第12話

 


 ――ぱっつん前髪は男受けが悪い。



 他にも、真っ赤な口紅もあまりよくないらしい。



 一番に受けが悪いのはベリーショートらしいけど、さすがにそこまでする決心はつかなった。



 とりあえず、鏡で自分の前髪と口紅を確認し、あまりの似合わなさに笑えてくる。



 だけど、おかしいもので、こう何度も自分の姿を見ていると本当に似合っていないのか、似合っているのか、自分ではよくわからなくなってくる。

 こういった場合は大体、同じ女性からは「かわいい」「似合ってる」と言われるものだ。



 女子人気が生きがいであったのなら、私の人生と言うものは実に気軽なものだったのかもしれない。



 だけど、それが誰のためでもなく、キーチを試すためだけの物だった……だなんて、どうかしている。

「髪型変えたんだ? いいじゃん、口紅も似合ってる」



 微妙な反応で苦笑いでもするかと思ったのに、キーチは笑って素直にそれを褒めてくれた。



「……ありがと」



 どんな顔で私は今笑っているのだろう。



 どんな顔で、喜んでいるのだろうか。



 もしかしたら、真っ赤な唇のせいで、今の私は悪魔のように映っているのかもしれない。

キスの温度


◆12◆




「今回はさ、先に俺の口から言っておくよ」



 そんな前置きに一瞬、心臓が止まりそうなほど締め付けられた。



「……なんの話?」



 一体なんの言葉を言われるのか、赤い口紅が移った白いストローで氷をつつき、汗をかいたグラスから涼しげな音を鳴らす。



 キーチは少し間を持たせて、焦らすように手元のコーヒーで唇を湿らすと、少し真剣な表情、少しふざけた表情、どの感情もすこしずつ分けてもらったように、妙な表情で笑った。


「二人目が、出来たんだ」



「二人目?」



 二人目というワードの意味がすぐに分からず、反射的に彼の言葉を反芻する。



 キーチは、ほんのちょっとだけ困った表情で片方の眉をひそめるともう一度カップに口をつけた。



「子供だよ、二人目の子供が出来たんだ」



 本来ならば「おめでとう」と言うべき状況だけど、私は笑うことも怒ることもできず、だからといって泣くわけにもいかずただただ、固まるばかりだった。



「子供って……」



 全く予想もしていないキーチの言葉に、私の気持ちはくちゃくちゃに掻き乱され、情緒の安定を奪う。



 ――それって、あの女とセックスしているってことよね。



 訳の分からない色にごちゃ混ぜになってしまった気持ちが、ようやくまともな動きを見せたと思った矢先、出たのはこんな気持ちだった。



 

