キスの温度

巨海えるな

第1話

 ――ねぇ、キスの温度って知ってる。



 初めてのキスをしたとき、彼は私にそう言った。



 私がそんなもの知らないと突っぱねようと思った時、前に出した両腕をすり抜けて唇を奪われた。



 なにをするのかと驚いた私はすぐに引き離そうとしたが、頬を堅く掴まれその唇から逃れることが出来ず、そうこうしている内に彼の温かくぬるりとしたなにかが私の唇を割って入ってくる。



 水面を叩くような音にたまらなく恥ずかしくなり抗うけれど、まるで猫が尻尾を強く握られたように力が抜けて上手く逆らえない。



 彼が私の口の中に侵入し、好き勝手に暴れ回る。



 ただ、それは乱暴に暴れるわけではなく私の舌や頬、歯の裏や歯茎に至るまでその感触を確かめるように触れては逃げ、触れては逃げてゆくという臆病なものにも取れた。



 ――ああ、私は今どんな顔をしているのだろうか。



 抗う力を失い、辛うじてスーツの裾を掴むしか出来ない私に彼は気付いているだろう。

 唇が離れた拍子に名残惜しそうに口から糸を引きながら彼を引き留めようとする唾液がなんとも私を情けなくさせた。



 ――どうして。



 そこまでしか言えなかった私に彼はただ笑うばかりで何も言ってくれない。



 ――キスの温度、どんなだった?



 何も言わないと思っていたら、的外れな問い。

 馬鹿にしてる……。なんでこんな男に私が……。



 ――こんな男に私がって思ってる?



 心を読んだつもりになって気持ちよくなっているこの男。許せない、こんな……



 ――俺の事、好きになった?



 ――……誰が!



 ――あ、そう。じゃあ確かめてもいいかな?

 ――ちょ、なにやって……やめて!



 今度こそは、と強く逆らいなんとしても近づけないようにするが女の力は弱い。



 駄々っ子のようにぶんぶんと振り回す手は抵抗空しく簡単に片方を掴まれた。



 だけどもう片方の腕は彼の頬に直撃した。



 ――あ。



 彼は顔色一つ変えずに顔に当たったまま止まった私の手の手首を掴むと自由を奪う。

 ――やめて。



 顔を激しく横に振ればきっと逃れられる。



 背には逃げ場のない壁がもたれかかり、両手を掴まれたまま徐々に壁に押さえつけられてゆく。



 なぜこの男はやめてと言っているのにやめてくれないのだろう。



 ――すっげぇかわいい。



 ――……かわいく……ない……



 ずんずんと近づいてくる顔はすでに知っている彼の顔じゃなかった。

 一体この男は誰なんだろう。こんな男……知らない。



 彼の鼻と私の鼻がぶつかり合いそうになって、私は目をつむった。



 鼻はぶつからなかったけど、唇がぶつかり彼の鼻の感触が頬の辺りに感じる。



 再び唇をこじ開けられる。また彼が侵入してくる。



 だけど、今度は味があった。



 鉄のような味……血の味だ。

 あ……さっきの……



 顔に手をぶつけてしまったとき、多分口の中を切ってしまったんだろう。



 少し悪い気がしていると、口の中が急に窮屈な感覚が襲い私は驚いてつい目を開けてしまった。



 目を瞑った彼の顔がこんなにも近くあり、心臓が強く何度も私の胸を打つ。



 このまま止まってしまうのではないだろうかと思うほどの鼓動に息苦しくなり、自然と涙が込み上げてくる。



 だけども息苦しさの別の理由と、口の中が窮屈になった理由に気付くと私はどうにも恥ずかしくなり再び堅く目を瞑った。



 彼はキスしながら私の口を吸ったのだ。



 それの意味するところはきっとこうだ。



 ――お前もこっちにこいよ。



 きっとそう言っているのだ。ここで私がその誘いに乗るともう後戻りなど出来なくなる。



 今ならきっと、……多分、ギリギリ許されるんじゃないか。

 そんな都合のいいことを考えていた。



 けれど私は、イメージを止められなかった。



 彼に自分を許してしまった時、どんな快感が待っているのだろう。



 一体自分はどうなってしまうんだろう。



 考えれば考えるほどドキドキが止まらなくなり、どうしても試したくなる。



 そんな自分を必死で塞き止める。

 ――!?



 彼は私の手を放すと片手で腰を抱き、もう片方の手で私の肩から頭を抱き更に激しく求めてきたのだ。



 どうすればいいのか分からなくなった私の両手は行き場を失くし、胸の位置でただ手を開くしか出来ない。



 こんな時、女はどうしてこんなにも無力なのだろう。



 水面を叩く音はこの空間を埋め尽くすかのように自分の唇からこの音が出ているのだと思い知らせる。



 もう……ダメだ……。もう逆らえない……

 私は段々と観念し始めていた。口内で私を求める彼の誘うがままに私を許してしまいそうになっていた。



 ダメ……ダメだって……。



 声にならない声が頼りなく呟く。



 彼の手が腰から離れ、私の胸に触れた。



 ドアノブから指先に静電気が走るあの感覚と似た衝撃で、私は肩を大きく鳴らしその拍子につい力を抜いてしまった。



 彼は口の中で私にまとわりつき、そのまま私を彼の元へと引き連れてゆく。

 自分から好きでもない男に口の中の私をせり出している。



 そしてその男は私に吸いつき、互いの舌を鳴らす。



 行き場を失っていた私の腕は、それこそ吸い付くほどに彼の背中を抱き、広い背中を強く握った。



 キスってこんなに長い時間するものだろうか。



 でも、なんでだろう。全然嫌じゃなかった。



 私は考えていた。次に唇が離れたときのことを。



 その時のためにちゃんと考えておかなければいけないのだ。



 なぜなら、彼はきっと私にまたこう聞くから……。







キスの温度 1








       

