第6話

「なんで!?」



「なんでって言われても、そういうこともあるだろ」



「そうじゃない!」



「そうじゃないって、……じゃあなんだよ、なにが聞きたいんだ」



 男はいつも理由を求めたがる。二言目には「直すからなにに腹を立ててるのか教えてくれ」ときたもんだ。

 そうじゃない。



 女が男に詰め寄る時と言うのは、男に感情をぶつけるときというのは、ただ聞いて欲しいのだ。



 叩いても、叫んでも、ただ受け止めて欲しいのだ。



 なのに、どんな男だってこんな風に言う。

「俺が悪かったよ、謝るから機嫌直せって。な?」



 そうじゃない。

キスの温度


◆6◆



「ちょ、……やめてよ!」



 不意に奪われた唇。私が怒っていることくらい分かっているはずなのに……ふざけてる。



 営業先から戻った城崎はその足で私の部屋に来ていた。



 住所自体はずっと前から知っていたようだったけど、こんな関係になってからでも一度も城崎が訪れることは無かったのに……だ。



 城崎は私を押し倒し堅いフローリングの床に私の頭を押し付けるように覆いかぶさった。



「ん、む……ぷはっ……はぁ、ごまかさな……あんっ!」

 息が詰まるようなキス。



 私に次の言葉を言わせない乱暴なキス。



 城崎のキスはシチュエーションで全く違う味の、違う色を放っていた。



 歯を閉じて侵入されまいと努めるけどもその抵抗は毎度毎度のこと虚しく打ち破られる。

「マイが怒っているのは分かったけどさ、俺にどうしようもないだろ? それとも紹介しておいたほうがよかったか? これが僕の愛する奥さんですって」



 私の上に乗っかかりながら城崎はいつものように左腕でネクタイを緩め、その拍子に薬指から見える指輪。



 今日会社に来た城崎の奥さんがしていた指輪と同じフォルムの……



「やめて! そんなことしたってあんたはあの人のところに帰るんでしょ!」

 ピタッ、漫画のようなそんな音が文字になって浮かんでいるような感覚。



 ほんの一瞬だったけどその瞬間、完全に私を……ううん、私と城崎を取り巻く全ての時が止まったのだ。



「それに……あの人の名前もマイって……うぅ……」



 情けなすぎて泣けてきた。この男にマイと呼ばれるたびに嬉しくなった自分が悲しくて、切なくて……情けない。

「泣くなって……マイ」



「呼び捨てにしないで! 私を呼ぶなら木下って呼んで!」



「……マイ」



「あの人と同じ名前で呼ばれるなんて絶対に嫌! 絶対に、絶対に絶対に絶対に嫌!」



 城崎は仰向けでただ泣きじゃくるしか出来ない私を見下して黙り込んだ。

「信じてくれるかな……」



 しばらくしてやっと城崎は一言、ぽつりと言った。



 信じてくれるかな、のその意味は分からなかったけど次から次へと溢れる涙と鼻水でとても城崎にこの顔を見せるわけには行かなかったのだ。



 ――コト。



 耳の隣でなにか固いものが置かれたような音。



 涙で滲む視界でそれがなんなのか分からなかったが、やがてはっきりとそれがなにか見え私は思わず泣いていた声を呑み込んだ。



「確かにあいつの名前もマイだけどさ、俺はあいつを【マイ】って名前で呼んだことなんかないぜ。最近はめっきり「おい」とか「あのさ」とか、名前で呼ぶこと自体少なくなった」



 白々しい言葉。それだけでは信用に足るはずもない。

「だからマイとのこと遊びとか思われたくないんだよね」



 顔の側に置かれたのは……指輪。



 城崎がいつも左腕の薬指にはめている……結婚指輪だ。



「愛してる、マイ。もっと早く出会うべきだった」



 抗う気力はもう残されてなかった……いや、奪われてしまったのだ。

 城崎は指輪を取った左手で私の涙を拭うと、出会って今までで一番優しく愛おしい顔で笑った。



「マイ……、ちょっと恥ずかしいけどさ、俺のことこれから『キーチ』って呼んでくれよ。あいつにも呼ばせたことのない、親しい仲間にしか呼ばせない呼び名さ」



「……あ」



 確かにいつだったか、城崎の同期が彼の事をキーチと呼んでいるのを聞いたことがあった。

「……キーチ」



「おう、呼んだか……マイ」



 少年のような笑顔。それは照れ隠しにようにも見えた。



 その笑顔には微塵も悪意など……ないと信じたい。

 もう終わりにしよ。



 生まれてくる赤ちゃんのためにも。



 

