第10話




 眠っている時に着信が鳴った。



 テラテラと暗い部屋の中で光るそれは、サイレントにしていて光ですら着信を知らせていなかった。



 私がそれに気付いたのは半ば奇跡にも近いものだったけど、それでも私は気付いたのだ。



 隣で眠るキーチの寝顔。これは私だけのものなんだ。



 お前のものじゃない。お前だけのものなんかじゃない。

キスの温度



◆10◆






 



「下呂温泉?」



 素っ頓狂の声で聞き返したのは私の方だ。



 何度かどこか旅行に行きたい、だなんて言ったことはあるけれど、それが叶うと思ったことなどなかった。



 キーチとの旅行というものは、いつでも私の妄想の中でのことで、そんなことがあるわけがないと思っていた。

「そう、昔社員旅行で一回行ってさ。っていうかマイもいたっけ?」



「う、うん……いたけど」



 声を上ずらせて、返事も上の空の私はキーチの言ったことがいまいちまだ理解が出来ていない。



 確か、この人は……【一緒に旅行に行こう】って私に行った気がする。

 私のノートパソコンで、下呂温泉のことをあれこれと調べているキーチは「飛騨牛とか、飛騨高山とかさ……結構、好きなんだよね」といつもと変わらない様子で話した。



「ね、ねぇ……。旅行に行くの? ……ううん、《行けるの》?」



 キーチは振り返ると私ににっこりと笑う。彼の笑顔はどんなに卑劣で残虐な悪人や犯罪者のあらゆる手口よりも、よっぽど卑怯だと思った。それほどまでに私の中の感情を全て奪い去ってゆく。



「行けるの、じゃなくて……行くんだよ」


 嘘みたいな話に私は驚くより先に涙が溢れてきた。止めようとしても止めどなく溢れる涙を、掌の腹で拭い耐えようとするが、私の意に反してヒック、ヒック、と情けない嗚咽が口から洩れてしまった。