【営業部にこの男あり】



 私が入社した時から有名な存在だった。



 女子高出身の同期はその男に黄色い悲鳴を上げ、ほとんど追っかけのようになりその男を見かけるときはいつも爛々とした瞳を投げかけ、恋の言葉に酔うのだ。



 理解に苦しむ私が営業部に配属し、この男と同じ部署になったのはそれから2年後のことだった。

 城崎輝一……きのさき きいち。



 彼の同期や上司の一部からは「キーチ」と呼ばれている。



 物腰が落ち着いており、紳士的。それなのに同性といるときは子供のように笑い、ふざけ合っている。



 営業部始まって以来の好成績を叩きだし、毎年のように表彰されている。

 一見、程遠く感じる城崎という男は、近付けば近付くほどに相手の間合いに無防備で立ち入ってくる。



 その無防備さが男女問わずに彼を人気ものにする所以なのだろう。



 そんな完璧な男なんて興味がない。



 一緒にいても楽しくなさそうだ。正直に言うと私はそんな風に彼を思っていた。



 だから、一緒の部署になったところで城崎を意識することなどない。そう思っていた。

 ある日の会社の飲み会の時のこと。



 城崎の周りには常に人が溢れており、それこそそれは同僚であったり彼目当ての女性社員であったり。



 30名ほどで借り切った座敷で、城崎が上司にビールをつぎに行こうとするのを阻止するような数人の社員に対し私は単純に腹が立ったのだ。



「城崎さんは三田村部長とお話されたいようですので、後でもう一度薦められてはどうでしょう?」



 やんわりと言ったつもりだったが、相手の眉間に寄ったシワで印象が悪くなったことだけは分かった。

 ここでよくある嫌がらせを受け……なんて盛り上がりそうな話は残念ながらない。



 だけど、思わぬ出来事がその後私に起こった。



「この後、飲み直さないか?」



 城崎に誘われたのである。



 私は流石に呆れてしまった。意外とこの男も皆が思っているよりも浅いのかもしれない。

 そもそも男性に対して余り良いイメージを持っていない私は悪い癖でつい、城崎の感謝の現れを他意のない純粋なものとして受け取れなかったのだ。



「いえ、今日は帰ります」



 私がそう言うと城崎は「そうか、残念だな……」と眉を下げはにかんだ。



 そして後ろを振り返ると、「二次会行かないって」と同僚に報告した。

 別に二人きりで誘われたわけじゃないことは分かっていたつもりだったが、何故か妙にその時彼の事を見直した気になったのを覚えている。



 少し酔っているのだな。私がそう思うのは仕方がなかったし、そう思って当然だろう。



 だけど翌週出社した私を見つけた城崎は周りを見渡すと、にっこりと笑って私に小さな封筒を差し出した。



「昨日は困ってるのを助けてくれてありがとう。本当は二次会の時にちゃんとお礼言いたかったんだけど」



 と照れる様子もなく言って見せた。

 ああ、逆に気を使わせてしまったな。



 2次会に行かなかったことを少し後悔したのは、物で返して欲しかったからじゃなかったから。



 あの時ほんの少し我慢して2次会に言っておけばこんないらぬ気を使わせないで済んだのに。



 私がデスクでこっそりと中身を出して見て見ると、それは図書券1000円分だった。



「ふふ……」

 その庶民的で庶民的な金額のお礼に思わず笑ってしまった。



 私の笑い声に気付いたのか、斜め前のデスクで城崎は笑って親指を立てた。



 このくらいはいいか、そう思い私も親指を立てて答えた。



「……弊社のサービスについての問い合わせ頂きまして、ありがとうございます。ご迷惑で無かったら山村様のお手すきのお時間に一度ご説明させて頂こうかと考えておりますが、ご都合のほどは如何でしょうか」



