第4話
『第二会議室』
これが城崎が私に送ってきた最初のメールだ。
よせばいいのに私はあの後城崎にメールをしてしまったのだ。
内容は『今朝は有難うございました』
当たり障りのない、ごくごく普通のメール。
なのにあの男と言ったら『第二会議室』とだけわけのわからない返事をしてきた。
後々になってどれだけ思い返してみても、やはりこのメールが彼から来た最初のメールであることは動かしようのない事実だった。
わけのわからないメール……。
何度も携帯の画面を確かめていたと誰からもバレてしまいそうなほどに両手で強くに胸の上で握った携帯。
握られているのは……私か、それとも……
キスの温度
◆4◆
「お、きたきた。うぃっす、おつかれさん」
「……お疲れ様です」
そのメールが来たのは定時を少しまわった18時20分。
私が城崎にメールをしたのが昼頃だったから、悔しい話だけど私は彼からのメールが届く夕方くらいまで焦らされていたことになる。
「昨日はごめんな。それに、今朝も待ち伏せみたいなことしちゃって」
「いえ……」
この『第二会議室』は余程のことが無い限り滅多に使わない会議室だ。
臨時的に使われたり、時折リクリエーションルームとしても使われたりするのがほとんどなため、メインで使用している大会議室と比べればその面積は狭い。
そういうわけだから、足を畳めるタイプの簡易テーブルは全部折りたたまれており、だだっ広い空間に城崎だけがぽつんと佇んでいた。
城崎がドアを背にして突っ立っている私に歩み寄り、私はつい肩に力が入り唇が強張る。
城崎がクルミパンを持って駒込駅で待っていたのは今朝。
そう、まだたったの一日どころか半日すらも経っていない。
そんなままだから私の高鳴りがまだ収まるはずがない。
「ここの会議室ってさ、臨時で使うくせに眺めがいいんだよな」
歩み寄ってくる城崎が視界の外からどんどんと私に近づき、その度にその姿が大きくなってゆく。
出来るだけこの男の顔を見ないでおこうと努めながらも私は首元で蠢く腕に目が留まった。
あ……
城崎は仕事が終わった解放感からか、首元のネクタイを緩めながら私に距離を詰めてきていた。
それを気付いたときに私はつい城崎の顔を見上げてしまった。
「ははは、女って男のネクタイ緩めるのに弱いって聞くけど……お前もそうなの?」
いつもの優しい笑みで笑いかける城崎の顔。だけど、その顔はほんの少しいつもと違っていた。
「なあ、キスの温度って知ってる?」
「キスの……なんですかそれ……」
その《いつもと違う目》から慌てて目を逸らして私は城崎が急に口走った『キスの温度』について聞いた。
「人によってさ、唇や口の中の温度が違うって話。……いや厳密に言えば人の体温なんてせいぜいみんな36度強……ってとこだろ?
そういうことじゃなくてもっと感覚的な……さ」
「へ、へぇ~……」
まずい、声が上ずっている。動揺しているのが城崎に知られてしまう!
そう思った矢先、私の顎が急に持ち上げられ無理矢理顔を上げられた。
「俺のキス、あったかかった?」
心臓が止まったと思うほどの沈黙と、世界が爆発したのかと思うほどの鼓動。
交互にそれが私を襲い、その知っているはずの知らない男の顔から目を離せなくさせる。
「木下のキスって……丁度いい温度なんだよな」
「や、め……っ!」
やめて! 私はそう叫んだつもりだった。
でも実際はそのほとんどが発生できず、城崎の口内に発していた。
これが城崎との3回目のキスだ。
知らない男との一晩だけのセックス。
それだけならばよくある失敗談で笑っていられる。
だけどこの男は知っている男で、上司で、そして毎日会う。
そしてたった一度のセックスと3度のキス。
「やめて……!」
「やめて? 本当に?」
心臓が苦しい。必要以上の血液をいつもよりももっと早いリズムとパンチで全身に送ってきているはずなのに、熱で火が出そうな顔とは対照的には体温が引いていくのが分かる手足の先端。
この感覚、私は知っている。
初めて男の人とキスをしたときと同じ感覚だ。
もう一度強引に唇を重ねようとしてくる城崎を押しのけようと両手をばたつかせて抵抗した。
「う……」
短く漏れた声と拳に一瞬だけ感じた感触。
「あ……」
狙ったわけじゃないけど、抵抗してばたつかせた手が城崎の頬にぶつかってしまったらしい。城崎は少し顔を傾かせて動きを止めた。
「す、すいません」
城崎はゆっくりともう一度私に向き直るとニッコリといつもと同じ笑顔で笑うとそのまま無言で私の唇にかぶりつくようにキスを迫った。
「ん、く……ふぅ……!」
口の中を無理矢理押しあけて入ってくる城崎自身が私の校内でうねり、私の物ではない舌が何度頬の内側を叩く。
激しいキスの音が会議室中に厭らしく沁み、私の思考をまた鈍くさせてゆく。
「……?」
彼のうねるものから微かに鉄のような味を感じた。
私はこの味と匂いを知っている……血だ。
(あ……さっきぶつけちゃったときの……)
城崎はさっき私が拳をぶつけてしまった際、口の中を切っていたようだ。
「ん……ちゅ、ふ……」
抗おうと脳の遠くの方で主張していた理性が、その血によって罪悪感という蓋で閉じ込められてしまった。
制止してゆく思考ととろとろに溶けてゆく理性。
そして弱電流のように弱く弱く私の身体を痺れさせてゆく快感。
(ああ考えないと……このキスが終わったら絶対に言われる)
なにも考えられないはずの私の脳裏にたった一つだけの使命感が沸いていた。
(キスの温度、どんなだった?)