「お、おい、どうしたんだよ? 嫌か? 嫌だったか?」



「ばかぁ……! 違うもん……、嬉しいんだもん……!」



 私の視界は涙で滲んで、晴らそうとするたびに拭うけれど、全然視界は晴れない。だからキーチがどんな優しい顔で、いるのか分からなかったから想像するしかなかった。

「そうか、嬉しいのか。奇遇だな、俺も……今からすっげぇワクワクしてる。マイと行く旅行に」



 想像のキーチはとても柔らかく笑っていて、本当に優しく温かい目を細めて、私を見詰めているのだ。



 そして、そのまま私の前髪をあげるように頭を撫でて、優しく両手で抱き締めてくれる。



 実際はというと、なんのことはない。全部、私の想像通りになった。

 キーチは私を抱き締めて、耳たぶを軽く噛むと耳元で言う。



「その日はどこにも帰らないんだぜ。ずっと一緒だ」



 嬉しくて涙を流すことなんて、生きていてそう何度も何度もある訳じゃない。



 だけど、私はキーチに出会って、キーチにだけ嬉し涙を経験させてもらった。



『どこにも帰らない』この響きが、私をどれだけ救っただろうか。

 朝に来て、ほんの1時間と少しだけ一緒に居れる。



 たまに……最近は本当にたまにになってしまった……。夜に来ること。



 時折、出し抜けにやってくることもある。



 それもこれも、キーチに家族がいるからだ。



 奥さんも、子供もいる。

 本当なら、幸せの絶頂なんだろう。



 だけど、キーチは私の元へとやってくる。



 だから……きっとキーチは私が必要なのだ。もちろん、家族も家族で必要なのだと思うけど、そういうことじゃない。



 天秤にかけてはいけないのだ。少なくとも、私が彼女や子供と自分を。



「奥さんと私、どっちが大事」



 それをもし、聞いてしまったら私は終わる。私達は終わってしまう。

 ――どこかに連れて行って。



 それがどれだけ無神経なお願いかなんて、分かっていた。



 でも冗談でたまにキーチに言っていたんだ。



 そんな夢みたいなことが叶うはずない、と思いながら。



 キーチを愛していた。でも私は怖れていた。終わってしまうことをなによりも。けれどそれは『キーチが怖い』と言い換えることも出来るのだと、私は気付かずにいたのだ。




「お迎えにあがりました。姫」



 私服姿のキーチ。それだけなのに私は性懲りもなく胸が騒ぐ。



 肩からは少し大き目のバッグを持って、明るめのグリーン色のロングTシャツに、黒のジーパン。そしてダークグレーでストライプの入ったジャケット。



 普段はかけないファッションレンズ。


「……惚れ直した」



「なんで? まだなんもしてないじゃん」



 まんざらでもなさそうに笑ったキーチは、手を差し出して「下に馬車をつけております。黒く大きな馬ですが、気性は穏やかですので道中ご安心ください。あ、ちなみに名はタクシーと申しまして」真顔で言おうとしていたキーチだったが、途中で笑いを堪えているのを見て、私もつられてわらってしまった。



「笑ってんじゃん」



「っかしーな。練習したんだけど」


 旅行に行ける理由は単純で明快だ。



 むしろ何故私が今までそれをせがまなかったのかと、今更笑ってしまったくらい。



 有給を取った。それだけ。



 一泊二日の予定の旅だけど、それでも私には充分過ぎた。



 差し出したキーチの手を取り、「よきにはからえ」とおふざけに乗ると、キーチは嬉しそうに「それでは参りましょう、姫」と懲りずにふざけ続ける。

 東京から、名古屋まで約1時間半。名古屋から下呂まで更に1時間半。



 朝に出たので、午後前にはつくことが出来た。



 新幹線や電車の車窓からめくりめく変わる景色を見ていると、自分が東京からどんどんと離れて言っている自覚が沸いてくる。



 そして、隣には常にキーチ。



 胸が躍らないはずない。

 どきどきと安らぎと癒し、と刺激。



 色々な物が代わる代わる私に訪れ、最終的にそれは混ざり合って幸福の色に変わっていく。



「このまま遠くに、もっと遠くにキーチと行ってしまいたいな……」



「……」



 ぽつりと呟いた言葉にキーチは答えなかったが、私は独り言だということにして気にしないことにした。

 この度にお題目をつけるのならやはり『不倫旅行』ということになるのかな。



 ……いや、きっとそうなのだろう。



 不倫のスリルがたまらないという子。不倫はあとくされがないからいいという子。



 お互い遊びだと自覚しているから遊びやすいそうだ。



 じゃあ、もしも私がどういうつもりかと聞かれたらなんと答えるべきだろう?

 下呂駅について、宿からの向かえのバスが来た時にそれらはみんな消えた。



 今はこの旅を私達の最高の想い出にすることだけに専念しよう。



「この季節の高山はいいですよ。紅葉が綺麗ですし、平日なので観光客もいい具合に少なくて、尋ねやすいと思いますよ」



 部屋を案内してくれた仲居さんが笑ってそう話し、「いい時期にきたな」とキーチが私に話しかけた。

 部屋は、すごくいい部屋なわけではなく、よくある旅館の一室……といった感じだった。



 四角いテーブルの上には新聞と館内サービスの冊子、茶菓子と急須が置かれてあった。



「こういうの真っ先に食べるタイプ?」



 キーチが茶菓子を手に取り、聞いてきた。



「子供の頃は、そうだったかな。大学出てからは旅行なんてあんまりしてないし、行ってもホテルばっかだったから」」



 

 キーチのカバンの横にバッグを下すと、バッグの紐がぺたん、とキーチのカバンの上にもたれかかった。



 それを見てなんだか私はまた嬉しくなって、胸がきゅっとする。単純なのかな、意外と私は。アンコのことをどうこういえないな。



「マイ。お茶ちょうだい」



「はーい」



 急須の中に、置いてあった緑茶のパックを入れポットのお湯を注ぐ。それを待っている間、キーチはテレビのリモコンを触ったり、冊子を手に取ったりしていた。

「落ち着かないの? 珍しいね」



 その様子を可愛らしく思い、声をかけるとキーチは口を少しとがらせて



「緊張してんの! 俺だって」



 緊張という思わぬ言葉に私はきょとんとしてしまった。



「緊張? キーチが?」



「……マイとふたりっきりの旅行だって思ったら、嬉しくなっちゃってさ」



 珍しく私たちは無言になった。



 客室で沈黙が走り周り、なんとか黙らせようと湯呑にお茶を注いだのをきっかけにして私は尋ねる。



「この後、どういう予定?」



 差し出したお茶をずず、と音を立てて飲み「疲れてない?」と尋ねた。



「大丈夫」


「じゃあ、今から高山に行こうか」



「今から!?」



「いっぱい遊ぼうぜ、マイ」



 私はわざとため息と吐くと、しょうがないなー……と苦笑いをしてキーチの提案に賛同した。だけど、本音はいつもよりテンションを高くしているキーチにずっと胸が鳴りっぱなしだったのだ。


