第2話
息が荒くなっていたのは私の方で、城崎ははじめから息を荒くすることはなかった。
完全に余裕で、冷静で、そして微笑みさえ浮かべこんなことを言うのだ。
「お互いお酒のせい……って言い訳でいこうよ」
普段ならばそんなすかしたような台詞は咳が出るほど不快になるはずの私は、息をする度に激しく打つ心臓が胸から飛び出さないように手で抑え、無言で頷くことしかできなかった。
キスの温度
◆2◆
私に覆いかぶさっている城崎の顔を見ていられなくなり、目を瞑った。
真っ暗になった世界の中で妙に映える音。
衣擦れの音と唇が身体の至るところを吸い付いては離れるネズミの鳴くような愛おしい音。
それらが思考を、感情を狂わしてゆくのに私はそれを遮る術を持たない。
されるがままの私の身体は、肌が露出している部分をくまなく口づけされ、本当ならば敏感に反応するはずなのに心臓が飛び出しそうに踊っている音が私を無反応にする。
とてつもない背徳感、罪悪感、それらを凌駕する興奮と快感。
まだやってきてすらいない後者のプレッシャーに完全に飲まれた背徳と罪悪はドロドロに溶けたバターとなって私の身体を纏わりつく汗となった。
シュルシュルという音。目を瞑ったままネクタイを外した音だと理解すると、私はほんの一瞬だけ城崎の顔を見たくなった。
「あ……」
吐息と一緒に声が漏れる。
城崎はシャツのボタンを全て外し終え、袖のボタンを取ろうとしているところだった。
私をビーチボートのように跨る彼の顔はこれまでどの場面でも決して見ることの無かった、おそらくは誰もしらない顔。
「ダメだよ。目をつむってて」
城崎は脱いだシャツを私の鼻から上に被せ、次はカチャカチャとなにか軽い金属かなにかがぶつかる音を鳴らした。
直感的にそれがなんの音であるか察した私は彼がくれた真っ白の視界の中で頭を支える長く大きな枕をキツく握った。
「いい匂いだ」
ビクン、と腰の辺りが脈打つのが分かった。これは私の意識とは無関係に反応したとしか言えない。
ここまでどれだけ身体中を口づけされても反応できなかった私の体は、妙なことに城崎の声に対して反応したのだ。
――いい匂いって……一体どこのことを言っているんだろう。
「大丈夫だよ、怖いことしないから」
「怖いこと……しない……?」
「ああ」
たったそれだけの会話なのに、私は急に冷静さを取り戻してゆく。
そうか怖がらなくていいんだ。この人は悪い人じゃない。
幼稚な思考に気付くこともなく私は、彼の言葉を鵜呑みにし涼しくなってゆく下半身をよじりながら彼に抗わなかった。
「はっ……アッ!」
お腹辺りに掌の感触。
もぞもぞと蠢き、それは私の顔に向かって上流してゆく。時折強く私の肌を蹴り、かと思えば忍び足で静かにゆっくりと這ってくる。
初めての感覚は、私の知っているセックスとはなにもかもが違っていて、城崎のひとつひとつのアクションに私は混乱してゆく。
「で、電気を……消してください……」
辛うじて言えたそのたった一言の言葉は「目を瞑っていれば暗くて見えないよ」という白々しいほどの回答で占められた。
「大丈夫、僕も目をつむっているから」
――嘘だ。
そんなことがあるはずがない。
彼の二つの手と、二つの足、そして舌と吐息は私の理性を容赦なく奪っていき、耳元で城崎はわざとらしく吐息を吐いた。
「はぁ……はぁ……興奮する……木下」
わざとらしいはずの、見え透いた言葉。
なのに木下と呼び捨てられるだけで鞭で打たれる衝撃が全身を走った。
その衝撃に身体を休めさせることもなく、城崎は私のふとももからそこを《わざと》避けて、腰へ。
腰に通れば脇へ。