城崎はキスのあとに聞いてくるに違いない。
考えておかないと……なんて答えるか……
やがてお互いが絡み合い粘度の増した口から唇を離した城崎が私にこう尋ねた。
「……キスの温度、どんなだった?」
「熱くて、溶けそう……」
素面で言ったならきっと誰もが笑ったであろう言葉に、城崎は色気のある表情で笑うと私の首筋に唇を這わした。
薄暗くなってきた空を望む窓ガラスに映る私と城崎を見て、まるでドラキュラに血を座れているようだと思った。
がくがくと足元がおぼつかなくなる私をそのまま壁まで押し付け、私の背中にぶつけられた壁が「もう逃げられない」と宣告しているようだった。
「はぁ……はぁ……」
息が苦しい。
あの夜は意識はちゃんとしっかりしていたとはいえ、お酒が入っていた。
だけど今は城崎も私も酒など一滴も入っていない。
つまり……もう言い訳も、後戻りもできない……てこと。
「こんなこと……ダメですって……城崎さん、……ね?」
相変わらず私の身体は押し寄せる刺激的な官能の渦に耐えられず震えている。
壁にもたれかかっているのでなんとか立っていられるが、足はがくがくと躍ったままだ。
「立ってられないんなら俺にしがみついてろ」
そういって城崎は私を強く、力強く抱き締める。
「うう……あ、だ……め……」
その力強さが城崎の腕や胸から《男》を伝えてくる。私にはない力強さ、そして匂い……。
後ろの壁に押し付けられるように下から持ち上げられた片方の膨らみ。
城崎のもう片方の手は私がすり抜けないように力強く腰を抱き、オアシスを見つけた旅人のように一心不乱に私の口から湖の水を吸い尽くそうと激しく食いついてくる。
普段の城崎からは……ううん、あの夜の時にだってここまで荒々しい求め方はしなかった。
つまり城崎という男をほんの少しでも知っている人間からはとても想像できないほどの激しく、荒々しい寵愛のアピールだった。
それなのに私の二つのそれは、先端のそれは、過剰なほどに全身に快感を通電させると、私自身をも興奮のるつぼへと誘ってゆく。
「……!?」
城崎は激しく求める身体を突然止め、私の頬を掌で撫でると真っ直ぐ私の目を見詰めた。
「マイ、他の奴とはこんなことするなよ?」
「う、うん……!」
卑怯すぎる。この状況とタイミングで「マイ」って呼ぶなんて……!
