第8話
キーチの子供は女の子らしかった。
オフィスのみんなはキーチの子供の名前を知っているみたいだけど、私は頑として知ろうともしなかった。
私は泣いた。毎日のように泣いた。
怒り、悲しみ、悔やみ……色々な感情が混ざり合って訳が分からなくなった。
だけど仕事を休むのだけは、自分に敗けた気がして意地でも出勤し続け、世界の音を遮断して生きていけたらどれだけいいかばかりを考えた。
キーチもそんな私を知ってか、わからないが全く連絡をしてこなくなった。
「木下さん……彼氏と別れたのかな」
「だよね……真面目だから堪えてるんじゃない? ほら、ネックレスもしてないし……」
憐れみを十二分に含んだ春奈と佑月のこそこそ話。
どうしてこう女子の噂話というのは、どんなに耳を塞ごうと頑張ってみても聞こえてしまうのだろう。
お疲れ様です、という春奈たちの声とドアが開閉する音。
「いやぁ~、細貝工業の前田専務の話は長いですよね~! 途中でお腹減っちゃって」
キーチの帰還。私にとって最も苦痛な時。
「……」
黙って席を立ち、トイレの洗面台へとゆき鏡に映る自分を睨む。
……そういえばこのトイレのあの個室で……
辛い。どこにもかしこも、キーチの影ばかりが目立つ。
ここにも、あそこにも、そこにも……
バシャン、蛇口からの水を両手で掬い顔を洗う。
――冷たい。
この冷たさって、キーチの冷たさに似てる?
違う、こんなものではない。
氷のよう?
違う、そこまで冷たくはない。
じゃあ、ひえピタみたいな……
違う、違う、違う、違う、違う……!
「あのさ……マイ、なんかあった?」
久しぶりに会ったアンコはカリカリのチーズを片手に、私の顔を覗き込んだ。
「なんもない」
「そ、そっか……」
私がこういってもアンコは心の中では分かっている。確実に《なにかあった》ということを。ミユキを呼ばなかったのは、そんな私の心を見透かした上に、逃げ場のないような助言を平気で口にするからだ。
赤ワインを2本空けたところで私は酔いで訳が分からなくなっていた。
アンコはというと黄色のビーズクッションに大きなシミを作りながら幸せそうな顔で眠っている。
「……う、うう」
眠っているアンコと、酒で世界が回っている自分に気付くと唐突に涙が出てきた。
「うあ……あ、ああ」
涙は止めようとすればするほど溢れ出し、声は抑えようとすればするほど喉の細い管をよじ登ってくる。
「キーチ……キーチぃ……」
その名前は憎くて、憎くて、でも愛しくて……
口にすれば、すぐにやってきてくれそうなのに、いくら呼んでも決してきてくれない。
スマホを取り出し、連絡先のフォルダを開く。
《履歴》からすぐにキーチに辿り着けるのに、私はわざわざ《あ》から《城崎》という名をスクロールして探し、たった一度タッチすれば電話をかけることができるくせに……
それが出来ないで私は親指が行き場を失くしてふるふるとしているのを、ただ涙で濁った視界で見詰める。
「うう、キーチ……」
こんなにもみっともなく酔っぱらっているというのに、酒の勢いで電話することも出来ない。
私とは、こんなにもつまらない。くだらない女だ。
メッセージアプリを起動し、キーチとやり取りした会話を読み返しまた泣く。
キーチからかかってきた電話の履歴を見てはまた泣く。
キーチが寝ている時にこっそりと撮った写真を見て、泣く。
すやすやと眠るアンコの横で私はただひたすらに泣いた。
元々、報われる関係じゃなかったんだ。
分かってたのに、分かってたくせに私は……
キーチが春奈たちに赤ん坊の写真を見せている時の、あの穏やかな顔。
あの顔は、私がいくら頑張っても、どれだけ、なにを犠牲にしても、絶対に見せてくれない。引き出すことが、出来ない。
私とはキーチの何だったのだろう。
【沖田 有(おきた たもつ)】
電話帳の中で、目に留まった名前。
「たもつ……」
その名前を口に出すと、急に懐かしさと親近感に包まれる。
前々からいつ消そうかずっと考えていたその名前の主は、大学の時に少しの間付き合っていた元カレ。
『元気?』
気が付くと私は、メッセージアプリで有にコメントを飛ばしていた。
返事に期待していた訳でもなく、ただ寂しくて送ったコメント。
すぐに《既読》の表示がつき、少し間があって『まー?』と返事が返ってきた。
有は、私のことを『まー』と呼んでいた。
私はと言うとそれに付き合えず、彼のことをずっと『有』と呼び続けていた……という想いでを思い出したのだ。