脇を通れば今度は腕……指先。
「は……ぁ……切ない……」
なぜこんな言葉が出てしまったのか分からない。
だが、彼がわざわざ避けてゆくあらゆる部位が震えるほどの絶叫を持って彼の愛撫を求めるのだ。
「城崎さ……、な……め……」
もう理性などどうでもよくなってしまった私が彼に懇願しようとした時だった。
唇を唇で塞がれることによって私は言葉を発する自由ですら奪われたのだ。
「ちゅ……、ん……」
形容しがたい淫靡な音。薄く流れる有線からは今日録画していた音楽番組で出る予定だったお目当てのアイドルの歌。
――あ、今何時だろう。出番終わったかな
理性など吹っ飛んでしまったはずなのに、そんななんでもないようなことはふと考えてしまう。
このアンバランスさを自覚した瞬間、ベッドの上から獣のような格好の自分を見下すいつもの自分が現れる。
自分の今していることを客観視することで、再び私に襲い掛かる背徳感と罪悪感は最高に甘い蜜となって私の身体中に城崎の唾液と姿を変えてまとわりつくのだ。
突然、目の前の世界が広がった。
鏡で敷き詰められた天井に私が映っている。
その姿はもう一人の自分が見下ろしていたそれよりももっといやらしく、みっともない姿で……その瞬間、もうなにもかもが手遅れであると知った。
だがここでいう手遅れとは、さほど悪い意味ではなくこの男を受け入れてしまおうという諦めと期待からである。
「う、は……、あぁ!」
胸の先端から電撃の如く走る快感から出た声は、私自身も聞いたことの無いものだった。
「痛くない? 痛かったら言ってね」
「痛く……な、い……」
城崎は私の顎のすぐ下で私の表情を見ながら楽しんでいるようにも見えた。……いや、楽しんでいた。
たった一枚の下着ですらつけていない私達二人は、元々一つだった身体が二つに分かれ互いを求めてまた一つになろうとしているかのように何度も密着しては互いの身体を擦り合わせた。
「あ、駄目です……私、その……」
最後の言葉は最後の一線を越えるのを防ぐ決定的な言葉にはならなかった。
ついに城崎が私の体内にやってきた。
自分でも信じられないほどすんなりと城崎のそれを受け入れてしまった私は、恥ずかしさと情けなさに思考を奪われる暇も与えられず、全身に致死性の電撃が襲った。
プラグを抜き差しして遊ぶ子供のように夢中に感覚を貪る私が覚えているのはそこまでだ。
次に気付いた時、汗でじっとりと湿ったベッドの上で城崎に見詰められているところだった。
「……お疲れ様」
城崎は私の頭を撫でていつもと変わらない笑顔で私にそう言った。
――彼は最後まで辿り着けたのかな。
記憶が曖昧になるほどのセックスでその後の城崎がどうだったのか分からなかった私は、城崎に背を向けて俯くしか出来ずそれを聞くことが出来なかった。
「ごめん、僕が悪かったよ。木下に悪いことしちゃったよな」
――ずるい。終わった後でそれを言うか。
私は勇気を出して城崎の方に寝返りを打つと、彼の汗ばんだ胸におでこをあてて身を寄せて言う。
「謝らないで……ください……」
「……そっか。ありがとう、木下」
「いえ……」
『奥さん、大丈夫なんですか?』
私は最後までそれを聞けず城崎の胸で眠った。
日が経つは無神経なほど早く、城崎と寝たあの夜から1週間が経っていた。
毎日の日常は恐ろしくいつも通りで、日常が日常でなくなったのはどうやら私だけなようだ。
それというのも城崎は城崎で普段となにも変わらない。
普段と変わらずバリバリと仕事をし、成績も相変わらず優秀。
他の女子とも、上司とも変わらず接し相変わらず人気は増すばかり。
じゃあ、あの日以降彼は私に対して特別か?