 城崎が電話で営業トークをしているのを聞くといつも感心する。

 好きなタイプではないとはいえ、仕事に関しては尊敬している。



 【営業部にこの男あり】その噂は自分自身がこの部署に配属されて、それに偽りがないことを知った。



 仕事をしている時の男の顔というのは、ずるい。



 何気に見せるふとした表情などが普段の砕けた感じとのギャップを印象付けるのだろう。



 気づけば私が営業部に配属してから更に2年が経っていた。

「城崎さん、結婚するって本当なの?!」



 ある日、違う部署の同期の女性社員に内線通話での業務連絡のついでに聞かれた。



「うん。6月だって」



「ええっ!? ジューンブライドじゃん! うっわぁ~、城崎さんと一回くらい付き合いたかったなぁ」



「良かったじゃん。夢見たまま結婚してくれて。じゃあ、もう切るね」


 城崎の結婚は、つい先週本人の口から聞かされた。



 週明けの月曜日、朝礼の挨拶でのことだ。



「他に連絡事項のある方はおられますか」



 朝礼で部長の話の後にこれを尋ねるのが私の日課だった。



 そのとき、「ちょっといいですか」と手を上げたのが城崎だった。

「あー私事ではありますが……この度結婚することとなりまして」



 照れているのか城崎は個人成績のマグネットが貼り付けたホワイトボードに目を泳がせて、にやけそうになる口を無理に抑えようとしている。



 結果としてそれが俗に言う『アヒル口』という奴になって、私は珍しく彼を少しだけ『かわいいな』だなんて思ってしまった。



「ええええっっ!」



 私を除いた女子社員がタイミングを合わせたかのように悲鳴をハモらせる。

 予想はしていたことだが、その悲鳴が悲痛に聞こえて本当に悲しんでいるのではないかと思わせた。



「あ……いや、ね? ほら俺ももう良い歳だし結婚くらい……」



 城崎がいくら諭したところで悲しみで皺くちゃになった彼女たちの表情は戻らない。これではまるで韓流タレントにハマるおばさまじゃないか。



 その後、部長が女性社員たちをなんだかんだと宥めていたがそれが余計にイラだった。



 

 ――なんでもない普通の男じゃない。



 ちやほやされる城崎の顔を自分のデスクからマジマジ見ると、確かに作りの良い綺麗な顔立ちをしている。



 だけど、私から言わせればそれだけだ。



「――!?」



 私が呆れながら城崎の顔を見詰めていると、不意に彼と目が合ってしまった。



 城崎は、一瞬気まずくなる私に関することなくいつかと同じように親指を立て、はにかんだ。

「わかってないなぁ~マイちゃんは」



 時々集まる女子会。……アラサー女子が3人も集まって週末にワインを空ける。



 実にみっともなくみじめな会だけど、私にはこれが丁度いい気晴らしになるのだ。



「分かってない……ってなにが?」



 高校時代からの友達であるミユキは昔からおっとりとしていて、それでいて何故か威圧感……というか妙に大物のオーラを漂わせる女だ。

「女子はね? 綺麗な男の人の顔を眺めてるだけでい~いんだよぉ。そしたらこの人とならどこ行きたいとかどこ歩きたいとかどんなもの食べたいとか色々妄想できるでしょぉ?

 それだけでい~いんだよぉ。だけど、結婚しちゃったらその人、帰るところがあって待ってる奥さんがいるわけでしょぉ? それじゃあもう妄想出来ないじゃなぁ~い」



「わかるわかる。私もよぉっっく妄想するよ!」



「え、あんたも分かるの? プーのニートのくせに」



「ニートじゃないやい!」



 私の目の前でチューハイの缶ガシャガシャと握り占めているのはアンコ。もう1年以上無職で就活中の哀れなアラサー女子だ。



 誰にどんな文句を言われてもアンコにだけは言われたくないと思っている。



「……けど、そんなにいいかな……。みんながワーキャー言って騒ぐほどじゃないと思うんだけどなー……」



「けどマイちゃ~ん。その男の人、きっと結婚したらもっと人気出るよ思うよ~」

 ミユキの言ったことが私にはいまいち理解が出来なかった。



 結婚したほうがモテる? なにを言っているんだ?