『そうだよ。なんか懐かしくなっちゃって。元気してる?』
かわいらしい犬のスタンプを添えてそう答えると、
『元気だよ。仲間と会社立ち上げてさ、結構忙しいんだけど……まーは、今も働いてるの? 結婚とかした?』
『なに? 人妻の方がよかった? 残念でした、まだ独身』
この軽い感じが懐かしい。
『へぇ~会社? なんの』
『古着の輸入販売とか、あと雑貨とかさ……。デザインの仕事も請け負ってる』
酔いはしても、素直に感心した。昔からファッション関係に興味があると言っていたけど、まさか自分で会社を設立するなんて。
『そっちこそもう結婚した?』
『忙しくてそれどこじゃないって! 誰か良い子いない?』
キーチとは違う反応。そしてこの安心する感じ……。
知っているはずの有の反応や返事は、なぜかいちいち私にとっては新鮮に思えた。
『私は良い子じゃないって?』
怒ったスタンプ。ぷんぷんとした犬がそっぽを向いている。
すぐに謝るカエルのスタンプが返ってきた。
「ふふ……」
そういえばキーチはスタンプとかあんまり使わなかったっけな……。
『ってことはお互いにお相手いないってこと?』
『そうかな? そうじゃない?』
この後の展開など分かり切っていた。
時刻はまだ23時。
『会う?』
元々付き合っていた男女が、用もなく夜に連絡など取ると当然こうなる。
利害が一致しているからだ。
【たまには誰かとセックスしたい】そんな時には特に……。
「アンコ、帰るわ」
「むにゃ? ……泊まっていきなよ……危ないよ女の子の独り歩きは……」
よだれでシミを作ったクッションを更に強くクシャッと抱きしめて、アンコは私を案じる言葉で引き留める。
優しいんだよな。こいつは昔から……。
だけどね、アンコ。私は今からとっても悪いこと……ううん、汚いことをしにいくんだ。
あんたと飲んで、男が捕まったから、その男と今から会ってセックスしてくるんだよ。
ほんっと、最低だよね。最低だ。私は最低だ。
「気をつけてね……あんまり悩んじゃダメだよぉ~……」
「わかってるよ。あんたこそ早く仕事見つけなさい」
「うう……マイちゃんがいじわる言う~」
有は渋谷の駅まで車で迎えに来ると言っていた。
渋谷の駅に向かい、歩きながら私は何度もキーチのあの顔を想い出し、振り払った。
キスの温度
◆8◆
渋谷の駅はいつも人が多い。
いつも……というのは、何時に来てもという意味だ。
アンコの家からここまで来るのに30分くらい、今は既に0時前だ。
だというのに、わらわらと沸くように蠢く人混み。
ただでさえ坂の多い街なのに、なぜこんなに大きなビルばかりたつのだろう。
ヒカリエを何気に見上げると、そんな思考もなんだかバカバカしく思えて、いまさらそんなことを考えるのをやめた。
ヒカリエを見上げていた私の前に、一台の車が止まった。
「久しぶり、まーちゃん」
その声で有なのだとすぐ分かったが、返事をするまでに少し時間がかかった。
「……なにこの車?」
付き合っていた頃はワゴンタイプの軽自動車を弟と共有して乗っていた。
だけど今私の目の前に車をつけたそれは、真っ白なBMW。
しかもオープンカーだ。
「あ……、ちょっと調子乗っちゃった? オープンとかやりすぎ?」
申し訳なさそうにへへ、と笑って見せるが得意げなのは隠しきれない。
「ううん。成功してんだ……って思って」
有はもう一度へへ、と笑うと「そんな威張れるほどじゃないよ」と助手席のドアを、運転席から身を乗り出して開けてくれた。
「……オープンカーって初めて」
「俺も、この車が初めてのオープンカーだった」
着ているものや乗っている車は変わっても、そこにいるのは私の知っている有だった。
私が乗り込むと有はすぐに車を発進させ、助手席と運転席の間にあるダッシュボードから、ホルダーに差したペットボトルを差し出し「喉乾いてない? お茶だけど」と勧めた。
「ありがとう」
正直、飲んだ後の私にはありがたかったので、差し出されたお茶を貰うとキャップを回すと、あることに気付く。
「……買ってくれたの」
「まあね」
キャップを回そうとした時、特有の固さを感じたのだ。つまり、これは開けていない証拠。新品というわけだ。
「こんな気遣いできるようになったんだ」
カチカチとキャップを解放しつつお茶で喉を湿らす。
冷たいお茶が、私に命を流し込むようにどんどんと体全体を潤おしていった。
