第11話
だけど、朝は来てしまった。
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キスの温度
◆11◆
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夢が醒めるのは意外と早かった。
早いことは分かっていたのだけれど、思っていたよりもずっと、ずっと、早かった。
目を閉じると、一瞬一瞬がついさっきのように想い出せるのに、目を開けても想い出の中の景色は閉じていた。
私は、目を閉じているのか、それとも開けているのか、混乱しそうになる。
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「全部、夢だったのかな」
東京に向かう新幹線、空はほんのりと茜色になり、あと数十分もすれば到着するだろう。
だけど、それは同時に私達の旅の終わりを意味する。
つまり……キーチは家にかえってしまうのだ。
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私のぼそりと呟いた言葉に、キーチはまた黙ってしまった。
その顔は、困っているというより、寂しそう……な顔で、なんだか今の私と同じだな……なんて思ってしまう。
「ごめん、困らせたらダメだーって……ね」
おふざけで空気を打ち消そうとするが、落ち込んでいるのは私の方だ。それが上手くできるはずもない。
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「じゃあ……ここで」
キーチも名残惜しいのか、駅から私の手を握ってしばらく離れようとしなかった。
行かないの? と聞いても良かったけれど、その一言を言えばこの旅が終わってしまうと思うと言えなかった。
「家に帰るまでが遠足……ってね」
キーチは笑う。そして、私の顎を軽く指で上げるとキスをしてくれた。
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キーチは帰ってしまう。
私だけのものだったキーチがまた、あの女の元へ帰ってしまう。
「……帰らないで」
「また、行こう」
キーチは私の「帰らないで」という言葉の答えを言わず、わざと建設的な言葉で返した。
分かっている。決して敵わない願いなのだと。
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山の手線に一緒に乗らず、時間を遅らせるのは私達の中では通例となっていて、家までの駅を二人で帰ることなんてありえなかった。
単純にそれはキーチの立場が悪くなるからだったけど、それを最初に提案したのは私。
気づけばいつでも私が勝手にキーチに気を使って、妙なルールばかりを作っていたみたいだ。
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……キーチの薬指は、指輪の跡だけを残してなにもつけてはいなかった。
私がキーチの指輪を捨てた日から、二人で会う時に指輪を外すようになった。
罪悪感はあったし、とんでもないことをしてしまったという気持ちもある。だけど、それよりも爽快感の方が勝っていたのかもしれない。……いや、『やってやった』という爽快感の方が強かった。
だから、キーチがあの家に帰るということは、またあの女にキーチを奪われたと錯覚してしまうのだ。
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先に私が電車に乗り込み、キーチが見送ってくれる。
精一杯笑って見せるけれど、ちゃんと私は笑えているのかな。
「じゃあ、また明日。会社で……」
「うん」
肩から掛けたバッグがやけに重い。この夢の数日間がこの中に全て詰め込まれているんじゃないか? そう思うほどにバッグは重かった。
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駒込の駅で降りると、急激に現実へと戻された。
知っている景色、見慣れた光景、何も見なくともどこにでも行ける土地感……。
たった一日、たった一日しか留守にしていない。
この景色が懐かしくなるはずもない。だから、正気になるのも早い。
――やっぱり、夢だったんだ。
私には、この旅は夢だったのだ。それほどに一瞬の幻、一瞬で過ぎ去る夢。
寝て、起きたら醒めている。ただそれだけのこと。
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もしも、この旅が一週間まるごと過ごすものだったら違うかった?
