、マイと言う言葉に反応するのはあっちだ。



 マイはまさかキーチが私のことも「マイ」と呼ぶだなんて思っていないから。



 けど……



「へぇ~城崎さん、奥さんの事そう呼ぶんだ」



「紛らわしいよね、どっちもマイだから」



 マイが笑いながら私に言う中、私は無言で頷きながらキーチを見ている。

『奥さんのことそう呼ぶんだ』という言葉には、意味があった。



 以前、キーチは私にこう言ったのだ。



『あいつのことは【マイ】って呼んだことがない』



「同じ名前だから、マイって呼ばれるとついついドキっとしちゃいます」



 マイはジョークだと思い、あははと笑ったが私とキーチは笑っていない。

『ねぇ、荷物多くて大変だよね? だったら家まで手伝ってあげよっか』



 買い物の帰り私はマイにそう提案したのだ。



 当然マイは悪いから、と断ったが私は「その代り晩御飯ご馳走してよ」と言った。



 マイは私の言葉に気分を良くしたらしく「そういうことだったら……」と私を家へと招いたのだ。



 ……もちろん、私は最初からこれが目的だった。

「マイ、なに手伝ったらいい?」



「えー! いいよぉ~今日はご馳走するって言ったじゃん」



「待ってる間暇でしょ! 素敵な旦那さんが私の相手をしてくれるならいいけど」



 キーチはテレビを見ながら私をちらりと横見するが、すぐに目を逸らした。



「輝一さん、折角マイが来てくれてるんだからおもてなししてよ~」



 と言いつつ忙しそうにせかせかとキッチンを行ったり来たりしていた。

「ごめんね……じゃあ、手伝ってもらっちゃおうかな」



「よしきた!」



 柚希を足の上に乗せながら、キーチはジブリのアニメを一緒に見ていたが、しきりに私達を気にしている様子だ。



 ――今、キーチはどんな気持ちなのだろう。



 それを考えただけで、自分が興奮してゆくのが分かる。


 この興奮は、楽しいとかそういうものではない。



 報復をしている気持ちよさだろう。



 私が今、その気になればこの男の生活をめちゃくちゃに出来る。



 私やキーチが、少しでも言葉を誤れば終わってしまう危うさ。



 ……これは興奮ではなく、スリルだ。

「それにしてもご近所さんで助かったぁ」



 マイが切った野菜を鍋に入れ、火をかけたと同じタイミングで言う。



「ご近所さん?」



 キーチがマイの言葉に反応し、不思議なイントネーションで聞き返した。



「私、秋葉原なんです」



キーチが『駒込じゃ……』と言おうとしたのが分かる。だけど私はそれを言わせないように、被せて言った。



「マイと会ったころくらいに引っ越したんです。……駒込から」



 キーチは、それ以上なにも聞かなかった。






【つづく】

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