第3話

 ――ドキドキするだろ?



 遠くの方で聞こえる声、実際は耳元で囁かれているのに遠い遠い場所に立って呟いているだけのように聞こえる。



 目の前がぼやける。ピントが合ったり合わなかったりして、今自分の置かれている状況を忘れさせようと身体の神経が総毛だつのだ。


 トイレの個室で、しかも会社の……。



 視界がぼやけているのは、彼にメガネを外されたからだ。



 ――キスするのに邪魔だろ。



 目の前の男はそう言って私の唇を何度も何度も噛み、啄み、吸い付いたかと思うとコーヒーの残り香のする城崎自身が私の唇を割って入ってくる。

 熱い。



 城崎のそれはとても熱く、それだけで私を火照らせる。



 熱い。



 貯水タンクにもたれかかった私のうなじに陶器のひんやりとした冷気が伝わってくるのに、私の身体はなるばかりだった。

「やめ……!」



 冷静と情熱の間、とても曖昧な部分にぽつんと取り残された私が正気を取り戻すには時間を必要とし、ようやく言葉を発することが出来たというのに城崎の唇が私の耳たぶを食む。



「きのさ……き……さ」



 人差し指で唇を制止されその指は唇を割り、前歯と歯茎を撫でた。



「忘れらなくて、ずっと我慢してたんだ」



「ん、……んん……」



 耳元で囁くエロティックな響きを含んだ声。



 城崎輝一の声。



 ……馬鹿にしている。

キスの温度


◆3◆





【今日の夜行くから。空けておいて】


 

 トイレで最後に城崎はそういって一方的に出て行った。



 その後洗面台で髪と口紅を直した私は、商品部に向かい沢渡さんにツールを受け取るとオフィスのドアの前で深呼吸をしてから入った。



 オフィスには城崎が既に帰ってきており、部長と営業スケジュールと企画について話をしている。



 そんな城崎の顔を見れるはずもなく私は春奈にツールを渡すと春奈は「あ、ありがとうございます~……」と語尾をやや消えそうにして私の顔をほんの少し覗き込んだ。



『もしかしたらあの個室に入っていたのは木下さんかもしれない』



 大方そんなことを気にしているのだろう。良かったじゃない、その通り。

「そうですね、では上期の稼働水準を現在より2ポイント上げるには下北沢東エリアの中年以上の主婦層にターゲットを絞って、ノックタッチを行いつつ……」



 ――ドキドキするだろ。



 同じ声。



 彼の顔はとても見れないのに、声だけは嫌でも聞こえる。



 だけど何故だろう同じ人の同じ声なのにこんなにも聞こえる印象が違うのは。

「木下さん、仙台支部の山田さんに連絡しておいてくれないかな。参考資料として2008年から去年度までの営業実績のデータ……出来ればPDFで取り寄せてくれたら助かる」



「はい……」



 宙を浮くような軽い返事に思わずオフィス内の誰もが私に注目した。



 みんなが注目してもなぜそうなっているのかに数秒気付くのが遅かった私は、慌てて「は、はい! すぐ」と言い直すのだった。

 たった一夜の火遊び。



 遊びのつもりだったのか、そうでなかったのか。



 だけど、真剣……なんてことはありえない。



 私は25歳にもなる。恋人以外とのセックスなんて……

「意外と真面目なんだよねぇ~マイちゃんは~」



 そんな城崎とのことも言えず、いつかの宅飲み会。



 ミユキがいつものマイペースな調子で白ワインを手酌で注ぐ私に言った。



「真面目って、なにが?」



「なんていうかさぁ~、みんなが思っているよりストイックっていうか~」



 ニコニコとブルーチーズを食べるミユキからはなんともいえない匂いが漂っていた。



「ストイック? スヌーピーの隣にいるやつ?」



 アンコが空気を読まず自由な発言をする。



「ううん。えっとねぇ~、浮気とか許さないくせに自分は浮気の対象にされちゃうけどなにも言えないっていうかねぇ~」

 私は笑ってしまった。半分当たり。半分ハズレ。といったところかな。



 ストイック、という点では確かにそうだと思う。幼稚な言い方をすれば『一途』だということだ。



 男に対して理想が高いというか……、自分の認めた男としか付き合いたくはない。



 だから、複数の女性と関係を持ってしまうようなだらしのない男なんてありえない。

 だから、ミユキの言う『浮気の対象にされちゃう』だなんてもっと有り得ないのだ。



 そういったわけで半分当たりで、半分はずれ……。



 そんな意地がギリギリのところでそうさせたのだろうか。



 あの夜、私は城崎と連絡先など交換しなかった。私も知らないし、城崎も知らない。



 たった一回の酔った勢いのセックス。



 それだけで私がその気になるはずがないではないか。

【ムーンバックスに20時】



 制服のポケットに入っていたポストイットに書いたメモ。



「気付かなかったらどうするつもりだったんだろ……」



 はぁ、とため息をついた私は奥の二人掛けのテーブル、少し足の長い椅子に座ってキャラメルシロップとアーモンドフレーバーのコーヒーを飲んでいた。



 