「木下さん、申し訳ないけど次原航業に23日の領収書送っておいてくれるかな? 実績のデータは……」
私は「か、かしこまりました」と平静を装うが自分でも装いきれていないのが分かる。
「じゃ、頼むよ!」
そんな私に気付く様子もなく城崎はいつもと同じ爽やかな笑顔で出かけてゆくのだった。
――あの夜の事はなにかの間違いだったのかもしれない。
次第に私はそう思うようになった。
余りにも普段となにも変わらない城崎と、彼を見る度に息苦しくなる自分。
そんな状況になったのはきっと私のはしたない願望なのだ。
あの夜は現実にはなくて、余りに私が欲求不満だったためにリアルな夢を見たに過ぎない。
そうだ。そうに決まっている。
「木下さ~ん、商品部の沢渡さんに販促ツール貰ってきてほしいんですけど~」
間延びした物言いで同僚の春奈が私に言ってきた。
「うん、わかった」
「あ、ねぇねぇ木下さ~ん」
椅子から立ち上がった私を春奈が呼び止め、私の耳元で「彼氏できました?」と聞いてきた。
「な、なんで? できてないよ」
「そうなんですか~? あれ~てっきり出来たんだと思ったんだけどな~」
「彼氏、欲しいよ。今度誰か紹介してよ」
無理に笑ったので、引きつった表情になっていないか気になったが春奈は特に気にする様子もなく「いいよ~」と笑って再びデスクに戻る。
「じゃあ……商品部に行ってきます」
まずい……。やっぱりモロに態度に出ているのかな。
気になった私は商品部に行く前にトイレ寄り、自分の顔を鏡で確かめた。
「なにも無かった。なにも無かった……、よし! 絶対そうだよ」
鏡に映る私はいつも通りの私の顔のようにも見えたが、どこか引きつっている印象を感じた。
そんな自分をそろそろ正気に戻そうと軽く頬を叩き、目薬を差すと気分を切り替えようと努め、深呼吸をしてトイレを出た。
「なにが無かったの?」
トイレを出たその時だった。
目の前に城崎が立っていたのだ。
「城崎さ……」
たった今出てきたというのに私は城崎にトイレに押し戻され、無理矢理個室に押し込められると鍵を閉められた。
「な、なにを……」
「しっ、誰かに気付かれるよ」
城崎がそう言った時、誰かがトイレに入ってきた。
「……っ」
咄嗟に私は城崎が言った通り黙るしかなかった。
「ねぇ木下さん、最近おかしくない~?」
――この間延びする口調……春奈だ……。
「え、そう? 全然わかんなかった」
もう一人は誰だろ……声から察するに多分、佑月かな。
「だってさ~、妙に最近ぼーっとしてるっていうか~。ほらあの人っていつもやけにテキパキとしてるし、城崎さんに対しても興味ありませぇんみたいな感じじゃない」
「ああそれわかる~」
城崎は私の口を手で塞ぎながら自分を指差し『俺に興味ない?』というジェスチャーで笑う。
城崎の手からあがってくる匂いがこんな状況なのにあの夜のことを思い出させる。
この状況を棚に置いても間違いなくこの男と私はセックスをした。
この肌の匂い……特徴的な匂いなんてないはずだけど、この匂いで私は確信してしまった。
しかしこの状況でそれを確信してしまうと、私はそれこそ平常心を保てなくなる。
私の口を塞いでいるはずの手を両手で掴み必死で声や音が出ないように努めていると、自然と目を瞑っていた。
「もしかして城崎さんに目覚めたとか?」
「え~ないない~! あんなつまんなさそうな仕事女子だよ~」
「でも城崎さんってうちらのアイドルじゃん? 木下さんにも恋する権利あるって!」
「木下さんが恋をしても城崎さんは絶対振り向かないでしょ」
「結婚してるしね~」
緊張が凝縮された個室とドア一枚を挟んで春奈たちは盛り上がっている。
「私、結婚しててもいいから一回抱かれたいな~」
「ははは、それこそ無理無理。あの人、結婚してから奥さんのことしか喋らないじゃん。ほんっと奥さんいいよね、あんな人が毎日家に帰ってくるんだから。でも誘われたら私もやっちゃうかも~」
あはは~と笑った春奈に釣られて佑月も一緒にだよね~と笑う中、城崎は私の口から手をどけて後頭部を抑えつけると無理矢理キスをしてきた。
驚いた私は洋式便器の背にある貯水タンクに肩をぶつけてしまい、『ガコッ』と陶器の音がトイレに響く。
「あ……やだ」
「いこっか!」
誰かに聞かれたという気まずさに二人はさっさとトイレを後にし、静かになった女子トイレ内には私達のキスの音だけが冷たい壁に跳ね返り、私の耳に何度も突き刺さる。
抗う腕も城崎の激しく求めるキスの前では無力になり、私はされるがままに唇を貪られるのだった――。
これから……私はどうなってゆくのだろう。
【続く】
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