そんなことはない。それどころか、旅が長引けば、一緒にいる時間が長引けば、私は本気でキーチを帰したくなくなる。
私だけのものにしたくなってしまう。
そうなってしまえば、この旅は想い出では終わらない。現実が夢になってしまう。
愚かなことだ。だけど、その愚かなことこそ、私の求めるものなのだ。
だとすれば……
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「まーちゃん」
私の脳を、身体を、完全に現世に引き戻したのはキーチではなくその声だった。
その呼び方、この声、体中の体温が奪われる感覚。
「有……」
有は私の部屋のドア前に立っていた。
「旅行……? 俺になんにも言わないで、冷たいじゃない」
ちゃりちゃりと、鍵が沢山ついたフックを指で回し、明るく振舞いながら言った。
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私は無言で、ドアまで歩くと家の鍵を出し鍵穴に入れた。
「ちょっと、無視すんなよ」
鍵を回そうとした私の手を掴むと、有が低い声で言う。
「馬鹿にしてんのか? 急に連絡取れなくなったと思ったら変な電話かけてきて一方的に別れたいって。こういうのって順序があるんじゃねーのかよ」
「……ごめん。謝ったからいいでしょ」
内心は心臓が破裂しそうになりながら、私は何事もないように装い手を掴まれたまま無理矢理鍵を回し、ドアノブを握る。
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「よくねえだろ!」
「ッ!?」
強く手を引かれ、ドアから引き離された私は外側の柵に強く腰をぶつけた。一瞬、なにが起こったのかわからず茫然としていると、有は部屋のドアを開けて私を無理矢理部屋に押し込んだ。
「ちょ……有、落ち着いて!」
「うるせえな! 収まるかよ!」
ガチン、と鍵を閉めると有は私をそのまま廊下に押し倒すと強く頬を掴むと無理矢理キスをしてくる。
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――やめて……さっきキーチとキスしたばっかりなのに……!
キーチと重ねた唇が、有に汚されているような気がしてすごく嫌な気持ちになるのがわかる。
「んーーっ!」
やめてほしい気持ちを叫ぼうとしたのに、言葉が出ない。有が私の口を塞いでいるからだ。
「――ッ!?」
ふとももの間を割って、有の手が強引に侵入する。
「ん、んっ、んーー!」
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キーチが喜ぶと思って、スカートを穿いてきたのが裏目に出た。
有の手がそこにあてがられた時、既にそれを隔てるのは下着のみでどれだけ抵抗しようとも、すぐにその手は直に小さな丘に辿りつき、通り道をなぞりはじめる。
「ん……ふ、う……」
気持ちにスイッチが入っていなくても、私の身体を知りつくしている有の手は、容赦なく私の弱い部分を執拗に刺激し、そのたびにおきに打ち上げられた魚のように身を捩って応える。
自分の快楽に溺れ敏感になってしまった身体を呪った。
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「どうせ男と旅行だったんだろ? こないだの電話だって……お前がこんなどうしようもない変態女に変貌してるとはなァ!」
有は怒りに任せて激しく指先を動かし、身体の内部を掻き回されるような激しい感覚が私の全身を支配してゆく。
「ほら見てみろよ! ちょっと触っただけでこれだ。今までやった女の中でもお前は一番好き者だぜ」
ぐっしょりと濡れた手を見せつけられ、私の頭は既にボー……としていた。他人事のように濡れた有の手を見詰めて、「そうなのかな」と思っていた。
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今までこんなに乱暴なことをされたことはない。私がそういうのが嫌いだと知っていたからだし、私を大事にしていてくれたんだな……とも思った。
だからきっと、有の中で私という人間がどうでもよくなったのだろう。
昔は、気持ちがなければ身体が反応する……なんてことはなかった。だけども、悲しいくらいに私は裂け目から、欲望をだくだくの液体に変えて噴出させたのだ。
この旅行で、キーチは私を抱かなかった。
私はもしかして、キーチに抱かれることを期待していたのだろうか。
キーチにこうされることを。
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唐突に喉元を何かが押し入り、先端がゴリゴリとあたる。
私は口の中になにが入ってきたのかを考えなくても分かったし、大人しくこれに従えば早く終わるのだということも知っていた。
だから、有の求めることをしてやったのだ。
「う……やっぱりお前クソ変態なんだな! 他に男がいようがお構いなしで銜え込むのかよ! 信じられねえぜ」
思いつく限りの罵倒を浴びせながら、おそらくはそれを浴びせれば私が興奮すると思っているのだろう。
だけど、私の考えていることといえば、有とちゃんと付き合っている時から変わらない。
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――キーチのはもっとおいしい。
頭を抑えつけられ、激しく揺さぶられるたびに狭い空気口から水が飛び出る音。
顎はそのたびに垂れる体液でぐしょぐしょになりながら、私の思うことと言えば……
キーチ、キーチ、キーチ、キーチ。
鼻の周りにまとわりつくアンモニアの匂い。この特有の匂いはどの男でも同じだな。
きついか弱いかの違いはあるが、それ自体はあまり変わらない。
それが逆にキーチを思わせた。
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だからこそ、キーチのことがいつまでも頭を離れない。
ずっと、ずっと、有と何度セックスしても、私の頭の中はキーチのことばかり。
――ああ、私はなにも変わっていないんだ。
妙な安心感が私を包んだ。
「リベンジポルノって知ってるかよ……」
有の言葉。
息苦しくて、眉をひそめながら有を見上げると携帯電話を私に向けている。
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――撮ってる……?