「まあ、会社なんてやると色々と……ね」
その妙に大人ぶった態度に私は笑い、有はそんな私を見て「なんだよ、なんかおかしかったか?」と苦笑いで問いかける。
「有……あんた、絶対たっくさん女の子と遊んでるでしょ? こんな気遣いは得意先の人達にはやんないよ」
有は慌てた様子で「そんなことないって!」と言ったが、その反応がまたかわいらしくて、やはりキーチとは違うものを感じた。
「あんたの馬鹿な所はそんな使い古した手を、この私にもすることだよ」
「う……」
言葉を失っている有の左手の上に私の右手を乗せ、私は素直な気持ちを素直な言葉で言うことにした。
「けど、元カノなんかにそんな女の子と同じようにしてくれて……ありがとね」
「なに言ってんの、まーは特別だから……」
有の運転する車はそのまま湾岸線へと入り、海へと向かっているのが分かった。
「海?」
「ああ、いや?」
「ううん。酔い冷ましには丁度いい」
「酒臭いと思った」
有の笑顔に安心感を感じると、頬を強く打つ風が何故だか心地よく思った。
まさか有とこうして海に向かうだなんて考えたこともなかった。
メモリー消さなきゃって思ってたほどどうでも良かったはずの元カレ。
消しておけば良かったのか、消さなくて良かったのか。
分かんないけど、今の私はキーチさえ頭から消えてくれたらなんでも良かったのだ。
有と連絡が付かなければ、きっと私は他の男にメッセージを送っていただろう。
そう考えたら、有であるだけ幸運だったのかもしれない。
湘南まで、あっという間についたという印象だった。
こんなにも海に近い場所に住んでいたんだ……。だなんて波音を立てる海をただ車から眺め、なんだかどんどん心の中が空っぽになってゆく。
「オープンカー持ってるなら海行かなきゃ、無いっしょ?」
有はたばこに火を点け、大きく煙を吸い込み美味しそうに吐いた。
「たばこ……まだやめてないんだ」
有は一瞬、『しまった』という顔をしたがすぐに諦め、「やめる理由がないからなー」ともう一服する。
「嫌だった?」
横目で機嫌を伺うようにちらりと私の顔を見る有に、私は
「ううん。最近周りで吸う人いなかったから。なんだか逆に新鮮でね」
大学時代に有と付き合っている時は、このたばこの煙が嫌で仕方が無かった。
何度もやめてくれと頼んで、渋々承諾したが結局、有は隠れて吸っていた。
有と別れた理由を10個くらい分割するのなら、その内の一つにこれがあったのだと思う。
一番の理由は、私が有にハマりきらなかっただけなんだけど。
「キスする度にたばこの味がして、嫌だったな」
「そっか……ごめん」
「今更なんですけど、私も有も」
有の真似をしてへへ、と笑った私の顔に煙がかからないように有は煙を上に向けて吐き、肘置き兼ダッシュボードを開けると、ミントのタブレットを一粒口に入れ、ガチリと歯で潰す。
そして少しもごもごと口を動かしたかと思うと、私の頬から後頭部にかけて優しく撫でた。
「あの頃よりもキスのエチケットは弁えてるだろ?」
有とキスをするまでの時間は、出会ってからおよそ1時間強ってところかな。
少し煙の風味は残っているけど、知っているミントの味。
ぬらぬらと私の口内を往ったり来たりする有と、負けじと有の口の中をぐるぐると回す。
何度もくちゅくちゅと例の音を立て、波の音と合わさって私の気持ちが昂ってゆく。
だけど、その昂りを感じつつも私は有の唇や、舌、音を立てる唾液……。
そんな全てから感じる『キスの温度』を推し測っていた。
こっちのキスは甘いか。こっちのキスは苦いか。
「くちゅ、……くちゅ」
ラブホテルは、久しぶりだ。
ここのところ私の部屋ばかりだったから。
だけど有は私を久しぶりに抱くことに余程興奮しているようで、部屋に入るなりすぐにベッドに押し倒された。
「有……シャワー……」
「シャワーの前に一回だけ」
我慢しきれないといった様子の有は、ズボンだけを脱ぎ捨てると滾った物を私のふとももに当てながら、すっかりミントの味がしなくなったキスを貪る。
キーチもそういえば初めての時、すごく荒々しかった。
男と言う物は、なんでも初めての時が一番興奮するらしい。あとはどんどん静かになって、落ち着いて、そして最後にはどうせ飽きてしまう。
――私はキーチに飽きられてしまったのかな。
キーチ以外の男のプラグが差し込まれる。こんなもので私は充電できるのか……?