 我ながら下世話な、下品なことが浮かんでくるものだとうなだれるけれど、キーチが奥さんとセックスを今もしているという事実が、私には不快でたまらなかった。



 しかも、子供……ということは。



「生で……したんだ」



「ん、なんだって?」



 小さくつぶやいた声を聞き逃したキーチが私に聞き返すけど、言い直す気のない私はそれに無視を決め込む。

「なんで?」



 キーチは申し訳なさそうにしながらも、「なんで?」と私と問いかけと同じ言葉を、イントネーションを変えただけで丸々返す。



「なんで私には子供を作らないの?」



 その時のキーチの顔はとても印象的だった。



 なにをしていても、なにを言っても見透かしているように落ち着いているキーチが、私の言葉に驚いているようすだったからだ。

 だからキーチは少し私の問いに答えるまでに時間を持て余した。



 そのほんの少しの時間が腹立たしく、普段ならば到達しえないほどの沸点で、私は感情を露わにしてしまった。



「なんであの女には子供を作って、私には作らないの!」



「マイ……」



「それはどっちの名前!? あの女の名前!? 私の名前!?」



 キーチはどういうつもりでこの話を私に持ち寄ったのだろうか。



 どの道言えば、このように悶着がある。



 だけども言わなければ、知ったシチュエーションにより昂ぶり方が変わる。



 早めに告白したほうが吉……。



 そういうことなのだろうか。



 ともあれ、こうやって落ち着いて物事が考えられる状態ではなかった、と言いたい。

 しかし、この日のキーチはとにかくなにも言い返しても来なかったし、だからといって余裕に満ちた顔、という訳でもなかった。



 彼自身も複雑な感情でこの場にいる……そんな気もしたからだ。



「終わりにしないか」



 時が止まった。



 とことんまで今日は議論をしてやろうと、感情を昂らせていたのに、私はバケツに入った冷水を正面からかけられたように、顔と体を強張らせた。

 これまでキーチは、絶対にそれを言うことだけはなかった。



 別れを連想させるような文言は、一切なかったと言ってもいい。



 そんなキーチが私に向かって、確かに「終わりにしよう」と言ったのだ。



「え……? なんで」



 いつもの余裕ぶったキーチはいない。



 2枚も3枚も上手の、女子社員憧れの的である城崎輝一はここにはいなかった。

 いるのはただの男。



 ただの……家庭を失うことに怯える一人の男。



「……なんで。なんで!」



 私のわだかまりを含んだ叫びは、部屋の中で乾ききってしまい、真っ直ぐに飛ばず手前で落ちてゆく。



 こんなにも愛した男が、愛しすぎて憎しみに変わってゆく。

「悪いと思ってるし、マイの気の済むようにしたいと思っている。でも、もうここまでにしたいんだ」



「ふざけないで!」



 どこまで本気で言っているのか、目を見ることで知ろうと思ったけど、その必要はなかった。



 知り過ぎてしまった男の顔は、初めて私の知らない顔で俯いていたからだ。



 これまでどんなときも私を真っ直ぐ見詰めてきたキーチが、私の顔も見ずに言ったのだ。

「何言ってるの!? 絶対に……絶対、絶対に離さないから……ッ!」



 きっとキーチは私の口からそんな言葉出るとは思わなかったのだろう。



 この日初めて顔を上げて私の顔を見たのだ。



「離さないって、お前……」



「なによその顔! 私ならもっとお利口だと思った!? もっと、潔く引き下がるって思った!? 馬鹿にしないでよ……私の、私の時間を……」

 私の時間を……は、ほとんど無自覚に出たものだったが、自分の口からそれが飛び出したのに気付いて、それまでのキーチと一緒にいた時間が一瞬にして脳裏によみがえる。



「私の気の済むように……? 本気で言ってるの?!」



「……」



「黙るな!」



 キーチの肩は、急に水をかけられたように激しく一度震え、一度見たはずの顔を下ろす。

「本気さ。虫のいい話だと思っている。どうすれば僕のしてきたことを償えるのか考えたんだ。でも、自分自身ができることなんてたかが知れている……。

 だからさ、そうなったらマイの好きなようにしてもらうしかないって思ったんだ」



 キーチの姿がとても小さく見える。



 この男はこんなにも小さく縮こまるような男だっただろうか。



「私のこと嫌いになったの?」



「違う!」



 ほとんど反射的にキーチは私の問いに答えた。



 この反応ですら、本心ではないのではないかと勘繰ってしまう自分がいる。



 ――解ってる。理屈では分かっているんだ。



 本当は、キーチに家族がいて、そしてまた一人新しい家族が生まれ、本音では幸せになってもらいたいって思っている。



 彼の社会的な立場も、私自身の立場も、もろもろのことを考えればここで終わることは最善の選択だ。

 だけど、これまで報われないと知りつつ一緒に過ごした時間が、一緒に旅をした時間、ごはんを食べた時間、体を重ねた時間……。



 それらがこのたった一瞬で、全部無意味になってしまうのが許せなかった。



 なによりも私はこの城崎輝一という一人の男を愛してしまっていたのだ。



 それが私の全てであり、それを失うことは全てを失うことであると言えた。



「……」



 そして、キーチの時折私を見る目が『こんな反応をするだなんて予想外だった』と言っているのが、どうしても許せなかった。



 今まで過ごしたこのかけがえのない時間が、無意味になるのならなにもかも壊してしまいたい。その後に起こるあらゆる出来事を棚に上げて、この男の幸せをめちゃくちゃにしてしまいたい。