 ――下心があるわけじゃない。



 自分に自分で言い訳をした。



 そうだよ、私は城崎となにかがあることを期待しているんじゃない。



 あの夜がお互いのミスであったと納得した上で、今後はあんなことがないようにしよう。



 そう宣言するためにここで待っているのだ。



 そうでないと……私と城崎はもう上司と部下の関係には二度と戻れなくなる。

 幸い……というか、それが一番ダメなんだけど彼は結婚している。



 この先、あのことを引き摺っていてはだめだ。



 ――よし、ちゃんとはっきり言い切ってやろう。



 そう思い時間を見るともう20時を過ぎていた。



「……仕事、立て込んでるのかな」

 コーヒーを2つ、ドーナッツを1つ、待っている間に食べた私が家に帰ったのは23時過ぎだった。



 なにか別の用事が出来たのは容易に想像できたが、こんな時に連絡先を知らないというのは実に面倒なのだと思い知った。



 かと言ってムーンバックスカフェに4時間以上も待っていた自分にも腹が立ってしかたがない。

『マイちゃんはストイックだからねぇ~』



 いつもよりも少しぬるいシャワーを浴びていると、肩にぶつかる水温と一緒にミユキの言葉が耳に残った。



「……なにが、ストイックよ」



 シャワーのノズルを捻る際、自分の手と城崎の手が重なったあの時を思い出し私は水に濡れた犬が身体を震わせるみたく頭を横に振った。

 冷蔵庫に入れていた飲みかけの白ワインを出すと棚からグラスだけを取って注ぐ。



 テレビもつけずに私はその場で飲み干すと空になったグラスにすぐまた注いだ。



 低いちゃぶ台のような低さのテーブルにグラスとボトルを置くと、読みかけの小説を読みつつワインを飲み、なるべく城崎のことを考えなくていいように努めた。



「……ふぅ」



 2杯目のワインを飲み干したところで私はため息を吐いた。

 思えば読んでいた小説のページ思うほどめくられず、その理由は活字が全く頭に入って来ず何度も同じページを読み返したからだ。



 少し読んでは城崎が浮かび、それを振り払おうと先を読めば内容についてゆけなくなりまたページの最初から読み返す。



 この繰り返しのおかげで私のささやかな時間が台無しになったというわけだ。

 ――もしかして、私は腹を立てているのか。



 認めたくなかった。



 あんな男に約束をすっぽかされただけで私の心が乱されるなど。



 来ることを信じて4時間も待ってしまった自分にも。



 ベッドに倒れ込むと大き目の柔らかい枕に顔を押し付けて、「あーーーー!!」と叫ぶ。

 既婚者になにを期待しているんだ。



 あの人はちょっとした火遊び。セックス出来そうなシチュエーションになったから乗っただけ。



 私はというと……そう、酔ったから。お酒のせいだ。



「うう……」



 目頭が熱くなり、胸の辺りが締め付けられる感覚。これはまずい。

 泣くな。泣くな。泣くな。



「なんの涙だよ……これ……!」



 悔しくない、悲しくない、……会いたくなんかない。



 眠れそうにない私が再び飲み始めたのは深夜2時過ぎごろだった。

 朝起きると、くらくらと回る頭とぼんやりと揺れる視界。そして気持ちの悪さが昨日の私の行動を責めた。



「気持ち悪い……」



 仕事のある日に残るような酒の飲み方はしないことを心がけていたのに、なにをやっているんだ私は。



 結局、城崎に遊ばれたのだ。



 だけど、その遊びに付き合った私も悪い。だから昨日のすっぽかしで見切りをつけないとだめだ。

 もう遅いと分かっていたが胃薬を飲み、シャワーを浴びて無理やり目を覚ますと着替えて私は家を出た。



 ラーメン400円と書かれた黄色い立て看板はいつも通勤に急ぐ私の邪魔だ。



 こと体調の悪い今朝などは特にそう思う。



 カラスかネコか分からないけど散らかした弁当の残骸を避けて、駒込の駅に向かう。

「おっす」



 駒込の改札前で私は信じられらないものを見た。



 城崎がそこに立っていたのだ。



「な、なんで……」