 家庭のある男に手を出すなんて馬鹿まるだしじゃない。



「手を出すなんて言ってないよぉ~お? もしかして、マイちゃん……意外とハマるタイプだったりしてぇ~」



 ニコニコとマイペースに焼酎をストレートで飲みながらミユキは見透かすように笑う。

「馬鹿、そんなわけあるわけないじゃない」



 私は余りにも有り得ないことに苦笑いしてキューブチーズを赤ワインで流し込んだのだった。



「そうそうマイだったら奥さんから略奪しちゃいそうだもんね!」



「ちょっとアンコ、それもしかして私に対するイメージ? ちょっとそれ……失礼くない?」



「ちちち、違うってばマイ……私はその……うっきゃーーーー」

 城崎が結婚してしばらくした頃。あれから別になにもなく普通の上司と部下としての日常が過ぎていた。



 ミユキが言った通り、城崎の人気は結婚したことで更に加熱してゆく一方でそれをちらりと視界の隅で見ていた私はバカバカしいと思った。



「結婚してもっと落ち着いた」



「奥さん想いなところが更にポイントが高い」



 ……全く、何を言っているんだ。

 所詮自分のものにはならない男になぜにこうもムーブメントが起きるのだろうか。



 そりゃ私もテレビで見る可愛い顔をしたアイドルグループは好きだし、今日だってそんな彼らが出る番組を録画予約している。



 今日帰った後の些細な楽しみだ。



 だから、私はこんなにも近くに居る『他人の物』には興味がないのだ。

「それじゃ、城崎くんの結婚を祝ってみんなで飲みに行こう」



 よせばいいのに城崎からの人気のおこぼれでも期待しているのか、大森課長が急に言いだした。



「行く行く! ねぇねぇ城崎さん来ますよね!」



 大森課長の急な提案にすっかりノリ気になった女子たちが仕事中だというのに城崎を取り囲み、城崎の返事を急かす。

「ええ左様でございます。はい……はい、仰る通り先日伺いました案件につきまして特記事項3の項目……」



 それよりも取引先と電話応対をしている私をもうちょっと気にかけて欲しい。



 城崎がいることでどの女子も真面目に仕事しないのならとっとと部署の移動でも栄転でもしてほしいものだ。



 私が電話応対をしていてそんな盛り上がっている会話の外にいると、ちょんちょんと肩を叩く感触に気が付いた。

 振り返ると話題の中心である城崎がにこにこと私を見てなにかジェスチャーをしていた。



「はい、次回の訪問可能日は本日より2営業日後でございまして……」



 電話で話していてそれどころではなかった私は城崎のジェスチャーに対して適当に相槌を打ち、取引先の営業と会話を続ける。



 非常識な事業所だ。誰も彼も遊ぶことに夢中なのか。

「ちょっと奥さんに聞かなきゃ分からないけど……う~ん、でもせっかくだし説得してでも絶対行くよ」



 電話を切った時、城崎のそんな言葉が聞こえた。



 ……なんだ。結局行くのか。



 ふぅ、とため息交じりに今会話した営業との要点をメモした用紙に目を通し、スケジュールのデータを呼び出すと、私には無関係な飲み会の話など気にせずに定時帰りを目指した。

「じゃあ、木下さんお店の予約頼むね」



 ……ん? 今木下って言った?



「……はい?」



 城崎はにこにこと笑いながら手にコップを持った体にしくいくいと飲む仕草をし、



「さっきやってくれるって言ったじゃん」



 と言った。

 …………?



 私は城崎を見詰めたまま固まった。



「あ、ああ……わかりました」



 ――やられた!



 さっきの電話の時のあれか! と気づいたが時すでに遅し。



 すっかり私が店を探して一緒にいくという話になっている。

「……はあ」



 ここで下手に「私は行きません」とか言ってしまうと無駄に空気の読めない女扱いをされてしまう。



 うう、今日は録画した番組を見ながらワインのつもりだったのに。



「ごめんね急に頼んじゃって。任せたよ木下さん」



「はあ……」



 仕事用のメガネの位置を直し、私はなるべく苦笑いだと分からないように作り笑いをして答えた。

 普段あまり無駄話をしないせいか、自分で言うのもなんだけど周りから見た私の評判というのは「真面目で融通が利かない女」だそうだ。



 なぜ知っているのか?



 それを聞く男は分かっていない。女という生き物の生態を。



 本人の耳に届くように計算して噂をしているんだ。



 当たり前だけど、わざと。

 うちの会社は元々女性の定着率と、応募率が高い。



 その結果、どの事業所……ああ、営業を除いてはどこも女性の比率が高くなるというわけだ。



 だからこういった良く解らない理由の飲み会は多いし、その度に目当ての男を引っ張ってきたがる。



 全く……だからといって新婚の男を連れてきてなんになるというのだ。



 そう思いつつも私は19時に予約した手頃な安さが魅力的なフレンチバーに皆の先頭を歩いて訪れた。

「おお~~……」



 普段はチェーン店の居酒屋や、無理して割烹などばかり言っている男性陣はこの店にくると決まって同じ反応をする。



 この感覚は男性には中々理解しづらいだろう。



 その声からするに素直に感動はしているのだろうけど、進んで来店するに至らない。けれども目当ての女性を連れてくるには丁度いいから覚えておこう……。



 みたいな顔を課長も部長も新人もみんなする。

 しかし城崎はそんなセオリーに半分当てはまり、半分あてはまらなかった。



「よくこんなお店知っているね」



 素直に感心している……という点ではセオリー通り。



「いえ、なぜかいつもお店選びを任されるものですから……」



 これは本当のことだった。一人だけ誘わないのも悪いし、だからといって誘わないのも気まずい。



 だから「店探し役をさせておけば自然にメンバーに入れられる」ということでいつも店選びを任されるのだ。

「いや、でもこういうのってセンスだからね。僕もさワインが好きだから結構この辺チェックしてたんだけど、ここは知らなかったなぁ」



 そういった顔は本当に雰囲気が好きだというように映った。



 それを信用するのならばセオリー外……。下心はなし……か。



「新婚ですものね。今度は奥さんを連れてきてあげてください」



 私がそう言うと周りの女子からは「今奥さんの話するなよ」的な視線が刺さる。



 知ったことか。



「ああ、きっと家内も喜ぶよ。ありがとう木下さん」



 優しい笑みで笑う。その笑顔にはなんの悪意も打算も下心も垣間見えなかった。



 ――ああ、なるほど。だから結婚した男はモテるのか。

 思わずミユキの言ったことを納得しそうになった自分を必死で戒めると、私は慌てて普段の顔を取り戻すのだった。



 それにしても城崎の放った『家内』という言葉に私は新鮮さと好感を憶えた。



 ――奥さんを大事にする人って素敵だな。



 その感想だけは唯一私自身素直に受け入れることができた。

 そこからの飲み会はなんとも居心地が悪く、退屈なものだった。



 誰も彼も矢継ぎ早に城崎に対し質問攻めし、余った課長と数人の男性社員はことあるごとに話に割って入ったり、ちょっとしたフレーズを拾ってテレビでお笑いタレントがやっているギャグを披露して笑わそうとしているがその全てが不発に終わっていた。