 私の心は今まで支配されたことのない感情に冒されたのだ。



「分かった。好きなように……ね、そうする」



「マイ、本当に……」



「私がすることに絶対、なにも文句をいわないで。それだけでいい」



 キーチがなにかを言いかけたのを遮って、私は言いたいことを言いきった。



 私の部屋には、キーチと私と、キーチのために作ったパスタとサラダだけが居座っていて、ここだけが世界の全てならいいのに。



 キーチの去った後の、手をつけなかった料理を見詰めて私は泣いた。

「おはようございます~!」



 精一杯に明るく振る舞った私の声に部署の誰もが振り向いた。



「あれ、木下さん……イメチェン?」



 部長が少し呆気にとられた様子で私に言い、次に春奈が部長の言葉の肩を潜るように、



「わあ、木下さん! かわいい~!」



 と甲高い声で言った。

「そうなんだ~。ちょっと明るくなろうかって思って、でも似合わないかな」



 後ろから佑月も加わり、「ぱっつん前髪だー! いいなぁ、私もしたい~」と妙に細い眉をハの字にして羨んだ。



「でも男受け悪いんで中々決心できなくて、……もしかして木下さん……?」



 春奈がハッとした表情で口を押さえたが、私は《Mのネックレス》を彼女に見せつけてニヤリと笑ってやった。



「うちのは理解があるんで、ね」



 私がそう言うと、春奈と佑月はパァっと表情を明るくさせて、「羨ましいな~!」と、恐らく本音の声を漏らした。



「……」



 当然、そこにはキーチが居て、私のことをちらりと横目で時々見ているのがわかった。



「城崎さん」



「な、なに?」



 キーチに向けて「城崎さん」と呼んだのは私だ。これまでの二人の関係もあり、出来るだけ職場では接点を設けないようにしていただけに、キーチの驚きようといったら、それは中々笑えるものだった。