「行ってらっしゃいませ」



「行ってきます」



 キーチと「行ってきます」がハモってしまい、玄関を出た直後顔を見合わせて笑った。



「今ハモったよな」



「どんだけはしゃいでるんだろ、って思われたかも」



 私達は笑い、下呂駅まで歩き温泉街の景観を楽しんだ。

 どの景色のどの表情も、キーチと一緒に歩くだけでこんなにも違って見えるものなのか……。私はこれまでの人生で一番この旅が楽しいと、はっきりと言うことが出来る。



 大学の時に女子だけで行ったディズニーリゾートも、家族で行った北海道旅行も、修学旅行で行った京都、長崎なんかよりもずっと、ずっとずっと楽しい時間だった。



 見たことも無い景色と、見たことも無いキーチ、見たことも無い私の顔と、体験したことのない幸福感。この全てが永遠であると信じたかった。



 ううん、信じていたし、疑わなかったんだ。



 これが、永遠なんだって……決して終わることなんてないって……

「乾杯~」



 昼間から飲むお酒というのはどうしてこんなにも背徳的で、それでいて美味いのだろう。



 日本酒の試飲や、お土産屋さんと並んで出ているお団子屋さん。



 ここには誘惑が多すぎる。



 小京都と呼ばれるだけあって、古民家というか長屋というか、古めかしい景色も日常から施行をトリップさせてくれて、私は興奮した。


 カップに入ったビールを二人で乾杯し、生わさびが添えられたざるそばと飛騨牛のコロッケ。



 普段はあまり進んで飲まないビールでさえ、最高に美味しかった。



 ……う~ん、これからビールもありかも。



 おそばもコロッケも美味しくて、「うまいなこれ」といいながら舌鼓を打つキーチを見ていて私は満足だった。



「……来て良かったろ?」



「うん」



 特別なことなどなにもしていないが、キーチと共にこうやって街を歩いて、ごはんを食べて、それだけで私はこんなに満たされている。



 夢に見たけど、いつかは……いつかは、と思っていた光景が、こんなに早く現実になるだなんて。



 ふふ、と笑った私がふとテーブルの向かいに座るキーチを見ると彼はじっと私を見ていた。

「なに? なんかついてる?」



 直視されているのはきっと、コロッケの食べかすでもついているのではと、手をぺたぺたと顔に当てた。



「いや、お前は本当にかわいいよな」



 顔から火を噴きそうになり、慌ててビールのカップを取り照れ隠しにそれを飲み干した。



「おいおい、今から潰れたら勿体ないぞ」



「……潰れるわけないじゃん! まだまだこれからなんだから……!」

 旅館に帰ったのは、空もすっかり暗くなった19時前。



「おかえりなさいませ」と迎えられ、笑顔とお辞儀で部屋に戻るとすぐに仲居さんが部屋にやってきた。



「お料理のご準備をさせて頂きますが、よろしければお風呂はいかがですか?」



 キーチと顔を見合わせて、頷きあうと「じゃあ、そうします」と答えた。



 仲居さんが、消えて浴衣とタオルを持つとキーチは私の手を取り、「一緒に行こっか」と誘ってくれる。私は、彼の手をもう片方の手と、両手で掴みながら「うん」と一言だけ答えたのだった。

 夜の露天風呂は風流で、それでいて少し肌寒い風が気持ちよかった。



 湯船に浸かるまでは、寒かったが体を温めてからは純粋に風邪を楽しむことが出来、今日一日で何度も思ったが、自分が今旅行に来ているのだと再確認する。



「はぁ~……良い気持ち……」



 ――私は、これ以上のことを求める日が来るのだろうか。



 有と付き合い、キーチとの関係を清算しようとしたのに、キーチはそれを許さなかった。

 それはなぜ?



 セフレが惜しいのか、都合のいい女が惜しいのか、……それとも本当に私のことを好き?