 次第に口数が少なくなった彼らは残った料理に手をつける回数と時間が増える。

 そんな中で私はカウンターで一人白ワインを飲み、早く時間が過ぎてはくれないかと時計ばかりを眺めていた。



「木下さんってなんで美人なのに彼氏いないんですか?」



 ――出た。お決まりの社交辞令。



 同じ女だから分かるが女が女を「美人なのに」とか「かわいい」とかというほめ言葉を付けて紹介するときというのは、たいていが自分よりも満たされていない所謂「かわいそうな女」として自分を目立たせたいときである。

「美人かどうかはわからないけど……彼氏はいないなぁ」



 ははは、と愛想笑いをすると何人かが「えーもったいない」とか心にもない声を上げるが、私はいちいちそんなものに乗りはしない。



 だからもう一度、ははは、と愛想笑いをするのだ。



「彼氏いないの? 意外だな、メガネをつけたままでもこんなに綺麗な女性は珍しいのに」



 特ににやけるわけでも、おどけてみせるわけでもなくごくごく自然体で城崎が私にそんなことを言う物だから、場の時が一瞬止まった。



 おいおい……だから結婚してるからこの人……。そんな顔やめてよ。



「ありがとうございます。ありがたくお気持ち頂戴しておきますね」

「いや本当だよ。もっと自分に自信持たないと!」



 ははは、と三度目の愛想笑いを許さなかった城崎の言葉は今日一番強い口調で放たれた。



 じとー……とした視線が痛い。



 だから来たくなかったのに……。

 そこからの城崎はというと女子たちの思惑を余所にやたらと奥さんの話を連発し、次第に彼女たちの興味を削いでいった。



 それがもたらしたのはこぼれた他の男性陣へのコンタクト。



 ずっと相手をしてもらいたかった彼らは待ってましたとばかりに喋る。本当に男とはめでたいものだ……。



 もっと城崎を見習えないものか……。

 こんなみんなの前で奥さんの話を自慢出来るのって、素敵だな……なんて私は素直に思っていた。



 それによって女子が離れて言ってもお構いなしだ。



 でもそれが逆にいいなぁ、と思った。



 しばらくして話相手がいなくなってしまった城崎は一人で飲んでいる私を見つけ隣にやってきた。

「家内の話をしすぎちゃって……なんかみんなに悪いことしたな……」



 照れたように頭を掻く城崎に今まで抱いたことの無いかわいさを感じつつも、私はそんなおどけた彼に対し「仕方ないですよ。城崎さんは女子社員からアイドル視されてますから」とフォローしてあげた。



「早く帰りたいんじゃないですか? すみません、妙な会を開いてしまって」



 開催したのも立案したのも全く持って私ではないが、体裁的に謝っておく。

「ううん、楽しいから大丈夫だよ。というか別に木下さんのせいじゃないじゃないか。謝らないでよ」



 城崎は私と同じ白ワインを注文すると「とりあえず独身卒業に乾杯」と自分で言ってグラスを鳴らすと一口煽った。



「白が好きなんだね」



「ええ、みんな赤ばっかり飲むんですけど私は白派で」



「僕も同じなんだ。赤のあの渋さが苦手でね、だけど白は好きっていう……まぁただの酒好きさ」

 私はさきほどまでの「ははは」とは違う、ちゃんと会話を楽しんでいる笑いで相槌を打った。






 やがて時間が訪れ解散になり、それぞれが2軒目に行ったり散ったりと好き勝手にばらつき飲み会が終わった。



 城崎と私は次の店には参加せずに帰ることにし、元々の主役であったはずの城崎は帰るというのに誰も引き留めず気持ちの良い「お疲れ様でしたー」で幕を引く。

 この会になんの思い入れもない私も些か城崎のこの扱いに苦油を塗られた感覚を覚え、城崎の顔色を見るが、彼はなにも気にする様子もなく普段と同じく爽やかな表情で「お疲れ様」と返事を返していた。



 ふぅ……。



 私は彼に気付かれないように溜息を吐くと胸を撫で下ろした。



 モテる男には理由がある……ということか。なんと人間がよく出来ているではないか。

「……あのさ、こんなこと言ったら怒られるかな」



 駅まで歩く道中で城崎が私に恐る恐るそんなことを言って来た。



 一体何を言われるのかと恐々とし、私は唇を少し引っ込めつつ「なんですか?」と聞き返す。



「実は……お腹空いちゃって」

「え……お腹ですか? さっき食べたじゃないですか!」



 怒ったつもりはないが思わぬ言葉に私は少々声が大きくなってしまった。



「ごめん……いや、ちょっと食べたんだけど途中でなんかあの輪に居づらくなったじゃん? そっからワインしか飲んでないから、正直お腹が空いてて……。家内にもご飯いらないって言っちゃったからさ」



