第14話




――お腹が痛い……



 今朝から調子が悪かった。



 なんとか気力で会社には行ったのだけど、帰って寝ておけば治ると思ったのだけど……



 痛みで脂汗が止まらない。胃からみぞおちにかけて直接臓器を握られているような鋭い、痛み……。



「キーチ……キーチぃ……」



 誰もいない部屋。私の部屋。誰も……助けてくれない。



 私は、お腹を押えながらバッグからスマホを取り出し、キーチにメッセージを送った。



『お腹が痛い……助けてキーチ』



キスの温度


◆14◆







 病院のベッドで目を覚ませた私は、置いてあったヨーグルトとカットフルーツを食べながら昨日の夜のことを思い返した。



 急性胃腸炎。



 症状も大したこともなく、入院も今日一日だけでいい。運がいいのか悪いのか、昨日は金曜日だったため今日は会社を休む必要も無かった。



 ストレス性や食べ物、色々と聞かれたけれどいまいち決定的な原因は分からないそうだ。……まぁとにかく不摂生や無理をしないようにと医者には釘を刺された。

 目が覚めてすぐにキーチへ『○○病院に入院した。すぐ退院するけどね』とメッセージをしたのに、返信は帰って来ない。



 ――誰もいない部屋。誰もいない病室。



 結局なにも変わらないじゃない。私なんて……。



 結局、私は自分で救急車を呼び、運ばれた。そしてそのまま入院に至ったわけだ。



 私は、一人で苦しみ、一人で救急に電話をし、一人で入院して、一人で退院した。



 帰りの電車で、寂しさと情けなさで泣けてきた。

『退院した』



 それを送って、30分ほどしてからキーチから返信がきた。



『昨日はごめん、付き合いで手が離せなかった。大丈夫? お見舞いいけないでごめん』



 この返事を、キーチはどんな表情で書いているのかな。



 付き合いで手が離せなかったって、丸一日経ってるのに?



 退院した、って読んで安心してから返事をしたんじゃないの?



 ――いつだって壊せるのに、なんでそんなことが出来るのかな。



 キーチの家庭なんて、いつでも……私がその気になったら全部全部めちゃくちゃにできるのにな。



「なんでよ!」



 思い切り手に持ったスマホを地面に叩きつけると、バッテリーのパックとカバー、それいスマホケースが弾き飛び、画面が仰向けに倒れたそれは蜘蛛の巣のようなヒビが入り、もう手遅れの状態になってしまったことを私に知らせた。



「なんで会いにこないのよ!」



 だけど、私にはそんなこと……どうでも良かった。




「木下さん大丈夫ですか~!?」



 週明けに誰から聞いたのか春奈と佑月が私を心配してくれた。



「え、ああ……うん。大丈夫、ありがと」



 彼女らの声は内心嬉しかったけれど、肝心なあの男は今日も外回りでいない。



「……」



 キーチのいないデスクに、透明なキーチを浮かべ私は虚しさと湧き上がる苛立ちが沸き上がるのを止められない。止められるはずがない。

 キーチの妻・マイに電話をしたのは、その日の夜だ。



 もちろん、キーチが家にいるだろう時間に電話をした。



「あのさ、今度の日曜日にみんなでバーベキューとかどうかな。友達と行く予定で道具とか揃えたんだけど、キャンセルされちゃって……。折角予定空けてたし、道具もあるし、良かったら城崎さんやゆずちゃんも、みんなでやろうよ」



『え、いいの? 嬉しい!』



「うん、私のがら空きの予定の犠牲になって」



 笑いながら言うと受話器の向こうで彼女はキャッキャッと嬉しそうに笑い、リビングにいるであろうキーチに向けて「ねぇ、輝一さーん。マイが今度の日曜日に……」と報告をしている。