急に激しい後悔が私の身に襲い掛かり、全身がざわつくのを感じた。
だけど、有のそれが付け根まで挿入さった時、キーチの時とは違う……明らかに違う感覚が悲鳴を上げ、だけども何度もそれが抜き差しされるうちに私はちゃんと気持ちよくなってゆく。
――誰でもいいのかな、私も
「ああ、いい……気持ちいい……まー」
素直にその声に反応してしまう体を呪うように私は涙が溢れてきた。
泣くほどよがっているのだと、自分自身を貶めるように言い聞かせ、有のそれを感じる度に声を上げた。
私の声に興奮しきっている有は、私の涙になど気付かず一心不乱に私の足に縋るように抱き付き、パチンパチンと打ち付ける。
「お願い、後ろで……」
泣いている自分の顔を見られたくなかった私は自分から犬のような体勢を取り、部屋中に貼られた鏡で自分が如何に卑しい恰好をしているのかを客観視し、快感と興奮、背徳と罪悪……キーチの時と同じはずの感情が入り混じっているのに全く違う色をパレットに乗せている。
避妊具を付けたのは最初の一回だけ。
後はバスルーム、ベッド、ソファ……と4回した内の3回は着けずにした。
キーチは必ず着けていたから、その分私は強烈な快感を感じ何度絶頂したのかすらわかなかった。
だけど、それでもキーチのセックスには及ばない。
なぜなら私は、1回目からずっとキーチの顔を想いながら絶頂していたから。
有は何度も「まー……まぁー……!」と私の名前をうわ言のように呟きながら果てたが、私は一度も有の名前を呼ぶことはなかった。
全ての膿を吐き出したくて、全身で感じ自分でも信じられないほどの大きさの声を何度も上げ、シャワーを浴びた後も汗でびっしょりと濡れた。
――これで、キーチのことも……忘れられるよね。
そんなわけないって分かってるくせに、私は有が果てて私の上に身体を委ねる度に言い聞かせる。そして、泣く。
「……なあ、まーちゃん。俺もまーちゃんも恋人いないんだったらさ、もう一度付き合わない? あの頃よりも俺、少しはマシになってるはずだしさ」
セックスし疲れて眠り、朝が来て、チェックアウトで外に出た有は出し抜けに私にそんなことを言って来た。
「……」
不思議なほど私は有の告白になんの心境の変化もないのに驚いてしまった。それは、私が如何に有をただの道具に使ってしまっていたのかを自覚させるのに充分だったからだ。
「なあ、まーちゃん。ホテルまで言っておいて今言うのもちょっと情けないっつーか、順序違う気がすっけど、どうかな?」
ああ、そうか……。
私は有に対して愛情なんて少しもないくせに、ただ「この男とセックスしたことがあるから」という理由だけで、抱かれたのだった。
気づいたと同時に、私はまたキーチを思い浮かべ、あらゆることがどうでもよくなってゆくのを感じた。
キーチがいなくても大丈夫な生活が出来るなら……。
有に向き直ると、有はあの頃と変わらない、不安げな表情で私を見ている。
ごく……という生唾を飲む音に、少し可愛らしさを感じた時、私は決心した。
「いいよ。もう一度、付き合おう」
私の充電口がジンジンしていたのは、キーチで充電したかったからだろう。
だから、これでいいんだ。
【続く】
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