 バツの悪そうに苦笑いしている城崎に私は強い口調でこう言った。

「城崎さん!」



「は、はい!」



「……私もです。お腹空きましたよね」



 城崎は私の言葉を聞くと一瞬目を丸くしたがすぐに笑ってくれた。

 そう。私もさきほどの場ではほとんど食べていない。



 なぜかというとあの輪の中で話題を振られるのが嫌だったからだ。



 しかし残念ながらあの輪に囲まれたテーブルに料理があったので中々行き辛かった。



 そういうわけで私は食事を諦めたのだった。

「マジで!? そっかぁ……呼ばれておいてあれだけど正直、居心地悪くなかった?」



「ええ……すっごく」



「はは!」



「ふふ」


 そのとき城崎が見せた笑みは、いつもの爽やかなものではなく悪ガキがいたずらをして笑うようなやんちゃなものだった。



 その笑みを見て私も「ははは」という余所行きでない、ミユキやアンコといる時にする笑い声を上げた。



「ほんっともう二度といきたくねー」



「私もあの店で飲み会するくらいなら一人で飲みたいですよ」

 ひとしきり笑い終えると城崎が時計を見て言った。



「まだ終電まで時間あるな……。良かったら飯いかない? 上手いラーメン屋知ってんだけど」



「いいんですか? ……じゃあお願いします」



 不覚にも【飯(メシ)】というフレーズにドキドキしてしまった。



 最近めっきり男の口からそんな言葉を聞いてない上に、普段は畏まってる城崎から発せられたそれに、妙なドキドキを感じたのだ。

「わ」



 城崎の短い声に私は立ち止まった。



「ごめん木下」



 何事なのかと思い、彼の目線の先を見た。



「あ……定休日?」



 城崎は私の顔の前で手を合わせて「ごめーん」と謝り、私はそんな彼に手をプラプラと振って「大丈夫です」と言った。

 だけどもラーメン屋さんが閉まっていたことよりも、私は彼が不意に言った「木下」という言葉に心を鷲掴みにされていた。



 普段は……ううん、ついさっきまでは私のことを「木下さん」って呼んでいたのに、急に距離感が縮まったからか、城崎は私を「木下」と呼び捨てにしたのだ。



 マイではなく木下と苗字で呼ばれたことに、なんだか妙な興奮を覚え、それに対し自分自身でもなんだか恥ずかしくなった。


 たまに行く合コンなどで馴れ馴れしく「マイちゃん」だの、時折勘違い男から「マイ」だなんて呼び捨てにされることもあるけど、苗字を呼び捨てにされるのは高校の時以来だ。



 初めて付き合った一つ上の先輩は、最初から最後まで私のことを木下と呼び捨てにした。



 それ突如として蘇り、私の鼓動を強くしたのだ。



 アンコのことをとやかく言えないな……私も結局恋愛下手ってことなのかな。

「木下」



 出し抜けにもう一発、無造作で無神経な銃弾が心臓を打ち抜いた。



「あ……あ……」



 咄嗟に言葉が出ない。どうしたのだ私は。



「ん? どうした? あ、あって……オットセイみたいだぞ」



 この下心のなさ。これが……あ、まずい。

「じゃあ、城崎さん……今日はその諦めて帰ります……?」



 辛うじて口から出た言葉。もう自分でも本心なのか建前なのか分からない。



 だけどたった一つ確かだったのは、私は一刻も早くこの男から離れなければならないということだ。



 だって、だって……



「どうした? 酔いがきたか? ちょっと待ってろ」



「ぃ……ぃぇ……」



 小さく言う私の肩をそっと支え、丁度いい具合に座れそうな植え込みの脇に私を座らせると城崎は小走りでどこかへ去って行った。



 彼がどこに行ったのかを考えるのも面倒になるほど私はらしくなく息苦しかった。



「単純だ……あたし」



 バカバカしい。苗字を呼び捨てにされたってだけなのに、こんなに女子中学生みたいに胸を高鳴らせちゃって……。

 きっとお酒のせいだ。



 くっそぉ……そんな飲んだかな……。



「ほれ」



 急に目の前に小さなビンを差し出された。



「楽になるぞ。飲め」



 俗に言うエナジードリンク? いや違うな……これってむしろ栄養ドリンクじゃん?

「あの……これって栄養ドリンクですか……?」



「そうだよ。なんかウコンとかいっぱい入ってるからさ」



「ありがとうございます……」



 瓶に貼りついている妙に細いストローを袋を破いて取り出し蓋を開けた瓶に差し込んでちゅーちゅーと飲む。



 すごく甘苦い。

「はは……」



 ん、なんか笑ってる?



