第5話

「木下さん、なに食べてるんですかぁ?」



 オフィスに帰ると春奈が私の口元を見て尋ねた。私は思わずはっとすると口元を手で隠して……



「え、あの、ちょっとね」



 と言うだけしか出来ずへへへ、と照れ笑いなのか苦笑いなのか自分でも良く解らない顔をする。

「もしかして、城崎さんに貰ったアメ……ですか?」



 心臓が止まる。呼吸も止まった。



 私は死んだのか? いいや、ほんの少し死にかけただけだ。



「え、なんでそんな……」



「いいなぁ、私も欲しかったなー」



 春奈が残念そうに瞼を半分下げて言った。春奈の「城崎さんに貰ったんですか」という問いが私の中で何度もリフレインしてなかなか平静を取り戻せない。



「木下さん?」



 ドアの前で立ったままの私に佑月が怪訝な顔で呼びかけ、私は佑月の声に我に返ると「あ、ううん、なんでもないの」と言って自分のデスクに戻った。

――ほんの5分と経たない内に起こった出来事だった。



「あれ、城崎さん風邪ですかぁ?」



 営業先から帰ってきた城崎は口元にマスクをしていたので春奈が城崎を心配しつつ聞いた。



「ああ、朝から喉が痛くてさ……マスクしながらほら、この通りさ」



 城崎はマスクをずらして口元を露わにすると、大きく開口させ舌の上に乗ったアメを見せた。



「ずっとのど飴とお友達……ってね」



 と言って笑う城崎を見る春奈の表情は、露骨に媚びているようだ。



 ――ふー……ん、そんな奴と仲良く出来るんだ。

 私自身も意外なほど嫌な気分になった。



 これを怒りだということを私は無視するのに努めるが、ふつふつと沸く気持ちを抑えるとオフィスの外に出た。



 少し頭を冷やすために。



「意外とわかりやすいのなマイ」

 そうすればこの男はこうやって私の邪魔をしにくるのだ。



「春奈のことイラついてたんだろ? かわいいなお前」



「かわいいとかこんなところで言わないで……」



 私が城崎を振り切って進もうとすると、私の行先は紺色のジャケットの腕が阻んだ。


「なにするんですか!?」



 城崎はさっき春奈にしたみたくマスクを顎までずらし口元を露わにした。



 当然、その口は笑っている。



「お前にも飴やるよ」



「アメぐらい私も持って……」

 キス。



 この男はなぜ時と場所を選ばないのだろう。……いや、もしかして選んでしているのか?



「ん、んん……」



 いつものように私の唇を割って入ってくる城崎と、そしてオレンジの匂い。



 そして次の瞬間、カチンと前歯に当たる堅い物体。



「ぷ……ふ、……ん」


「マイにもおすそ分けしてやるよ」



 口移しで飴を入れ込んできた……。信じられない



「じゃあ、PT機工に見積り行ってくるわ」



 城崎はそう言い捨てて、火照った私のことなど放って行ってしまった。

「城崎さん、私たちには飴くれなかったぁ~。木下さんどうやってもらったの~?」



「え、あ、ああ……私も喉の調子が悪いって言ったら……くれた」



 意味のない嘘。だけどこの嘘でしか私は言い訳できない。我ながら情けないと思う。



「そっか~! じゃあ城崎さん帰ってきたら喉痛いって言ってみよっと」



 春奈が領収書の束を輪ゴムで止めながら意気込んだ。

キスの温度


◆5◆



 昼の休憩から戻るとオフィス内が妙にざわついていて、誰も戻った私に声もかけないでいた。



 それについて特になにかを思う訳じゃないけど、こんなにざわつくのも珍しい。



(そういえば……城崎さん……は?)



 反射的に城崎の姿を探してみるが、どうやら出ているようだ。

 女子だけがざわつくのなら大方どうせ城崎か男性社員のことだろうと思うが、珍しく部長や他の男性社員もひそひそとなにか話していた。



 興味は無いがさすがにデスクに大人しく座っているのが私だけだと、こっちまで妙にそわそわしてしてしまうではないか。



「春奈、春奈」



 佑月と一緒に興奮混じり話している春奈を呼び止め「どうしたの?」とこの妙なざわつきの原因を尋ねたみた。

「今から城崎さんの奥さんが来るんですって!」



「城崎さんの……奥さん?!」



 全く予想外の言葉だった。



 城崎の奥さんが……なんで?

