第7話

「寝てた?」



 次にキーチは「悪いな、入るぞ」と言って部屋に入る。



 すっかりそれが当然になったキーチに「コーヒーは?」とすっかり当然になって聞く。



 朝7時。



 キーチと出勤するまでの1時間だけ、過ごす時間。

キスの温度


◆7◆



 キーチは週に3回は朝訪れ、出張のときは泊まりだと言ってうちに帰ってくる。



 段々と外に出かけなくなったが、キーチは相変わらず優しかった。



「ほい、お土産」



 出張の帰りには必ずお土産を買ってきてくれたし、それに……

 キーチと出会って半年が経ったある時の事。



 私は誕生日を迎えた。



 私はキーチに自分の誕生日のことを言っていなかったし、自分の誕生日だなんてもうしばらく誰にも祝ってもらっていない。



 そんなこともあって、自分自身でも自分の誕生日にあまり興味が無かったといってもいい。

「……?」



 そんな自分でも今日が誕生日だと忘れていた日。



 私のデスクに見たことの無いロッカーのキーが置いてあった。



 これがなんなのか分からなかった私は、誰が置いたのかと辺りを見渡したが誰とも目が合わなかった。



 相変わらずデスクを空にしているキーチ以外は……。

 スマホを見て見ると、キーチからメッセージが残っていた。



 アプリを起動すると、たった一つ画像がぽつんと添付されている。



「あ……」



 私の短い呟きに、春奈が一瞬私を見たがすぐに書類を探す振りをした私を見て視線を元の位置に戻した。



(このロッカー……)

 添付されていた画像は一枚の写真だった。



 駒込駅のロッカー。毎朝通っているからすぐに分かった。



(ということはこのキー……)



 駒込駅のロッカーのキーということか……。



 午後からの私はそれこそ仕事どころではない精神状態だった。

 オフィスで誰も私の誕生日だなんて知らない。



 誰も私に対して特別な扱いなどしなかった。



 それでよかったし、その方が楽だと自分に言い聞かせてきたけど、今年の誕生日は違う。



 キーチが私のためになにかくれるのだ。

 しかもこんな洒落た方法で。



 一体ロッカーの中には何が入っているのだろう。



 定時が訪れ、私は急いで駅へと走った。



 途中、急いでいる私をみて佑月が「どうしたんですか? 今日なにかあるんですか?」だなんて聞いてきたけど私は「ううん、ちょっと見たいテレビがあって」とだけ答え会社を出た。


 こんなにも真っ直ぐ駒込に帰ってきたのは久しぶりだった。



 いつもは大概カフェでだらだらしたり、本屋さんで雑誌を読んだり……真っ直ぐ帰ったところで別段これといってすることもなかったから。



 改札を抜けると私は誰が見ているわけでもないのに、急いでいるのを悟られないように出来るだけ普段と変わらない足取りでロッカーへと向かう。



 ロッカーのナンバーは14……。番号をひとつひとつ探してゆく私の心臓は高鳴りを抑えきれず張り裂けそうだった。

 恐る恐る14番のロッカーを開けると私は言葉を失った。


 大きなウサギのぬいぐるみとうさぎの手には小さなブーケ。黄色やピンクや白色のとてもカワイイブーケだった。



 それらを取り出して余韻に浸っていると私はとてつもなく幸せな気分になってしまう。



 思わず口元が笑顔になり、心から嬉しい気持ちで満ち溢れていた私の目に空になったロッカーの中にまたキーが置いてあるのに気付いた。



 どうやら兎のお尻の下にあったらしい。

 そのキーはこのロッカーの他の場所のキーのようだった。



 まだなにかあるのかと思いながら私はうさぎとブーケを片手でなんとか抱えるとキーを取り出して《10》のタブがついたキーを差し込み回し開けた。



 ロッカーを開けると便箋とその上になにかのケースが置かれていた。



 私は先に手紙を取り出すと中身を取り出して内容を確かめる。


『お誕生日おめでとう。誰よりも愛してる キーチ』



 胸が苦しくなるほどに締め付けられ、どうしようもなくキーチを想った。



 鼓動を抑えつつも私は便箋の重しになっていたケースを手に取る。手に取って見ると長方形のケースでそれがなんであるかなんとなく察しがついた。



「わぁ……」



 ケースの中身は4℃のネックレス。《m》の字をあしらったトップは《マイ》を意味するのだと分かった。



 そのチョイスが実にキーチらしいと思い、私はケースと手紙を抱き締め、体中から弾け飛び出しそうな幸福感に浸った。



 これまで生きてきて、この日が私にとって最も幸せだったことは間違いない。

 ぬいぐるみと花束を抱えたまま歩き、通行人から見れば妙な姿だったかもしれない私だったがそんなことは微塵にも気にならず、ただ帰る道を急いだ。



 マンションに着くとマンションの玄関口でキーチが待っていた。



「お誕生日おめでと。マイ」



 キーチは得意げな顔をするわけでもなく、いつもと同じように私にお祝いの言葉を言ってくれた。

「ちょっとこれ持って」



 私はキーチにぬいぐるみと花束を押し付ける。



「な、なんだよ、気に入らなかった?」



 キーチは珍しく困った顔をしたが私は構わずにぬいぐるみと花束で自由を奪われていた両手で、今はそれらに両手の自由を奪われているキーチの抱くとその困惑した唇にキスをした。