「わたしのことが好き……」



 ぶくぶくと泡を吐き、私は顔の半分を湯船に沈め、温泉の香りを鼻に感じながら、キーチの私に対する気持ちを考えた。



 だがキーチの気持ちはどうであれ、私の中でただひとつはっきりしていることがある。



 しかもそれは致命的にどうしようもない、もう私ではどうにも出来ないほどに大きく膨れ上がっていた。



「わたしは……キーチが好き」



 浴衣に着替え、脱衣所を出るとキーチが頭にタオルを乗せて待っていてくれていて、私の姿を見ると片手を上げて笑った。



「さすが三大名泉だね、いやー癒された癒された」



「だね」



 来た時と同じように手を繋いで、部屋まで帰る。同じ場所に帰る……というのが、嬉しいことなのかもしれないな。そんな風に思ったのも初めての事だった。

 部屋を開けると私達はまた二人で「わぁ~あ」とハモった。



 引き戸を開けて広がったのは、テーブル一杯に並んだ懐石料理。この時の私はきっと、漫画のようにキラキラとした目をしていたのだろう。……自分でも分かった。



「お刺身に、牛すき、天ぷらに煮魚……たまらん」



 明らかにテンションが上がっているのはキーチも同じようだ。



「キーチは驚くことないでしょ? だって、出張とか結構いってるじゃん」


「馬鹿、出張と旅行は全然違うだろ? 勤続10年経つけど温泉街に出張したことなんてないよ」



「そっか、そうなんだ」



 私はテーブルの側に置かれていたとっくりを取り、キーチに差し出しお酌してあげた。私がキーチのお酌をすると、次はキーチが私にお酌をしてくれる。



 テレビのよくあるドラマや、旅番組でよく見る光景だけど、このベタなやりとりはやはり旅には必要なものなのだと私は思った。



「お疲れ様」



「……お疲れ様」



 キン、と可愛げのある音を鳴らせて乾杯し、日本酒を一口飲むと……これまでの疲れや悩みなどが全て吹き飛ぶような爽快感を感じる。

「ぷはぁ」



「お、いいねぇ。姉ちゃん、いけるくちだねぇ」



 いちいち乗っかかってくるキーチもいつもと印象が違うくて、この世界にはきっと私達しかいないのだと錯覚すらさせる。



 料理も最高だし、温泉も良かった。キーチもいるし、キーチが帰ることを心配しなくてもいい。



 ただ1つだけ悩みがあるとすれば、……この時間が明日には終わってしまうということだ。

 そんな気持ちが表情に出ていたのか、キーチは食べかけたエビの天ぷらをを更に戻し、箸を置くと私を見詰めて言った。



「帰りたくないか?」



「……」



 黙って俯く。私は素直に首を縦に振ることが出来なかった。もうキーチを困らせたくない。帰りたくないとわがままを言って、嫌われたくない。



「そうだよなぁ。帰りたくないよな……ここは天国だ。……よし、もう帰るのやめるか?」



「……え?」



「だからさ、二人で会社辞めちゃってさ、この辺で二人で暮らそうかって言ってんの」



 冗談で言っているのかと思ったけど、キーチの表情はいつもと変わらない表情で、少なくとも私をからかっている風には思えない。



 からかっていないのなら、慰めでいっているのか……。それとも、本気で……



「どうする? マイ」



 おちょこに残ったお酒を私は飲み干して、キーチを見つめ返す。やっぱり綺麗な顔をしている。この男はやっぱり、アイドルなんだな。……なんて。

「ううん。また、きっと……いつか旅行に連れて行って。今はまだ……それでいい」



 今はまだ……という言葉を、キーチはどのように思ったのか分からない。



 だけど、私はキーチが必要だ。根拠はどこからか……その時はわからなかったけど、二人で生きていこうというキーチの言葉を今、受け入れてはいけない。



 それだけはなんとなくわかった。



「そうか、じゃあまた行こうな」



 キーチが再びエビの天ぷらを食べ、尻尾だけを皿の端に避けているのを見ると、あの尻尾がもしかしたら私なのかもしれない……。



 楽しいだけの旅行の途中で、何故かこの時だけはそんなネガティブなことを考えてしまった。



 私は、食べられなかったエビの尻尾……。




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