「なんで城崎さんの奥さんが?」



「なんか城崎さんが家に書類を忘れたらしくって……でも今日って城崎さんは神奈川まで出てる上に泊まりなんだって。それで書類だけ奥さんがこっちに届けにくるって」



「へ……へぇ」



 そうか、だから城崎さんの奥さんに興味がある男達も落ち着かないのか。

 城崎と出会って……いや、城崎と関係を持ってもう一か月近くになる。



 彼との関係は会議室での……あれ以来、ない。



 だけどさっきみたく飴を口移ししたり、他にもちらほらと私をからかうことは多かった。



 城崎と落ち着いて話すことが、意外となかったことに気付いたのは彼の奥さんの話などほとんど聞いたことがないとふと思ったからだった。

 そういえば初めて城崎に抱かれた彼のお祝い打ち上げの日、あの日に城崎が奥さんの話をしているのを少し離れたカウンターで聞いたっきりだ。



 ――そういえばあの日は結婚祝いっていう名目だったんだっけ……。



 途端に罪悪感と背徳感に襲われ、自分がとんでもない犯罪者であるような気にさせる。

「木下さんって知ってるんじゃないの?」



 部長が急に私に話を振ってきた。気を使ってなのか、それともただ気にしただけなのか分からないが、身に覚えのないことをわざわざ投げてくるなと言いたかった。



「なんで私が知ってるんですか? 知らないですよ」



 無意識な苛立ちがつい罪もない部長に対しての語調に現れてしまう。

「なんでって、だって城崎くんの奥さんはキミの元同期だろ?」



「……は?」



 キツネにつままれるような気分とはまさにこういうことなのだろう。私は予想外の部長の言葉にしばらく言葉を失い、次の瞬間には自分の同期の顔を次々と思い浮かべる。



「確か……なんて言ったかな……」



 部長が恐らく城崎の奥さんの名前を言おうとしている時も私はぎゅるぎゅるとモーター音が聞こえてしまうのではないかと思うほど夢中で思考を回転させる。

 ――私の同期? 同期で入社したのは確か20人くらいだったはず……その内女子といえば半分くらい……



 加奈子は……違うまだ通信管理にいるし、前園……いや、彼女もまだいる。誰だ……?



「う~~ん、思い出せないなぁ」



 私の言葉を代弁するかのように部長が言い、周りの春奈たちから早く思い出すように急かされている。

 そんな部長を眺めていて、私は想い出そうとすることをやめた。



 思えば同期で少しでも言葉を交わした仲間なんてほんの数人だ。



 結局のところ加奈子や前園以外にほとんど名前も顔も浮かばなかったということは他の同期のことは名前も顔すらも知らないままだったということだ。



 我ながら他人への興味の無さには笑えてくる。

 私が回想を止めようとした時、内線を知らせる電話の電子音がオフィスに響いた。



「あ、私が出ます~」



 春奈がすかさず受話器を上げると一言二言躱してすぐに切った。



「奥さんキターー! 今からこっちに来るって!」



 春奈は楽しそうに言った。妬いているのか楽しんでいるのかどっちなのか……。

 何故だろう私の心臓も必要以上に激しく打っている。



 城崎に抱かれている時とはまた別の……これは、そうだ興奮じゃなくて緊張と恐怖?