 私がキーチに自分からキスをしたのはこの日が始めただった。



 キーチも私の気持ちを分かってくれたようで、唇が重なってからは目を閉じて求め合うようにキスを貪ったのだ。



 その日から私の胸には《m》のネックレスが肌身離さず見に付けられるようになった。



 制服からはあまり見えないようにしていたが、それでもそう言ったものに敏感に気付く春奈や佑月からは「木下さん、彼氏出来たっぽいよね」なんて噂されるようになったのだ。



 正直私はそんな噂話にまんざらでもなかった。



 これまで私が噂になる男なんていうものは事実がどうであれ、噂話に持ち上がっても嬉しくもなんともないものばかりだったから。

 仕事中はほとんど目を合わせないようにお互いしていた私とキーチ。



 誰もが羨む理想の男、城崎輝一がこのネックレスを私にくれたのだと思うと少なからずも優越感を覚えて、初めて経験するその気持ちに私は気分が良かった。



 そして家に帰ると誕生日の翌日に張り切って買ったカワイイ花瓶からあの花たちが私を出迎え、私は更にいい気分になる毎日を味わった。

 花を貰って喜ぶ女性の心理が分からなかったけど、それは私自身が貰ったことがなかったからだ。



 いざ貰ってみるとこんなにも心が躍るものなのかと自分でも驚いていた。



 これがもしも好きでも何でもない男から貰っても迷惑極まりなかったのだと思うけど、好きな男から花束を贈られるだけでこんなにも女は嬉しい気持ちになるものだと私は学んだ。