 電話口でも微かに聞こえるキーチの返事が、少し上ずっているのがわかった。

 場所は、葛西臨海公園に決まった。



 日曜日、キーチとマイと長女の柚希。そして私の四人でバーベキュー。



 考えるだけで私は心臓の鼓動がやけに早くなるのが分かった。



「これで、全部終わる」



 電話を切った後で、私はホームセンターへバーベキュー用品を買いに出かけた。

 それからいくつかの夜。



 私は眠れなかった。



 自分がどこにいきたいのか、わからなかったから。



 キーチを追いかければ追いかけれるほど、離れてゆく。



 あの頃に戻りたいのに、もう戻れない。



 そもそもあの頃……、それ自体が過ちだったのだ。



 分かっていた。分かっていたはずなのに。

 キーチがあの時、私を抱かなければ。



 キーチが私をただのおもちゃみたいにいい加減に扱ってくれたらよっぽど楽だったのに。



 こんなにも心が痛みのは、キーチが優しかったから。



 私が、キーチのことをこんなにも好きになってしまったからだ。



 キーチが私を……キーチが、キーチがこんな風に……



 数える夜、最早私は誰が悪いのか分からなくなっていた。



 ただ一つ、解っていたことは……もうキーチは私のものでもなければ、もう……私に向いてくれることもないということだけだった。





 玩具のような汽車に乗った子供たちはキャッキャッとはしゃぎ、通行人に向かって笑顔で手を振っている。



 その中にマイに抱かれた柚希もいた。



 マイと一緒に私と並ぶキーチに手を振り、楽しそうにこの場を楽しんでいる。



 日曜日の葛西臨海公園はとてもよく晴れていた。バーベキューの場所だけ確保した私達は、乗りたいとせがんだ柚希のために一回だけ先にその列車に乗せてやることにしたのだ。



 大きく公園内を一週するそれに乗り、マイと柚希が見えなくなったタイミングで私はキーチに缶コーヒーを渡した。



「微糖……で良かったよね」

 キーチはそれを無言で受け取ると首だけを小さく縦に振った。



「準備しよっか」



「悪かった」



「……なにが?」



 キーチが「悪かった」といった意味、本当は分かっていた。だけど、私はそれの意味が分からない振りをして聞き返す。



 だけどキーチはそれに答えることはなく、バーベキューの火を起こしに場所取りした所に戻った。



 

 柚希とマイが戻ってくると、マイは大きくなったお腹を庇いながらなにか手伝いをしようとするが私はそれを制止し、「マイは動かないで。後は私達がやるから」と座らせる。



「ごめんね、妊婦さんを連れまわしちゃって」



「ううん、とっても嬉しい。やっぱりこのお腹だから外出するのにも気を使うし、行けるところも制限されるから……。だからこうやってバーベキューできるとかすごくうれしいよ」



 優しい笑みで柚希の頭を撫でながらマイが言った。その母性溢れる幸せそうな顔と、強張ったままの表情で炭をくべるキーチ。



 これが同じ夫婦だなんて、……笑える。

「ちょっと城崎さん、炭おこしに夢中になってないでなんとか言ってくださいよ~!」



 背中をパンパンと叩き、キーチにそう言うとキーチはひきつった笑いで空返事をするのみだった。



 その情けない、私の前で堂々としていたはずの男を見て私は思い知る。



 ――この家庭を絶対に壊したくないのね。それだけは絶対に……絶対に嫌なの……ね。



 私の虚しさの理由なんて分かっていた。これだ。



 でも、これ以上見せつけられるのはもうだめだ。だから、これを最後にしようと決めた。



 決めたのだ。

 昨日の夜に城崎家が買って置いてくれた肉を、キーチは袋から出して網に乗せた。



 ジュウ、という音と香ばしい匂い。



 公園は子供がはしゃぎ、私達と同じようにバーベキューにはしゃぐ若者がワーワーと騒いでいた。



 誰も、私たちに注目する人などいない。



 そんな中で、私は深く息を吸った。



「あの……マイ」



「ん、なに? マイ」



 改めて考えると妙な絵だ。同じ名前だから、お互いを『マイ』と呼び合う。



 私達が混乱することはないけれど、キーチなどは良く解らないことになったかもしれないな。



 だけどね。私が『マイ』と呼ぶ度に、私という『マイ』がどんどん削れて小さくなっていく気がするんだ。



 本当だよ。

「私……キーチと不倫しているの」



 どっ。



 キーチが片手に抱えた肉を地面に落とした音だった。



「もう2年……3年目かな」



「違っ! なに言ってんだマイ!」



『マイ』という言葉に、思わず言った本人が口を覆い、妻のマイはびっくりしたように私とキーチを交互に見る。



「マーマー」



 柚希が空気を読んでか、読まずか、マイの服の端を引っ張り飲物が欲しいと意思表示をした。

「ごめん。びっくりしたと思うけど、本当なの。こうやってマイと仲良くなったのだって……。キーチを困らせたかったからなんだ。

 キーチは私と別れたいって言うから。子供が出来たから別れたいって言うんだよ!?