 ――また言えないまま、キーチと一緒の夜が過ぎてゆく。

 当然だが、キーチは終電前には自宅へと帰ってゆく。



 今日も例外ではなくキーチは帰って行った。



 部屋に一人になると私はまた現実に取り残され、昼間見た同じ名前の奥さんとさっきまで私の上で踊っていたキーチが変わりばんこに浮かんでは消えてゆく。



 彼女の幸せそうな顔と、優しく手を乗せたお腹。

 あんな顔をしている彼女の前で、キーチはいつもどんな顔でそれを見守っているのだろう。



 あの表情(かお)を誰にでも向けている?



 違う、あの顔はきっとあの人と私に……


 

 …………私だけに決まっている。私だけがあの顔を……

 シャワー室でぬるいシャワーにずっと会っていると正気を失っている自分が良く見えた。



 このままではいけないと思う自分と、このままバレなければいいという自分。



 なによりも性質が悪いのは、キーチと一緒にいたいと思う自分。



 厄介なことにこの自分がなによりも強力で、一番いうことを聞かず、その上私の体内での発言力を一番有している。

 この厄介な自分がこのぬるいシャワーと一緒にネガティブなことを考える自分の感情を流してゆく。



 足と足の間にあるそれは、さっきまでキーチが居心地良さそうにくるまっていた場所。



 そこにはもうキーチはいないけど、キーチの感触だけが残り香のように残っている。



「キーチ……キーチ……」

 無意識に私はキーチの名前を何度も繰り返し、繰り返す度に彼の顔を頭に思い浮かべ、噛み締めるように焼き付けるとまた「キーチ……キーチ」と名を繰り返す。



 胸が締め付けられ心臓が押しつぶされるほどに苦しくなり、行き場のない熱情が放出する先を見失ったままぬるいシャワーに成す術もなく排水口に流れてゆく。



 キーチと彼を呼んだ瞬間から、……ううんもっと前、あの会議室で思い切り抱かれてから私は彼を、キーチを愛してしまったのだ。

 長いシャワーから出ると爪先の小指がなにか固いものを蹴った。



 これでも女子の一人暮らし、キーチが突然来ても問題ないように綺麗な部屋を維持するよう気を付けている。



 そんなわけだから、床になにかが落ちている……なんてことは、会社ではよくあっても私の部屋ではほとんどないことなのだ。

 爪先で蹴飛ばしたそれが気になり、どこで迷子になっているのか屈んで探してみると……加湿器と壁の間に隠れたそれが見つかるまいと身を縮めていた。



「指輪……」



 まさかこんなことがあるだろうか。



 キーチは私の部屋に指輪を忘れたのだ。4

 朝、自宅に書類を忘れたことから彼女が会社に来る羽目になった。



 そして、今キーチは私の部屋に指輪を忘れたのだ。



 どうやら彼にとって今日は物に気を付けなければならない日だったみたいだ。



 小さな小さなダイヤが星座のように散りばめられたデザインの指輪を観察していると、指輪の内側に『KI-CHI・MAI』と彫ってあるのが見えた。

「……」



 ピンコン



 指輪を観察している私を見ているかのようなタイミングで、スマホのチャットアプリがメッセージの受信を知らせた。



 相手は予想通りキーチだ。

『悪い、そっち忘れ物してない?』



 ――忘れ物? なにもなかったけど。



 私の中の悪魔が表情を変えずに嘘を吐く術を披露し、驚くほどスムーズに私もそれに従った。



『床に落としたのかもしんないんだけど……』



 ――ないよ。今探してるけど、

 キーチも私も『忘れ物』の正体『指輪』であると分かっているのに、お互いそれが『指輪』だということを直接的に言わなかった。



 そこにキーチの懺悔と、私の悪意が飽和して……私を思わぬ行動へと導いてゆく。



 ベランダへ続く窓を開けると夜の街。住む場所が場所だから大して綺麗とは言えない街並みだけど、この独特な空気感は好きだ。



 夜の匂いが私の平常心を奪い、さも正しい行いのように駆り立てる。

 悪魔の私は出てくるのに、天使の私は出てこなかったな――。



 アンコのように楽観主義者ではないが、この時の私は楽観的だったのかもしれない。



 ピンコン



 キーチから『多分そっちにあると思うから、悪いけど探しておいてくんない』というメッセージを受信したのと同じ頃、私はキーチの指輪をベランダから投げ捨てたのだった。




「ねぇ、佑月見た?」



「うん、城崎さんの指……」