「どうですか? ぱっつん前髪と……あと、コンタクトにしてみたんですけど。男の人ってやっぱりこういうの嫌いなんですかね?」



 部署内でも、私がキーチと話している……。いや、それだけならまだしも、私からこんな風にキーチに向けて話し掛けている光景は、珍しかったに違いない。



 その瞬間、ほんの少しオフィスの空気が変わったのを感じたからだ。



「どうなんですかぁ~あ城崎さ~ん」



 そんな空気をほんの少しでも感じつつ、春奈と佑月はおかまいなしに回答を求めた。

「そうだね……。いいんじゃ……ないかな」



 歯切れの悪いキーチの答え。



 いつもならさらりとときめく一言でも放つだけに、春奈たちはその回答に少しばかりの失望があったようだ。



 彼女たちは単純だから、すぐにそれが表情と態度に出る。



 今までにない、そんな光景を眺めてみると急に愉快な気分になった。

 さすがに真っ赤な口紅を塗って出社する気にはなれなかったけど、これだけで充分だったみたいだ。



「城崎さんなら、もっと助言くれるって思ってたのにな」



 敢えてキーチの顔を見ずに私は自分のデスクに戻り、パソコンを起動する。



 ディスプレイに光が点るまでの数秒の間、反射して映る自分の顔を見て思った。



 ――なんてイキイキとして、なんて意地悪な顔をしているんだろ。

 キーチはいつも忙しい。



 常になんらかの仕事に追われていて、ほぼ毎日昼休憩を待たずに外へと出る。



 そして、帰りも定時すれすれか、定時を超えて部署の誰もが帰ったあとか。



 それだけのフットワークの軽さと、行動力が彼の出世へのなによりの理由なのだろう。



 キーチのそんな毎日は、同じ部署の仲間であれば実に見慣れた光景だったし、なによりもそれに対して誰も疑いもしなかった。

 ……今思えば、実際にキーチが外出時に仕事ばかりをしていたかは疑問だけれど、とにかく成果を上げていたのは事実だ。



 今の私にとって、キーチのその習慣というものは、チャンス以外のなにものでもない。



 キーチがあの言葉を言ってしまったあの瞬間から、私という人間はきっと崩壊していたのだと思う。



 そうでなければ、自分がしたあの行動の説明がつかない。

 ――あの日、キーチが帰った後。



 ひとしきり泣き終えた私は、メイクが崩れた顔のまま夜風が冷える外へと、クロックスで飛び出した。



 正直、見つけ出すのは至難の業であり、数日……運が悪ければ数週間。いや、もはや見つからないことも充分考えられた。



 それでも私は決めたのだ。必ず見つけ出してやる……と。

 だからこそ、それが見つかった時にはやはり運命というものは怖い。



 素直にそう思った。



 探し始めて数時間、ほんのりと空が明るくなった朝にそれを見つけたのだった。



 それはとても小さく、どの方向に放ったのかもうろ覚えだった中、見つけてもらいたがっていたかのように、自分を主張していた。



 きらりと朝日を吸い込み、自らの光として放つ銀色のそれは、『終わりにしてはいけない』と私に語り掛けているようにさえ、感じたのだから。


 その日、キーチが戻ったのは19時を少し過ぎた頃。



 オフィスに戻ったキーチが私を見つけた時、彼は思わず短い声を上げた。



「……私がいるって思わなかった?」



「い、いや、いつもなら誰もいないから……ちょっとびっくりしただけだよ」



「おばけだと思った?」



「馬鹿だな、そんなこと……」



 キーチがタイムカードを押し、カバンをデスクに置いた時。私はキーチの肩を掴むとネクタイを引いて顔を近づける。

「マイ……ッ」



 突然の出来事に、辛うじて私の名前を呼ぶことしか出来なかったキーチの唇に無理矢理キスをした。



「ん……」



 キーチは抗おうと少し肩に力を入れたけど、すぐに諦めて私にされるがままの形になる。



 キーチの唇は、いつもと同じ感触、同じ柔らかさだったけど、今までとは少し違う。

「少し冷たくなった……」



「え……?」



「キスの温度」



 キーチの表情が少し強張った気がした。



 しばらくキーチの笑顔を見ていないことに気づいて私は急に悲しくなり、仲良くしていた頃のことを懐かしく思う。



 だけどもそれはもうどうしようもない。



 どうしようもなくなっていた。あの頃のキーチの笑顔なんて、もう私には見られないんだ。



 そんなことは、解っていたんだ。



 でも、私は言ってしまった。



「笑って」



「……え」



「とぼけた返事ばっかりしないでよ。笑って、って言ったの。そんな顔ばっかりしてないで笑ってよ!」



「……」



 キーチは黙って笑ってくれた。だけども、その無理に作った作り笑いはもはや私の知る顔ではなかった。




「もう私には笑ってくれないんだ……」



 キーチは、私に言葉をかけることも無く俯いていた。



「わかった。もういい……ごめんね」



 悲しくなった。全てが元に戻らないのなら、これ以上なにをしても無駄なんだって気づいてしまったから。



 できれば、ここでキーチが私のキーチに戻ってくれるのなら、考え直そうと思ったのに。

「これ、見つけたの」



 Mのネックレスに通したそれを見せると、キーチの顔はみるみるうちに青ざめてゆく。



「どうしたの?」



「マイ、……これ、お前……」



 言葉を失うキーチと、そんなキーチの顔をただ見詰める私。



 この顔は、見たことがないなぁ……。



 呑気かもしれないけど、私はこんなことを考えていた。



 キーチの凍り付く視線の先には、私が一度捨てたはずの指輪が光っていたのだ。





【続く】

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