 ふと見ると城崎は口を押さえて私に顔を背けて笑っている。



「ちゅーちゅー……」



 一先ず飲み干してからなぜ笑っているのかを聞こうと思っていると、チューチューという音を聞いて城崎は更に笑いを堪えた。

「ごく……。あの、どうして笑っているんですか」



「いや、木下が栄養ドリンクの瓶をストローで啜ってる絵が面白すぎて……」



「へ? なに言ってるんですか、城崎さんが買ってきたんでしょ?!」



「そうだけど……ちょっとギャグのつもりだったんだよ。エナジードリンクじゃないじゃん! とかそういう普通のヤツ。そう言われたら……これ出すつもりだったんだけど、素直に飲み干しちゃったからさ」



 そういって城崎は青と白が交互に敷かれた柄が特徴的な、今流行りのエナジードリンクを出し私に見せた。

「え! じゃあ私が飲んだのって」



「ラベルラベル」



 そう言われてラベルを見たると「精力剤」と書いてある。ガラナとかマカとかなんかそういう感じの言葉ギトギトした印象の黒と金のラベルに踊っていた。



「ひどいですよ!」



「こっち……飲む?」



「もういいです!」



 立ち上がって私は駅へと続く道を行こうとした。



「木下」



「なんですか!」



「ありがとな」



 城崎は急に私に対して「ありがとう」と言った。城崎にお礼を言われる心当たりのない私はついその場で立ち止まってしまい、返す言葉に迷う。



「店選びとか、ここまで付き合ってくれたりとか、……あと俺と話してくれて」

「話してくれてって……そんな」



 意外な言葉になんだか照れ臭くなった。なんなんだ「話してくれて」って。



「ほら、木下ってさあんまり俺と話したがらないじゃん。目もあんまり合わしてくんないしさ。だから、嫌われてんだなって思ってて。だから嬉しかったんだよ、単純に。

 こうやって少しでも仲良くなれて、さ」



 私は言葉を見失ってしまった。



 バレていたのだ。私が城崎を苦手としていたことを。

 ということは城崎はここまで私と一緒にいて相当気を使っていたのか?



 そう思うと申し訳ない気持ちが私の肩や首や頭を覆いかぶさってくる。



「だから、ありがとな。また明日。って週末かぁ、来週な」



 そう言って手を振る城崎に向かって私は再び彼の元へと戻った。



「……どうした? 木下」



 城崎は少し困った顔で私を見た。私は今自分がどんな顔をしているのか皆目見当もつかなかったが、とにかくこういったのだ。

「冷やしすき焼き丼……」



「冷やしすき焼き??」



「牛丼の八屋で今だけの限定丼です。わ、私……一人で牛丼屋さんにはとても入れません」



 ほんの数秒、城崎はそのままの体勢で私を見詰めると優しい顔で微笑み



「……じゃあ、俺は大盛りつゆだくと玉子にするわ」



 と言ってくれた。

 我ながら不器用なお礼と思ったが、八屋というチョイスは抜群だったと思う。



 出るのは早いし、余りゆっくり喋られる雰囲気でもない。



 だから夕食に付き合うという建前だけでいうのならバッチリだ。



 ……などと心の中で自分に言い聞かせながら、ドキドキで味も分からない冷やしすき焼き丼を口いっぱいに頬張った。



「結構豪快に行くんだね。男前じゃん」



 城崎は私の気も知らず笑って玉子を割り、箸で真ん中に開けた穴に落とし込んだ。



「最後まで君を潰さずに食べられるかってついついやっちゃうんだよね」



 牛丼屋さん経験が余りない私は、彼のいうことがよく分からなかったが、カチャカチャと器を鳴らして口にかきこんで食べるその姿を見て、この人も男の子なんだなぁ……なんて思ってしまう。



「一口もらっていい?」



 

 城崎が私の丼を覗いてニコリと尋ね、左手に持った箸をカチカチとする。



(左利きなんだ……)



 そんな新発見に何故か嬉しくなる自分を抑えて「どうぞ」と冷やしすき焼き丼を差し出した。



「……うん、これもイケルなぁ。今度来たらこれ食おう」



 城崎が「メシ」とか「食う」とか、そんな一般的に男が使う普通の言葉を発する度にいちいちドキドキしてしまう。そんなキャラではないと勝手に思い込んでいたからだ。

「お、お弁当」



 そう言って城崎は私の唇に近い頬に人差し指を点けると、指先につけたご飯粒を見せた。



「漫画かよ」



「あ、すみません。恥ずかしい」



「ここで俺がこれを食べると多分セクハラだとコンプアライアンスに通報されっから、ほら返すよ」



 城崎は指先のご飯粒を私の唇にぴとっと戻した。

 悪気のない無邪気な言動。



 悪気のない無邪気な……で間違いないよね?



「ごちそうさまです……」



 これ以上食えるかっての!



 私は3分の1ほどを残し、食事を終わらせた。



「あれ、もう食べないの? 俺食べていい?」



「え? あ、はい……どうぞ」



 あっという間に城崎は私が残した残りを平らげてしまった。どんだけお腹が減っていたんだ。



 そう思うとちょっとだけ笑えてきた。



 でも残したものを食べてくれるのって、いいな。



 食べられ無さそうとか気にしなくていいし、最近食べない男の人も多いし。

「ごちそうさまでした!」



 そう言って城崎は店を出てしまった。



「あ、ちょっと城崎さん! すみません、いくらですか?」



 私が店員に聞くと店員の大学生らしき男の子が「もう頂いてますよ」と軽く一度振り向いて言った。



「え」



 一体いつ払ったの!?