 バレていたらどうしようとか、……それにここに城崎がいないのに奥さんだけがくるというシチュエーションが……どうしようもなく怖い。



 なにかあれば逃げ場もないから。

「失礼します」



 永遠にこの時が来なければいいのにと思っていたのに、無情にも早くその時は来てしまった。



 春奈に連れられてその女性はこのオフィスにやってきたのだ。



「いつも主人がお世話になっています……妻の智美です」



 私は軽く振り返ると顔も見ずに軽く会釈をするだけに留めた。

「あ、どうも~! 私水元といいます~城崎主任にはいつもお世話になってまして~」



 上司として先に挨拶をしようとした部長を押しのけて図々しく春奈が挨拶を交わし、少し機嫌を悪そうにした部長も表情を無理矢理直しながら続いた。



「……で、あそこのデスクにいるのが木下です」



 部長の紹介に対しさすがに座ったままではまずいと立ち上がる。

「お世話になっています……木下と申します」



「木下さん!」



 私が自分のことを「木下」と名乗ったとほぼ同時に向かいに立った城崎の奥さんは私を指差して呼んだ。



「はい?」



 思わず俯いていた私も顔を上げ、奥さんの顔を直視してしまった。

「……あ」



「私ですよ! 分かります? 菊池麻衣!」



 自分を指差して嬉しそうに笑うその顔には確かに見覚えがあった。



 だけど、それは本当に《見覚えがあるだけ》。



 それもそのはず、私が彼女と言葉を交わしたのは実にこれで2回目のことだったからだ。

 入社してすぐの頃、「マイっていうんですか? 私も《マイ》っていうんです」と話しかけてきた同期が居たっけ。



 結局それっきりでその後会うことはなかった。



 今顔を見るまで完全に存在自体を忘れていたくらいだ。



「木下さん覚えてます? 私同じ名前ですねって話しかけたこと……」

「ええ、覚えてます……まさかこんな形で再開するなんて」



 私の薄く細い記憶とは裏腹に、彼女は妙に私を覚えているようだ。



「よかったじゃあないか、久しぶりの再会で。木下さんも負けてられないな」



 遠回しに結婚を匂わせるようなことを言う部長を無視して、この妙な出会いに落ち着かない心をどうにか押さえたいと思った。

「あれ……奥さん、もしかして」



 部長がなにかに気付いたのか奥さんに近づいて身体をじっと見た。



「ちょっと部長、セクハラですって!」



 佑月がその様子に慌てて部長に駆け寄るが、部長は佑月の手が触れる前に



「おめでたですか?」



 と尋ねた。

「……ええ」



 城崎の奥さんは照れ隠しのように少し唇を噛みながら幸せそうな顔で俯き、お腹に手を置いた。



 ……なるほど確かに妙にゆったりとしたワンピースを着ている。



「ええーーーー!」



 春奈や佑月たちが大声で叫び、部長が慌てて「こら! 赤ちゃんがびっくりするだろう!」と珍しく怒った。

「赤……ちゃん?」



「そうなんです木下さん、すみません同期なのに先に辞めて子供なんか作っちゃって……その、良かったら是非また家に遊びにいらしてください。主人も喜ぶと思います」



「ええ…………是非」



 営業スマイルで返したつもりだけど、私はちゃんと笑えていたのかな。

 結婚しているのだから、妊娠してもおかしくない……というよりごくごく自然なことだ。



 なのに私はなんでこんなにショックを受けているのだろう。



 彼女が妊娠しているというのは、当然城崎本人も知っているはず……。



 なのにあの男は私を抱いた?



 ――なんで、なんでよ。

「いつもは自分の持ち物は自分でしっかりと管理しているはずなんですけど……、あんな完璧に見える人でも忘れ物をしたりするんですね。すみません、これをお渡ししておきますので、主人が戻ったらどうぞよろしくお願いします」



「ええ、ちゃんと責任持ってお渡しいたしますよ。木下さん、これ」



 部長はすかさず奥さんから受け取った書類の封筒をそのまま流れるように私に渡した。



「はい」



 それを受け取ると城崎のデスクの上に封筒を置く。

「それじゃ……皆さん午後からも大変だと思いますが、体調崩されないようお勤めください……では」



 奥さんはドアの前でもう一度お辞儀をすると「失礼します」と言い残して去って行った。



 ほんの数秒の沈黙の後にまた室内がざわつきを取り戻し、予想通り奥さんについての品評会が始まる。



「すっごーい! あれは城崎さんも惚れるよね~!」



 佑月が悔しいのか羨ましいのか複雑な表情で言った。

「木下さんと同い年ってことは私達ともあんまり変わんないってことよね~、うう、どこで間違ったのかしら」



「春奈は多分、前のWEB課のあの人と別れた時から~」



 春奈のうるさい声とやたらと褒めまくる部長たち男性陣の噂話。それらを聞くのが嫌だったわけじゃないけど、私はこの空間からすぐに逃げ出したかった。



「お手洗いに行ってきます!」

 ――洗面台、鏡に映る私。



 同じマイなのに、なんでこんなに住んでいる世界が違うのだろう。



 いや、それどころかどこで私は……



「あの男(人)……奥さんのこと【マイ】って呼ぶのかな」



 ……だとしたら、私に向けて「マイ」と呼ぶあの声は一体誰に向けたものなのだろう。



 私なのか、それともあの人なのか。

 幸せそうな顔でお腹に手を乗せていた彼女の姿が私の脳裏を横切っては戻り、また通り過ぎては横切ってゆく。



「う、うう……う……」



 分からない。分からないけど、私はとても……悲しかった。




【つづく】

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