 言うつもりなんて無かったけど、……私だけがこんな目に会うなんて許せなくて」



「やめろ!」



 キーチが私の話を止めようと肩を乱暴に引き寄せ、マイに「なに言ってんだ木下は……なぁ」と愛想笑いにもならないほどカチコチの作り笑いで言った。



「木下、お前もう帰れ!」



「もう、マイって呼んでくれない? 奥さんと同じ名前を」



「黙れ!」



 マイは、そんな私達をただ見詰めていた。そして、「マイ……」と一言私の名を呼ぶ。

 このアバズレ! が来るか……それとも、責任とって! かな。



 どんな修羅場が待っているだろう。マイのこの表情からだったらいくらでも想像できる。



 これで、もうめちゃくちゃになる。



 なにもかも。



 私も、キーチも……城崎家も。




「知ってたよ」




 意外な返事に私は思わず「えっ」と間抜けに聞き返してしまった。



 キーチも目を丸くしてマイを見詰めている。



「全部、知ってた。だから、マイが近づいて来た時も終わらせようとしてるんだなって分かってた」



 ――違う! 終わらせようとなんて……終わらせようとなんてしてない!



 心の中での叫びは実際には声にはならなかった。



 だけど、結果的には終わらせようとしたことには変わりはない……。

「私、このお腹だし、柚希もまだ小さいし……。正直ね、夫婦生活って思うように出来なかった。私がいっぱいいっぱいで、彼を満足させることが出来なかったの。

 本当は、マイと輝一さんのことに気付いたとき……発狂するかと思うくらい嫌な気分になったわ。

 だけど、そういうのって私も悪いのかなって」



 ――え? 何を言っているの……それって、それってさ……



「輝一さんはいい父親で夫よ。でもまだ若くてモテるし、我慢させて縛るよりもちょっとくらい大目に見てあげようかなって……」



 涙が溢れてきた。次から次へととめどなく。それだけじゃない、唇も震えている。



 ――それって……


「いつから……知ってたの」



 辛うじて口にすることの出来た言葉は、情けなくなるくらい敗けの言葉だ。私は最初から負けていた。



「輝一さんに女がいることは大分前から気づいてたけど、マイだって分かったのはその指輪よ」



 ――それはそうよ。当たり前じゃない、分かるように……分かるようにしたんだから。



「指輪なんて普通失くさないよね。本当にバレてないって思った? 輝一さん?」



 キーチは黙ったままだった。


「マイ。貴方も分かるでしょ? この人は普段は堂々として余裕に満ちてるけど、案外打たれ弱いの。……だから、かわいいんだけど」



 そういってキーチを見るマイの顔は、怒りにも悲しみにもどちらにも傾いていない。穏やかな顔だった。



「わからない? まぁ……そうだよね。だってマイはまだ《独身》だから」



 もうこの場所に居ることが出来ない私は、その場から離れようとバッグを取り走ろうとした時、マイは「マイ!」ともう一度強く呼び止める。



「マイ……今まで輝一さんに付き合ってくれて、ありがとう」



 



 ――キーチは追いかけてこなかった。



 そして、私達は終わった。……ううん、最初から始まってさえいなかったのだ。



 ひとしきり走って、走って、走って、走って……。



 息が上がって走れなくなった私は、その場にうずくまり顔を手で覆い、込み上げてくる感情が抑えきれなくなったのだ。



「あああっ……うあああ……!」



 人目も気にせず、私は泣いた。通行人が物珍しげに私を見るけれど私は構わずに泣きじゃくった。



 ――この時間はなんだったんだ。私の時間は、私達の時間は……。



 私を愛さないのなら、何故抱いたの?



