第9話
キーチは突然やってきた。
ドアを開けた私の顔を見たキーチは怪訝な顔で私の顔を少し見詰めて、一瞬無言になった。
「なんで化粧してんの?」
やっと口を開いたかと思えば、こんなことを言われた。
「……なんでって、いつも化粧はしてるじゃない」
「そうだけど、この時間はいつもまだ化粧終わってないじゃん」
キーチが来たのはもちろん、いつも通りの朝。出勤の一時間くらい前。
すっぴんではない私の顔を見て、キーチは不審に思ったのだろう。
だけどもはやそんなことはこの男には関係ない。
「悪いけど、部屋には入れられない」
「なんだよそれ、どういう意味だ」
キーチはあからさまに機嫌を悪くして、片方の眉を下げ壁に肘を持たれかけて言った。
「これは?」
ドアの隙間を繋ぐチェーンロックを不快そうに指差し、キーチは苛立ちながら聞く。
「……見ればわかるでしょ。もう終わり。今日からただの上司と部下……一番最初に戻るだけだから」
「……男か」
ぴくん、と私は肩で反応した。
それを見逃さなかったキーチは、ふっと鼻を鳴らしてわずかに笑う。
「分かったよ。じゃあ終わりにしよう。……実は俺もさ、そろそろこんな関係、清算しなきゃって思ってたんだ」
「……そう」
私はまともにキーチの顔を見ることができなかった。
自らこの展開に持って行ったはずなのに、心が張り裂けそうに痛み、言葉を発することすら困難になる。
そしてキーチはドアの隙間から手を差し出し、柔らかな口調で言うのだ。
「今までありがとう。いっぱい悲しませてごめんな」
「……」
差し出された手を握る。おそらく《最後に握手で別れよう》ということなのだろう。
だけど、手を握るとその懐かしい温もりにまた胸がときめいてしまう。
「あのさ、自分勝手だと思うんだけど……最後にわがまま言ってもいいかな」
キーチは照れ臭そうに少し小さな声で、笑う。
「……なに?」
「最後にキスさせてほしい。それですっぱり終わりにするから。俺の中でケジメってことにするからさ。お別れのキス……駄目かな?」
握る手に力が入る。この強く握った手の力で、キーチは『お願い』と意思表示をしているのだと分かった。
本気の本気で彼を拒絶していたなら、キーチを、嫌いになれたとしたら……私は彼の提案を受け入れることはなかったに違いない。
だけど、有と付き合ったのはキーチを忘れるためだけ。
有には悪いけど、キーチを忘れられたら……それだけの関係。
だから私はキーチとキスがしたかった。最後くらい、ちゃんと自分に正直でいてもいいよね。
私は「分かった」と一言言って、チェーンロックを外し、再びドアを開ける。
ゆっくりと開けるとキーチはドアノブを持った私の手を引き、自分の元へ引き寄せると唇を重ね、上唇を割って口内を粘膜と粘膜を混ぜ合わせた。
「ん……ふぅ……」
キスの温度……明らかに有とは違うこの温度……。
これが最後なのか……。
ガチャリ
キーチのキスに意識を奪われていた私は唐突に耳に入ったその音に正気に戻った。
「なに……?」
キーチのキスに夢中になって彼が私をゆっくり押しながら、玄関に入ってきていたことに気付かず、内側から鍵を閉められたその音でようやく状況が理解できたのだ。
「……え」
戸惑う私を押し倒し、玄関からリビングに伸びる廊下でキーチは私の上に被さる。
「これで最後なわけないだろ。お前は、……マイは俺のものだからな」
「馬鹿なこと……」
キーチを押しのけようとした手を掴まれ、床に押し付けられ手の自由すら奪われているのに、私の鼓動は恐怖とは違う感情でリズムを速くする。
「こんな相性のいい身体、どこにもないからな。絶対に誰にも渡さない」
「やめて……お願い……」
やめてほしいと懇願した私は、ちゃんとそんな顔をしていただろうか。
少なくともキーチは、それを受け入れるような表情ではなかった……。
キスの温度
◆9◆
次に私が何かを言おうとすると、キーチは私の口に人差し指と中指を突っ込み、言葉を封じながらブラウスのボタンを外してゆく。
「や……めれ……」
口に指を入れられて上手く喋れない。だけどキーチはおかまいなしで上着を脱がし、露出した肌に唾液の道を作ってゆく。
肌にキーチを感じるたびに、まだ感度が敏感なままの私はつい声に出てしまう。
「やっぱり……朝帰りってわけか。さっきまで俺と違う男とヤッてたんだな」
キーチは、口調を少し強くして私の口から指を抜き、スカートの中へ持ってゆくと布をずらして強引に侵入させる。
「あっ、はあっ!」
声を出していけないと分かっているのに、思考と体がリンクしてくれない。
キーチの言った通りだった。
キーチが訪れる少し前に私は有に送ってもらい、帰宅したばかりなのだ。
当然、私はほんの数時間前に有とセックスをしていて、そのせいで普段よりも感度が上がっていた。
だけどもその敏感な反応にキーチは興奮していて、それを見た私も嬉しさと気持ちよさが込み上げてくる。
「俺以外のものを食って、気分はどうだった? 聞かせてよ、マイ」
いつものセックスならばこんな言葉を投げかけられれば白けてしまうが、私自身さっきまで別の男としていた事実と、諦めていたキーチとのセックス、そして興奮して荒々しくなった彼を見て、私も一種のトランス状態のようになっていた。
だからキーチのそんな問いかけにさえ、私自身興奮していたのは隠し切れない本音なのだ。
「なんか……全然、違うって思った……。してる間、ずっとキーチとしてたのと比べてばっかりで……」
「どっちが良かった?」
「……キーチ」
「じゃあ、やっぱり俺達は相性がいいんだな」
キーチは満足そうに笑い、胸元から私を上目づかいで見詰め、反応を楽しみながら侵入させた指を根本まで深く差し込み、刺激するたびに声を上げる私を眺めながら抜き差しを繰り返す。
――卑怯だ。
こんなのは卑怯だよ。身体に無理矢理刷り込むなんて……!