下唇を噛み、上唇、そして何度も大きく開いては私の口を食べてしまう城崎の口。
城崎が緩めたネクタイを外し、次に私のブラウスのボタンを首元から順番に外してゆく。
その指はしなやかにボタンを外し、顔はずっと私を見詰めたままだ。
この器用な指先で……私はこれから……
「だぁめ、俺しか見ちゃだめだよ」
悪ガキみたいないたずら好きな笑顔。
一体この男はどれだけの表情を持っているのだろう。この数日だけでどれだけ私の知らない顔を見ただろうか……。
そんなことを考えている時、パチン、と背中でなにかが外れた。
「……」
声も出せずただその意味を察した私は城崎の目を見ることしかできない。
城崎も黙って私を見詰めるとまた悪ガキのような笑顔で「ブラ、外しちゃった」とでも言い出しそうな、なんともいえない雰囲気を醸した。
「ここ……会社なのに……」
「ドキドキするだろ?」
ずるずると城崎と一緒に床に沈んでゆく。
城崎の器用な指先は、二つの丘を器用に滑り、滑り降りてはまた頂上まで登ると先端に爪を立て、コロコロと指先で遊ぶ。
私が吐息で反応すると、その反応を楽しむように今度は大きな掌でしっかりと掴むと落としたネックレスを水中でまさぐるような動きで私の意識を異世界へと飛ばしてゆく。
指先で遊ばれた先端を今度は美味しそうに食らいつく城崎は面白がるように何度も最中に私の顔を見ては、私の時を止める目で笑う。
「この顔は俺だけのだから」
「うん……」
もう自分が何を言われているのかも、どうでも良くなっていた。
このまま溶けてなくなってしまいそうな快感の渦の中、私の体と頭の中は城崎でいっぱいになってゆく。
城崎が私で私が城崎で、城崎の全てが私に溶け込んで……
「すごい……。こんなに俺を愛してくれてるなんて」
「恥ずかしいから……やめて……ください」
自らの手をテラテラと輝かせた城崎は私の扉を軽々しく開き、なんの抵抗力も無意味に帰した最後の一線をあっさりと踏み抜いた。
わたしはどんな声を出したか、自分では覚えていない。
だけど鼓動を差し込まれるたびにたまらず破裂する私の叫びを聞く度、城崎はなんともいえない色気のある顔で私を見詰めた。
気づけば私は覆いかぶさる彼の背中を強く抱き締め、彼の全てを受け入れていたのだった。
「うへ、汗でべっとべとだ」
「……あんなところでするからです」
私がそういうと城崎は貼りついたシャツをパタパタとエアコンの風で乾かしていた。
「お前も汗くらいかいただろ」
「……知らないです」
こういうデリカシーの無いところはどの男でも一緒なのか。
私達は服を着直して少し会議室で休み二人で会社を出た。
時刻は20時。
この時間に残業をしている部署は無かったが、だからといって二人で会社を出るのは人目が気になる。
だけど城崎は当たり前のように私に手を差し出し、手を繋いで会社の外まで出たのだ。
「……あの、城崎さん……わたし」
なんといえばいいのだろう。今更「こんなことダメです」というのか?
それとも「もうこれっきりということで」か?
どちらにせよあんなにもノリノリ(結果的に)でセックスをしてしまった後に言ったところでなんの説得力もない。
「今度さ、ほら……こないだ行って閉まってたラーメン屋、リベンジしにいこうよ」
そう言って笑った城崎はいつもの城崎に戻っていた。
私はなにも言えずに……ただ「行きましょう」としか答えることで精いっぱいだった。
分かっていた。
もう引き返せない場所にいることを。
私自身が、城崎を求めてしまっている。
それは城崎の左手に光る指輪が目に入る度に痛む胸が教えていた。
人通りの絶えない池袋駅で背中を見送った私は、ぷらぷらとしばらく歩いた。
とても真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかったからだ。
10分ほど歩いた頃か、バッグの中で携帯電話が振動と共に着信を知らせ、画面を開くと発信者はアンコだった。
「もしもしアンコ? あのさ、今どこいんの?」
アンコと話しながらまたもや私の頭の中ではミユキが言った、
『意外とハマっちゃうタイプだと思うんだよね~』
という言葉がぐるぐると巡り、自分自身が惨めだと思う私と、新しい恋に胸をときめかせる私が交互に自らを主張する。
『マイ、なんかあった? なぁ~んか声が明るいね。彼氏とか出来た? 裏切った?』
「うるさいな、あんたは早く仕事見つけなよ! 今日は私が奢ってあげるから、今どこ?!」
『ひぃ~~ん! ひどいよぅマイ~! でもごちになりや~す』
電話を切った私はタクシーを捕まえてアンコと合流する恵比寿へ向かった。
「あ~シャワー浴びたい……」
普段の私ならこんなにべとべとになった体はすぐにでも洗い流したいはずだったが、体についた城崎の匂いをまだ感じていたくて、もう少しこのままでいることにしたのだ。
「マ、マイ……汗臭~い……!」
当然、こうなるわけだけどアンコだから問題はない。
【続く】
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