「これをお前の男に送ってやるよ」
有の顔は、見たこともない冷徹な笑みで言っているそれが本気なのだと知った。
「んっ……!?」
それは困る……! 絶対にイヤだ!
「ん、んぷっ!」
喋られない、口から話そうと抗うけれどそれも空しく力で抑えつけられ発言の自由が制される。
「先に裏切ったのはお前だからな」
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有は携帯を構えながら息を荒らげていた。
この状況に興奮しているみたいだ。
――これだから男って……。
咄嗟に思ったが、そんなくだらない男たちの中にキーチは入らないな、……でも、キーチにならなにをされても……。
こんな状況なのに相変わらず馬鹿だな、なんて思いながら有の携帯から撮影を知らせる音を聞きとり、目を逸らす。
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――けれど、この動画をキーチが見たら、一体彼はどんな反応をするのだろう。
有とのことをあの人は知っている。知っている上での再縁だったし、その罪滅ぼしの旅だったのかもしれない。
じゃあ、もしも私がこんなことをされているのを知ったら?
終わるかな?
終わるのはやだな……。
だけど、だけど……キーチはどうするのかな……。
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乱暴にそれから口を離され、胸元を引っ張られて立たされると、スカートを捲られる。
この体勢、キーチも好きだ……。
カメラ越しにキーチにみられると思うと、私はいつしかキーチとセックスをしている気になった。
キーチとセックスしているのを、キーチに見られている感覚。
この非日常の状況に、私は興奮しているのに気付いた。
「挿入れて……お願い……キーチ」
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キーチという名前を聞き、直感的にそれが誰のことを指しているのか気付いた有は、不機嫌そうに顔を歪めながら、荒々しく後ろから責め立てた。
ばちん、ばちんと激しく打ち付ける度に何度も壁に頭をぶつけそうになりながら、カメラに向かって「キーチ」と呼ぶ。
「くそ……くそっ!」
有が悔しそうに私の肌を叩き、真っ赤になっているのがじんじんとした感覚で見なくても分かった。
「お前の女はお前以外の男とヤッてもこんなにぐしょ濡れにして喜んでんだ! さっさと別れた方がいいぜ。俺はもうごめんだけどな!」
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あっあっ、と私の口からは快感に染まった泣き声のような声が漏れ、それは止めたくても止められないでいた。
――そういえば、ゴム着けてないな。
「おら! 出すぞ!」
有の脅したような言葉に、またキーチと重ねた。
どうせなら、絶対にキーチがしないことを言ってみようか……。
私の中の何かがそう囁いたのだ。
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「中に出して……」
「え?」
「全部、全部全部中に出してよ!」
思いついた瞬間、声に出して言っていた。ほとんど無意識だったと言ってもいい。
家庭を持つキーチには絶対に出来ないこと。
ゴムなしでは絶対にシないキーチが、私にしないこと。
心の中で、後の事なんてどうでもよくなっていた。
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「……うっ、うああ!」
……叩かれた部分とは違う所に熱い何かが迸る。それが有の欲望と支配欲の塊だということは、考えなくてもわかっていた。
――結局、中には出さなかったんだ。
「はあ……はあ……」
果ててしまった後の有は、息を荒くするだけで喋らなかった。有がどんな気持ちなのか、そんなことはもうどうでもよくって、それを考えるだけの価値はこの男には失ってしまった。
「…………意気地なし」
冷たいフローリングの床に、その言葉だけが転がっていた。
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その後、有は私の目の前で今撮った動画を消した。
撮っていた時は本気でそれをキーチに送りつけようと思っていたらしいが、思い直したらしい。
「お前とはもう関わりたくない」
そう言い残して有は私の部屋を後にした。
返事も返さずに、ぬるぬるになった床の上で私は……茫然としていた。
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誰もいなくなった部屋。
違う……もしかして、最初から誰もいなかったのかもしれない。
この私ですら。
そう思うとなんだか笑えてきた。
「ふふふ……あは……」
どたん、と重い音を立てて後ろに倒れ込み、笑った。