涙目でキーチを見詰め、みっともない声を上げながらよがる私は、一体キーチの目にどんな風に映っているんだろう。
「キーチぃ……キーチぃ……好きぃ……」
「ごめんなマイ。悲しませちゃったな、寂しい思いさせちゃったな。だけどもう大丈夫、お前は俺だけのマイだから」
「うん……うん……」
泣きながら私はもう一度、キーチを受け入れてしまった。
「木下さん、より戻ったのかな。またネックレスしてる」
「そっかぁ……なんか良かったね。ここんところずっと暗かったし」
「暗いのはいつもじゃない?」
「こら春奈~」
女子トイレで春奈たちが私のことを話すのを聞きながら、個室で私はキーチを頬張った。
あの朝から、キーチは私に今までよりもより過激なことを望み、私も出来る限りそれに答えるよう努めた。
もうキーチを失いたくなかった。
そのためならば私は、キーチの求めることはなんでもしようと決めたのだ。
自分でも馬鹿げていると思う。だけど、もう私はキーチなしではだめなんだ。
キーチが口をパクパクとさせて、(出すよ)と言った。
口から少し零れたキーチの滴が、ネックレスのmの字に落ち、私はどこにいても幸福を感じることが出来るようになった……。
私がキーチに再びハマればハマるほど、有との距離は遠のいていった。
彼がメッセージアプリでメッセージを送ってきても、ほとんど読まなくなり、会いたいと言われても理由をつけて会いもしなかった。
別れれば手っ取り早いのだけれど、有と別れ話をかわすことが私にはどうにも煩わしくて、願わくば自然消滅してくれれば願ったりだと思っていた。
だけど、有の方はというと、そういう風に思ってくれていなかったようで、毎日山のようにメッセージが届く。
そんな風に彼からメッセージが届く度に、私は有に対する気持ちが急速に冷めてゆくのを感じた。
気持ちがない男に対して、こんなにも冷徹にどうでもよくなるものだと、後に私は思うことになるが、この時はただただ邪魔な存在になっていたのだ。
『ねぇ俺がなんか悪いことした?』
『嫌なところがあるなら頑張って直すからさ』
『おいしいパスタ屋見つけたんだけど、今からどう?』
どのメッセージも私を不快にさせて、更に会う気を無くさせる。
子供がいて、既に後戻りが出来ないほどに家族を作ってしまったキーチ。
そんなキーチとの未来なんてもう考えない。
考えないことにしたのだ。
だって私は今、こんなにも満たされている。ただキーチと一緒に居れば報われなくたって……。
珍しくキーチが奥さんに飲み会だと言って、私の部屋に来ていた夜。
張り切って作ったサラダとパスタ、ミユキに聞いて使ったこともないアンチョビやハーブ、クコの実を入れて作った料理にキーチも絶賛してくれた。
「マイ! 美味いなこれ! すごいよ、同じマイでもお前の方が全然美味い」
同じマイ……というのは当然奥さんのことだ。
だけど私は私の前で奥さんの名前を言ってしまう無神経さよりも、同じ名前のキーチの奥さんに勝った優越感に満足してしまう。
「ねぇ、キーチ……今日は終電まで大丈夫よね」
私の作った料理を綺麗に平らげ、食後の白ワインを楽しむキーチの後ろから抱き付き、私は耳元でそう尋ねた。
「さぁな。誰かさんが望むなら、いるけど」
キーチの持つワイングラスを後ろからひったくり、大目に口に含むと舌で転がして喉に流し込む。白ブドウの酸味の良し悪しはあまりわからないけど、これが今最高に美味しいってことだけは分かった。
キーチの胸元を撫で、首筋にキスをし、そのまま耳たぶを噛み頬をこちらに向かせて唇を食む。男のくせに、外見よりもずっと柔らかいキーチの唇。
やっぱりこの男のキスの温度が一番しっくりくる。
『♪』
その時、私のスマホが鳴った。
「……出なくていいのか?」
「いいの。どうせあの男だから」
「怖いなぁお前は。ちょっと前まで付き合ってたんじゃないのか」