「あ……城崎さん、ご、ごちそうさまでした!」



「いいよいいよそんな牛丼くらい。ていうかほとんど俺が喰ったようなもんだし」



 この男はいつでも一歩先を行っている。



 そうか……そう言えば城崎は営業でトップの成績を誇っていたんだっけ。



 うう……侮れない男だ。



 八屋から駅まではすぐ傍だった。



 だから店を出て少し歩くとすぐに改札が私達を出迎えた。



「どこまで?」



「あ、駒込です」



「いいとこじゃん。俺は御徒町だから途中まで一緒だね」



「そうですね」

 改札にカードをかざして通り抜ける。



 私が追いつくのを待っている城崎に私は「すみません」と小さく一言労うと、それに続いて「あのなにかお礼させてくれませんか」と言った。



「お礼? なんで?」



「なんか最後はお世話になりっぱなしでしたし、それに気を使わせてしまったみたいですし」



 そこまで言うと私の脳裏には「城崎を苦手としていたことがバレていた」ことがちらりとよぎった。

「いいよ。気なんて使ってないし」



 城崎はなにも変わらない優しい笑顔で笑ったが、私はこんな機会がこれから先滅多にあるわけではないことを知っている。



 いや、こんな飲み会の機会はこれからもあるかも知れないが、こうやって二人きりになることなどないと思ったからだ。



 これまでのお詫びとちゃんとしたお祝いを込めて、なにか出来ないか。



 素直にそう思ったのだ。

「あの、なんでもしますので! あ、出来る範囲でならでですけど……。例えば……」



 例えば……まで言って、そうは言っても私が城崎になにが出来るのだろうと思った。



 お礼と言っても奥さんの居る城崎に物を上げるのもおかしいし、食事をおごるとしても二人でなんてありえない。



 そう思うと結局なにも出来ないではないか。



「例えば……えっと……」



 自分で言っておいてその続きが出てこない。

「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」



 城崎は私の手を取ると「おいで」と一言優しく言うとホームへの階段とは違う方角へと歩いてゆく。



「あの、どこに」



 城崎は私の手を引いて駅の多目的トイレに入るとドアを閉め鍵を掛けた。



「え?! な、なにを……」



「しっ」



 私の口に人差し指をあてると城崎はこんなシチュエーションなのにもかかわらずいつもと同じ優しい笑みを崩さなかった。

 私はというと、私は私でこんな状況なのに彼が唇に当てた人差し指の感触に先ほどのご飯粒の一件がフラッシュバックし、不覚にも鼓動が鳴った。



「城崎……さん?」



「声出したら人着ちゃうよ。そうなったら僕は……破滅だね」



 無邪気な笑いは変わらない。変わったのは城崎の無邪気な笑みを見る私の気持ちの方だ。



「そんな……破滅だなんて」



 閉められたドアを背にもたれ、城崎の両手は私の顔の両脇でドアを押している。

「木下も『壁ドン』に萌えるほう?」



「私は……」



 上手く唾が飲み込めなくて喋られない。



「お礼してくれるって言うなら、お言葉に甘えてもいい?」



「え、ええ……もちろん」



 真っ直ぐ見つめてくる城崎の顔を見れない。こんなに近くにあるのに直視できないのだ。

「じゃあキスしよう」



「キ……ってそれは!」



『ドンドンドン!』



 私が城崎になにか言おうとしたその時だった。けたたましいドアを叩く音が私の背中を揺らし、ドアの向こうからろれつの回らない男の声で「オイ誰か入ってんのか! 出てこいバカヤロー!」と怒鳴り声がした。



「あ、出なきゃ……!」



「大丈夫、ただの酔っ払いだから」



 ドンドンとドアを叩くのを無視して城崎は私の肩を両手でしっかりと抱くと、ドアから引き剥がすように私を抱き寄せた。

「ん……」



 同時に私の唇が城崎の唇と接触し、見た目よりも柔らかい感触と温かい温度にあらゆる罪悪感や背徳感、そんな私を制止する全てが吹っ飛んだ。



 唾液と唾液が男の怒鳴り声と混じってトイレ内に鳴り、やがて駅員に促されて去って行った後には自分の口から鳴る鳥のさえずりのような、キスの音だけが残った。



 甘く濃厚な唇からの螺旋にまとわりつかれるほどに、なにもかもどうでもよくなってゆく自分が恐ろしかった。

 城崎は飽きもせず、ずっと私の唇と口内を貪りされるがままの私は息苦しかった。



 だけどその息苦しさですら形容しがたいほどの快感を生み、最初から抗わなかった自分自身の愚かさすらも気付かせない。



 何度も背に壁をぶつけながらキスを続けた城崎は、無邪気な笑みで私を見詰めた。



 なにも変わらないはずの彼の表情は、私の目にはすっかり別人のものと変わってしまった。



 城崎は私の頬を愛おしそうに撫でながら上唇と下唇を交互に噛んだ。

「……終電間に合わなかったね」



 時刻はまだ終電が行くまでは充分余裕があったはずだ。



 いくらこの空間で長くキスを貪っていたとしても、終電が行っただなんてことはありえない。



 だがこの男は《わざと》言ったのだ。



「うん……終電、行っちゃったね」



 なぜこんなことを言ってしまったのだろう。それは後になって……もっと後になって、後悔することになるのに。

 ――その後、私達は一つ先の駅のホテルでセックスをした。













 【続く】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る