 愛じゃない、恋でもない。ゴールすらもない。



「ああー……んああああ」



 こうして、私の不倫は終わった。たった一人、私だけがキーチを失って。






「で、一週間の休暇を取ったんだねぇ」



 焼酎を指でまぜながら私は黙って頷く。続いて「有給の消化なんてほとんどしてなかったから問題ないよ」という。



「でもさぁ~、マイちゃん。それで職場に復帰できるのぉ」



 池袋の小さな居酒屋でミユキは私を心配してくれた。



「わかんない。無理ならやめる」



「いい具合にやさぐれてるねぇ~」



 いつものようにケラケラと笑い、ミユキは燗を一口に煽った。

「頑張ったねぇ、マイちゃん。辛いのによく頑張ったねぇ」



「……うん」



 また涙が押し寄せてくる。終わってしまった、終わってしまったのだ。



「未練……ある?」



「ううん」



 嘘ではなかった。あれだけ女としての器の違いを見せつけられたのだ。それにあの日、私は城崎家を無茶苦茶にして終わらせてやろうと思っていた。



 形はどうであれ、終わらせようとしていたものがただ終わったに過ぎない。だけど……



「キスの温度って知ってる?」



 ミユキは一瞬目を開いたけど、すぐに元の表情に戻り「知ってるよぉ」と答えた。



「ミユキの彼氏はどう? まだ温かい?」



 キーチのキスは、彼が別れを私に切り出してから冷たくなった。でも、それは気持ちの問題なのか、それとも……ただ長くいればそうなるものなのか。



「ん~? どうだろぉね、ずっとお預けさせてるからぁ」



「え、仲悪いの?」



「違うよぉ~。男の人ってね、お預けすればするほど頑張るんだよぉ~」



 ミユキの答えに私は大きなため息を吐く。



「はぁ……。あんたって、本当いつまで経っても読めないね」



「そぉかなぁ……。じゃあ特別だよぉ?」



 そう言ってミユキは突然私の顎を指で上げると、キスをしてきた。



「ちょ、ちょっと! なにを……」



「どうだったぁ? マイちゃん」



「……温かかった」



「でしょぉ? そういうことだよぉ~マイちゃん」



 ミユキのおかげで無茶苦茶に荒れていた心は大分、落ち着いた気がする。ここぞという時にいつもミユキやアンコが私を救ってくれるのだ。



「アンコちゃんはぁ? なんで呼ばなかったの?」



「……今あの子も大変な時期だから……さ。落ち着いた時にでも自分で言う」



「そだね~それがいいよぉ~」



 そう言うとミユキは、頼んでもないのに私の焼酎と、飲んでいた燗の追加を注文した。






 一週間ぶりに会社に来た私は、オフィスのドアを開けるのに大きく深呼吸をした。



 キーチがいて、もしももう無理だったら……もう辞めよう。



 大丈夫、事務なら資格もあるし……転職はそんなに難しくないと思うし。



 ――よし



 意を決してドアを開けると、春奈や佑月が私に駆け寄り心配の声をかけてくれた。



「大丈夫、大丈夫だって。病気とかじゃなくて、ちょっと実家に旅行がてら帰省してただけだから……」



 もちろん、嘘だ。



「そうなんですか~!? けど、すっごく残念なお知らせがあるんですよ……」



 露骨に悲しそうな顔で春奈が俯き、佑月はキーチのデスクを差す。



 目を移すと、キーチがデスクの上に段ボールを置き荷物を整理していた。



「部署移動、だって」



「部署……移動?」



「そうなんですよ、なんか……異動願い出したらしくってぇ」



 キーチを見ていると、彼の元に部長が近寄り「残念だけど、城崎君はうちの部署にいちゃ勿体ないって思ってたんだ。次の部署でも頑張れよ! 子供も生まれるんだろ」と背中をバン、と叩かれていた。



 キーチはようやく私に気付き、目が合った。



「あ、ちょっとコンタクトが……トイレに行ってきます」



「あれ?! 木下さん、城崎さんもう行っちゃうのに! 木下さーん!」



「木下!」



 キーチの声。オフィスを出た私を見て廊下に出てきたらしい。



「異動するんですね。今までお疲れさまでした……《城崎さん》」



「色々、すまなかった」



 色々……。確かに色々あった、色々過ぎるほど。



「異動するのは自分の意思だ。全部、俺が悪いから……な」



 誰もいない廊下でキーチは私に近づいて最後の挨拶をしたためる。

「悪いのは……二人とも、です。城崎さん」



「そう、かもな」



 ようやく、普通に会話が出来るようになったのに私達は終わった。終わっている。



「でも、最後にひとつだけいいですか」



 キーチの立つ後ろに振り返った。



「……ああ」



 最後の言葉に備えたキーチは真っ直ぐに私を見詰める。



 どうやらこの人もちゃんと終わらせる覚悟ができているようだった。

「……ッ!?」



 赤に黒の細いストライプの入ったネクタイを引っ張り、無理矢理頭を下げさせると私はキーチにキスをした。



「お、おい! こんなところでこんな……」



 キーチは慌てて廊下に誰かいないかを気にした。



 私は、今触れた唇に人差し指と中指で触れる。



「冷たい」

























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キスの温度 巨海えるな @comi_L-7

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