「ちゃんと別れるって言ってないからじゃない?」
キーチはテーブルで着信メロディと一緒に細かく振動する私のスマホに手を伸ばすと、肩越しに私を見詰めて悪戯っぽく笑った。
「出ろよ」
「やだよ……面倒くさい」
「ちゃんと別れを言えないなら、俺がお前と別れるぞ」
「そんな……」
それ以上の言葉を詰まらせたままキーチの目を見詰めると、彼は笑ってはいるがどこか威圧感も放っていた。そう、この男は私と別れたところでリスクらしいリスクがない。
むしろこのまま関係を続ける方が、なにかと都合が悪いはず……
そう思った私はキーチが私の側から再び離れてしまうのが、どうしようもなく怖くなった。
――いやだ。もうキーチと離れるのは絶対に嫌だ。
渋々私はスマホを受け取ると通話のボタンをタップする。
「もしもし……」
受話器の向こうからは既に懐かしくなった有の「もしもし!」という嬉しそうな声が耳を刺した。
少し前までなら有のこんなところも、少しばかりかわいいな……だなんて思っていたものだけれど、キーチが目の前にいるこの場では不快でしかない。一刻も早くこの男の声から解放されて、キーチとの限られた時間を過ごしたい。
『あのさぁ、ずっと電話出ないから心配したんだぜ!? どうしてたんだよまーちゃん』
まーちゃん……その響きは、私にとってやはり心地よいものではない。そう再確認した。
キーチを見るとキーチは口をパクパクとさせて、(続けて)と言う。
仕方がないから渋々有との会話を続けた。
「うん……ごめん。ちょっと色々あって……さ」
キーチは静かに立ち上がると、今まで座っていた椅子に私を座らせ、自分もまたひざまずくようにしゃがんだ。
『そっかぁ。でも元気そうで安心したっていうか……でも連絡くらいくれてもいいんじゃん?』
「う、うん……そうだね」
有の言葉も上の空になるほど、キーチの動きに気を取られていた。
「ちょ、やめ……」
『どうしたの? 誰かいるの』
「う、ううん……ひとりだよ。テレビで怖いのやってて……」
キーチは笑いながら私の両ももを掴むと強引に広げ、彼の為に履いていたスカートから下着が露わになった。
(キーチ! ふざけないで!)
小声でキーチに訴えるが、キーチは構わずお気に入りの下着をずらすと直接、陰唇を食んだ。
「ひゃあっ!」
『そんなに怖いの? どのチャンネルかな、俺も見たくなってきちゃった』
「……ど、動画配信サイト……な、の……」
滴る滝の水を両手で掬って飲む旅人の音。
そんな風に思わせるキーチの愛撫は本当に美味しそうに聞こえ、その響きがまた私を狂わせて征く。
(言わなきゃいけないこと、あるだろ)
「ア……、その有……」
『どうしたの? 具合悪いんじゃないの? 無理しちゃ駄目だぜ』
有の優しい言葉も既に快楽の刺激の一部でしかなくなっていた。
ただ声を耐えて、悟られずに……有に別れを告げなくては……。
「あのね、有……。勝手なこと言って本当に悪いんだけど……」
キーチの悪戯が少し休まった隙に言ってしまおうと、少し早口になった私はカチャカチャ、というベルトを緩める音を聞いてしまった。
(え……嘘でしょ)
『なに? 勝手なことって……』
「あの、あの……ね、私と……」
(キーチ! それはダメだって!)
キーチは確かに笑っていた。笑ったまま、電話に耳を当てる私の顔を見ながらふとももを持ち上げると、プラグを……
「あッッ……! 私と別れてぇッッ……」
キーチのひと突きに私は通話終了のボタンを押せずに、スマホを落としてしまった。
床に落ちた衝撃で、背面のカバーとバッテリーが飛び出てバラバラになった。
「よくできました」
キーチが褒めてくれて、私は幸福と快感に打ち震え……どこまでも墜ちていく。
どこまでも、どこまでも……
【続く】
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