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「あはははははっはっはっはっ、くく~」
笑った。しこたま笑った。お腹が痛くなるほど、思いっきり笑った。
「く~……うっ、うぅ……」
笑いすぎて涙があふれる。止めどなく溢れてゆく。
目から耳の後ろに向けて髪の毛の中で溶けてゆく涙が、徐々に私の頭を覚ましてゆく。
――この世界の人間なんて、みんな消えていなくなればいいのに。
それを馬鹿げたことだって、叱ってほしいのに。
なんで貴方はいないんだよぉ……キーチ……。
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疲れてる? 久しぶりに会ったミユキが聞いた。
まあまあかな。 ミユキに下手な嘘を言っても、持ち前の勘ですぐ見破られてしまうことを知っていた私は、曖昧な半分嘘で、半分本当のことを言った。
「マイちゃん、すぐに無理するから。ミユキは心配なんだよぉ?」
おっとりとしたいつもの調子で、ミユキは珍しくワインを注いでくれた。
「疲れるような仕事がおありでようござんすねぇ……うひっひっひっ」
やさぐれた瞳で恨み言を漏らして見せるアンコはキッチンの隅でカツのお菓子をはむはむと噛んでいる。
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「あんた、まだ仕事見つかってないの? よく生活出来るね」
「うぇっへっへっ、細々とアルバイトしつつ社員時代の貯金を食いつぶしているんでゲスよ……ぐす」
やさぐれ男のマネをしながらふざけていたアンコも最後の方では泣いていた。
「……あんたを見てるとホッとするよ。どんなに苦しくてもあんたよりは幸せかな……ってね」
「なぬ!?」
アンコの目が光り、飛び上がると私に飛び掛かってくる。
「今日と言う今日は許さないかんね、マイ!」
「なぁに? あんたまだ私に勝とうと思ってんの!?」
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アンコは携帯を出すと真剣な眼差しで私をみつめると「ふっふふ、私の秘密特訓の成果たるものを思い知らせてあげる」と自信満々で顎をあげた。
「い~い度胸じゃない」
私も携帯を出すとアプリを起動する。
「勝負!」
今流行りのパズルゲームのスコア合戦を始める私とアンコを見て、ミユキがキューブチーズを頬張りながらニコニコとそれを見守った。
「すごいねー。みんな、ゲーム得意なんだねぇ」
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このひと時が、有のこともキーチのことも唯一忘れられるかけがえのない時間だ。
私にはもう行き場も逃げ場もない。ううん、逃げる場所はあるかもしれなかったけど、どの方向に走っていけばいいのか分からなかった。
「マイちゃん。悩み、あるんでしょ?」
スコアを千切られて三角座りで落ち込むアンコを余所に、ミユキは私の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「マイちゃん、いつも無理ばっかりするから」
同じことを何度も言っているはずなのに、ミユキの言葉は何故だか重かった。
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「……それって、ふ……ふり……風鈴……」
「不倫、だよねぇ。マイちゃん」
私の話に驚いて言葉にならないアンコと、平気な顔でさらっと言ってのけるミユキのギャップがおかしい。
いつもは天然キャラのようにニコニコしているだけのミユキは、こんな時はいつもどっしりと頼れるお母さんのようだ。
お母さんのようだから……今まで言えなかった。
「そっかぁー。不倫かぁー……、マイちゃんを夢中にさせるなんて、よっぽどいい人なんだねぇ」
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ミユキの言葉に私は涙が溢れそうになったけど、なんとか耐えることが出来た。
ミユキは意外となんでもはっきりというけど、基本的に否定はしない。
「でもねぇ、マイちゃん。不倫って多分……思いっきり相手を不幸にさせるか、思いっきり自分が不幸になるかじゃないと、終わらないんだよぉ?」
心臓が止まるかと思った。
その言葉はこれまでの誰の言葉よりも、重く私の肩にのしかかるようだ。
「本人たちはいいんだけどねー……。誰も幸せにならないからさ、その内ちゃんと終わらせなきゃだめだよぉ」
ミユキはそれでもニコニコとした表情を崩さずに言った。
大丈夫……ミユキがまだ笑っている間は、きっと私は大丈夫……。
キューブチーズに手を伸ばすけど、バスケットの中は空だった。
【続く】
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