 花瓶から顔を覗かせて私を迎える花たちににこにこと笑顔を返す毎日。



 花が枯れてしまうまでの2週間ほどの間、私は毎日真っ直ぐに家に帰ったのだった。




 パチン、パチン、と叩く音があまり好きじゃなかった。



 だけど好きじゃないはずなのにあの時にされるとキーチの思惑の通り私は興奮してしまう。



 翌日に思い返すと恥ずかしくて火が出そうになるのに、あの時となると我ながら馬のようだと思うほど昂った。



 ……キーチは関係を重ねる度にその性癖が色々と現れ、好きなことを私にするようになったけど、彼の好きなようにされるのは不思議と嫌ではなかったのだ。

 いつしかパチン、パチンという音と、その度に走る衝撃が無ければキーチとセックスをしている気になれないほどになっていた。



 後ろからされるのは、別にそれだけが理由ではなくて、私は好きだ。



 首からぶらさがったmのネックレスが、彼が強く打ち付ける度に、まるで小さな子供がブランコをこいでいるような振子の動きで揺れるから。



 首からその揺れる重力を感じる度に、キーチを感じ、キーチへの愛を確かなものにした。

 誕生日の一件で、私はこの男なしでは生きていけない身体になっていた。



 その頃にもなると罪悪感や背徳感という感覚はとうに消え去り、あたかも彼が自分だけのものであるとさえ錯覚していたのだ。



 キーチはいつの頃からか、私の部屋にばかり来るようになった。

 二人でどこかへ出かけたり、外食を取ったり、……そういったことはほとんどなくなり、私の部屋で映画を見たり、ゲームをしたり、そして彼は帰ってゆくのだ。



 キーチが私の部屋に泊まって帰ることは一度もなかった。それだけではない、キーチから私を求めてくることも次第に減ってきた。



 今思えば、私は焦っていたのかも知れなかった。



「キーチ、ねぇ……しようよ」



「なんだよマイ? 盛りの付いた猫みたいだぞ」



 そう言いながら笑うキーチのネクタイを少し強くひっぱり、こちらに引き寄せると私から唇を押し当て、キーチの中へ割入る。



「ん……」



 ちゅ、ちゅ、という音が聞きたくて私はキーチを押し倒すとテレビを消した。

 電気を消すとキーチの顔が分からなくなるから私は電気を付けたままキーチのワイシャツのボタンを外してゆく。



「……ハリウッド映画みたいなシーンだ」



 キーチが言った言葉の意味が分からなかったけど、後々それはアメリカ映画によく見る女性から情熱的に男を求める、良くあるシーンのことを言っていたらしい。



「キーチ、私を愛してる?」



 裸になった私はキーチを中に突き刺しながら何度も何度もそれを聞いた。

 決まってキーチは「ああ」と言ったが、私はその度「ちゃんと言って」と強く腰を打った。



 だけどキーチは嫌そうな顔することもなく、仕方なしにという風でもなく、優しく笑って私の頬を撫でながら「愛してる、マイ。誰よりも」と言ってくれた。



 信じてはいけない。その言葉だけは信じてはいけない。



 そう解っていたはずなのに、私はそれを聞くと満足感と幸福感が濁流となって体中から溢れ出しどうしようもなく、……どうしようもなくキーチでいっぱいになる。

 ――その日は、珍しくキーチがオフィスに一日いた。



 パソコンに向かい、たまにパソコンの前に座るときにだけかけるメガネにディスプレイの画面を反射させ、真剣な眼差しでマウスを操っていた。



 オフィスにキーチがいては私は仕事がまるではかどらない。



 だけどもそれはどうやら私だけではなく、春奈や佑月たちもそうらしくやたらと彼を見ていた。

 おかげで私がちらほらとキーチを見ても特に目立つことは無かったのだ。



 キーチがカチカチとマウスのボタンをクリックする指を見ると、最後にセックスをした時のことを思い出してしまう。



 ……確か、一昨日……だったかな……



 何度したかわからないけど、私の中では常に最後にしたのが最高のセックスであり、常にそれは更新され続けていた。

 キーチの指……。カチカチとボタンをクリックするたびに小刻みに揺れる人差し指と中指……。



 あの指が私の……。



(なに考えてるんだ私、これじゃただの痴女じゃんか……!)



 そう、これではまるでセックスのことばかり考えている変態ではないか。



 私は自分を責めると自分の仕事を進めようとパソコンに目を戻し、キーボードを叩く。

「あ……!」



 柏木工房という業務店の名前を『泊木工房』とミスタイプしていたことを催促状を作り終えたところで気付いた。



 自分のミスにしかめ面になってしまう自分の顔をキーチに見られていないかと、ハッと我に返り顔を作り直す。



 私の生活はキーチが中心になっていた。

 更にそんな関係が続いた数か月後、外はすっかりと寒くなったある時。



 キーチは急に私の部屋に来なくなった。



 これまでも2週間ほど来なくなったことはあるのでそんなに気にしてはいなかったが、今回は3週間も続いたのでさすがに私は気になった。



 その頃には、キーチは朝来ることは少なくなったけどその代り夜に来ることが多くなった。


 会社の帰りに2時間ほど私の家にいてそこから帰るのだ。



 当然、それだけあっていれば高校生のカップルでもないので毎回関係があったわけじゃない。



 日によってはキーチの口から「今日はまずい」と止めることもあった。

 彼に奥さんがいることなど、この時の私にはもうどうでもよいことになっていた。



 なぜなら私は彼女よりもキーチに愛されている自信があったからだ。



 この先報われないなんてことはきっとない。



 そんな風に考えるようになっていた。いつか一緒に……一緒に……と。

 だからキーチが奥さんの存在を感じさせる時にさえ私は、奥さんに同情に近い気持ちを抱いていたのだ。



 同じマイという名の彼女に、相手にされなくて可哀想だな……なんて。



 そんな勝手な妄想を抱いていた私に罰が当たったのか、それともキーチなりの御仕置だったのか、とにかく彼は3週間もの間私の部屋を訪れなかった。

 自分でも驚くほどのストレスが溜まり、今夜も来ない。今夜も来なかった。今夜こそは……。



 と病的に彼を求める気持ちを抑えられないでいたのだ。



 当然、なんども彼の元にメッセージを送信し続けた。



「会いたい」



「なんでこないの」



「今日はきてくれる?」



 気づけば3週間も過ぎ、4週目……もう一月近くもキーチは私の部屋に来ない。



 オフィスでもほとんど言葉も交わさない。



 気が狂いそうになった。



 私がなにをしたのだろう。なにかしてしまったのかな。



 嫌われ……ちゃった、のかな。

 そんな思考が披露ですり減らし続けたある日。



 案件処理の為に午前中デスクを開けていた私が戻ると、キーチが春奈や部長たちみんなに囲まれていて、その中心にいたキーチはニコニコと満面の笑みを……私の前では決して見せたことの無い種類の笑顔でなにかを見せびらかしていた。



「かわいい~!」



「城崎さんそっくりですね~」



 ドアの前でただその光景を眺めている私とキーチは、一瞬目が合った。



 その時のキーチは、なんともいえない複雑な表情をほんの一瞬だけ見せるとまた会話の中へと戻った。



「あ、木下さーん! 見てくださいよ~この写真!」



「どうしたの?」



 春奈が私に駆け寄りスマホの画面を差し出した。そこには……



「城崎さんの赤ちゃん、産まれたんですって!」





【続く】

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