 城崎はいつも通りの爽やかで優しそうな笑顔でニコリと笑うと一言私にこういった。

「今、時間できたから来たんだ。一緒に会社に行こうぜ」



 確かあの日の夜、私は駒込に住んでいると言った。城崎はそのことを覚えていて、わざわざここにきたのだ。



 しかも私が何時にここに来るかも分からない上に、嘘を言っていたかもしれないのに。



「あ、そこのパン屋からパンの焼けるいい匂いがしたから買ったんだけど、どう?」



 城崎の手に持った白いレジ袋から、パンを取り出して笑った。

「クルミパンなんだけど……嫌い?」



 私は城崎を無視して改札へと歩いた。



「あ、ちょっと……。ごめんな、木下! 昨日ちょっと急用が出来ちゃって……帰ったのも1時過ぎててさ! 連絡できなくてごめん!」



 違う。私が勝手に4時間待っていただけだ。城崎も悪いけど、私も悪い。



 同じ罪だと私は思っていた。

 私が城崎を横切ったのはもっと別な理由だった。



「埋め合わせするからさ、な?」



 そういって肩を掴まれた私の正面に立った城崎は思わず言葉を失ったようだ。



「うぅ……ぅ」



「木下……」



 泣き顔を見られたくなかった。

「そんなに傷つけちゃったのか……。ごめん、この通りだ……本当にごめん」



 城崎は私の頭を抱くと何度も撫でた。



「違う……」



 私の声は城崎に聞こえなかった。



 傷ついたんじゃない。



 嬉しかったのだ。不覚にも駅で私を待つ城崎の姿を見て、嬉しくなってしまったのだ。



 この感情に誰より戸惑ったのは私だったし、私自身もこの涙に訳が分からなかった。



 だからこの顔を見せてはいけないと思ったのだ。



 ――ずるい。ずるいよこの人。



 それでなくとも昨日の不摂生で化粧乗りの悪かった私の顔が涙でくしゃくしゃになる。

「会社休むか? ごめん俺のせいで」



 城崎はそう言って駅から出て私を送ろうとした。



 だけど私は城崎の手を引きそれを制止する。



「……木下?」



「大丈夫です、すみません。それより……」



 私はいつも他の人達よりも早い時間に出社する。ギリギリにタイムカードを押すのが性格的に許せないのだ。だからいつも余裕を持った出社を心がけている。



 

 今朝もそれは変わらない。どれだけ体調が悪くてもこれは守り続けている。



 つまり、時間には余裕があるということだ。



「パン……一緒に食べませんか。コーヒー、私が奢ります」



 城崎はなにか言おうと一瞬口を緩めたが、すぐに笑顔に戻して「そうしよう」と言った。

 昨日の夜、城崎に言ってやろうと思っていた全てのことを棚に置いて私はついこのサプライズを満喫してしまった。



 それには2つ理由がある。



 1つは、素直に嬉しかった。



 城崎にここで会うまで、正直会社でどんな顔をすればいいのか不安だったし、どんな態度を彼が取ったとしてもどうしても昨夜のことが引っかかっていたはずだったからだ。

 もう1つの理由は、私がここのパン屋のクルミパンが大好きだということ。



 知らずに買ったはずだけど、それが私が城崎と今一緒にいる理由だ。



 我ながら単純で情けない理由だが、私は城崎との決別をその場でいうことが出来なかった。

「お、ここのクルミパン美味いな。また買いに来よう、その時はまた一緒に食べような」



 クルミパンで頬を膨らませて城崎は私があげたコーヒーをおいしそうに飲んだ。



 多くを求めなければ、このくらいならいいのかな……。



 満員電車の中で私を守りながらギュウギュウの車内で揺れる城崎の鼓動を感じながら、私は私らしくもないことを考えてしまうのだった。



 城崎はパンを買ったレシートの裏に電話番号とメールを書いた紙を私に渡し、会社の少し手前で小走りに走り去った。



 会社のトイレで化粧を直してから出社したからか、その日のタイムカードの打刻時刻は、就職してからこれまでで一番ギリギリの時刻を記録した。






【続く】

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