「そうそう! 指輪してなかったよね!」



 翌日の朝礼の後、佑月と春奈がキーチが出てゆくのを見計らってこそこそと話しているのが聞こえた。



 よくもまあこんなにも短い時間でそれに気付いたものだ。

 そしてそんな耳打ち話を聞く私は、それをどんな気持ちで聞いていたのか自分でもよく分からなかった。



 清々としたスッキリした気持ちと、とんでもないことをしてしまったという背徳感。



 ディスプレイを眺める私の目には表計算ソフトの数字の羅列がチカチカと映り、だけどもその羅列が全く情報として自分に入って来ない。



 ――どうして捨ててしまった?

 自分でもそんなことはわからなかった。



 感情に任せて咄嗟に……そんな月並みの理由しか思いつかないのに私はベランダからこのディスプレイの横に置いたポストイットよりも小さい指輪を投げ捨ててしまったのだ。



 朝礼の時に姿を見せたキーチはというと、心なしか表情は優れないようにも見えた。



 それは私の罪悪感がそうさせているのか、それとも本当にキーチがそうだったのか。

 だけどキーチはあれ以来一度として私に《探し物》のことを聞かなかった。



 だから当然……



「あの……城崎さん」



「ん?」



「……探し物……無かったんですか?」



 一週間しか我慢出来ずこんな間抜けな質問をしてしまうのだ。

「それがさぁ、見つからなくて。流石に奥さんに怒られちゃったよ」



 誰にも聞こえないようにこっそりと聞いたのにキーチはわざと大きめの声で答えた。



「わ、木下さんがまさかの質問……!」



「城崎さん……てか男の人によくそれを聞ける……」



 余りの驚きに思わず本音が漏れる春奈や佑月の言葉も無視して私は城崎の態度に混乱してしまった。

 キーチは片方の眉を下げいじわるな笑顔を私にちくりと刺すと、うっすらと指輪の痕が着いた左手の甲を春奈たちに見せつけた。



「この間営業見積りの件で行った取引先の専務に気に入られちゃって、所謂そういうお店に行っちゃったんだよ」



 オフィス内では女子たちの声で「えーー」と驚きの声が上がったが、私は俯いたままでそんなキーチを見ていられなかった。

「専務ってば酷いんだ。『そんな指輪をしてちゃ楽しめるものも楽しめないぞ』って言われてさ、それって《指輪を外してついてこい》ってことじゃん。別に奢ってもらうわけじゃないのに」



「城崎さんかわいそー!」



「でもそんな店に城崎さんが行くなんてなんかショックだなー」



 色々な言葉が飛び交う中、キーチはいつもの笑顔で笑いながら時々、ほんの一瞬だけ私を見る。

「……」



 その合図を出されても黙っているだけの私を放ってキーチは春奈たちの前で更に続けた。



「そこまでは良かったんだけど、店を出て専務と別れてからポケットを探ると……ないの。結婚指輪。血の気が引いたね」



 部長たち男性陣もその憐れなエピソードに同情の声を上げると、明日は我が身とでもいいたげに苦笑いを演じる。

「うちの奥さん、すっごい剣幕で怒ってさ。だけど言えないじゃん、いかがわしいお店で無くした、なんて」



 これはみんなに話しているように見せて、全部私に向けたメッセ―ジだ。



 つまりこの言い訳で奥さんに許してもらった。



 キーチはそう言いたいのだ。

 キーチは言いたいことを言い終え、キャッキャッとそのエピソードについてわめく春奈たちから私に顔をも出すとこれもわざと、……私に向けて言った。



「だから新しい指輪を買ったんだ。まだ届いてないから見せられないけど、俺のへそくりが全部無くなっちゃったよ」



「……」



「ねぇ? かわいそうだろ、俺って。木下さん」



「そう……ですね」


 この男は分かっているのだろうか。



 私が嘘を吐いていることを。



 私があの指輪を捨ててしまったことを。



 もしもそうだとしたら、キーチは私を戒めているのだろうか?



 それともただ反応をみて楽しんでいるだけか……

 キーチはそれ以降、指輪のことは無かったことかのように一切触れず私と接した。



 ただ、私は知っている。



 キーチは、分かっていてなにも聞かないのだ。



 その証拠に、その日から彼は当たり前のように私の部屋を訪れるようになったから――。



 時間を選ばずに。






【続く】

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