第六話 二度目の海/上京

  絶望は死に至る病である。

  自己のうちなるこの病は、

  永遠に死ぬことであり、

  死ぬべくして死ねないことである。

  それは死を死ぬことである

    ──死に至る病, セーレン・キルケゴール



 海は、夏に含まれるものだ。快晴の空の下、輝いている海の前でさえ、人は夏への郷愁きょうしゅうを覚える。

 少し、昔を思い出した。高校を卒業した後、就職に際して上京した。そして、半年後の夏──私は再び海にいた。

 それは、人生で二度目の海だった。



 東京駅に初めて降り立った時、木々よりも遥かに高いビル群に対して、眩暈めまいを覚えた。それは、信仰に近い畏怖いふの念だった。ここに居ては、春の概念を失いそうに思われた。春を感じないからだ。私の故郷は、山を始めとした自然に囲まれた田舎だった。季節とは、自然の内にあるものだ。春には、桜が舞わなければいけないはずだ。しかし、この土地においては、桜は春に含まれない。桜よりも遥かに高いビルが、私たちの視線を誘導してくる。視界に無い物は、存在が無いことと同じだ。その為、春を忘れてしまうのだ。更に言えば、上を向かされるのに、常に影が差している。自然の本質は、光にある。光があるからこそ、自然は産まれたのだ。それがさえぎられる都会において、どうすれば季節を感じられるというのだろうか。東京では、喪服の様に黒いスーツを着た大量の新社会人が、春の風物詩なのではないだろうか。

 しかし、私にとって、季節などはもはやどうでも良いものだった。都会の春の風物詩における一片ひとひらだとしても、悪魔の棲む故郷から離れられたのだから。


 入社式は本社で行われた。百名を超える仲間を前にして、新しい人生の始まりを感じていた。高層ビルにテナントしている職場で、東京の街を見下ろしながら優雅にオフィスワークに励む。当時の私は、という言葉が持つきらびやかな生活を夢に見ていた。しかし、そんなものは一部の人間だけのものだった。

 私は、工場配属だった。京浜工業地帯の、とある一角で働くこととなった。本社から電車で一時間程掛かるその工場は、いわゆる町工場だった。その時、親会社ですら無く、グループ会社という名の下請け会社に配属されたのだと知った。工場は、うねったトタンで建造されていた。トタン外壁には、枝垂しだやなぎの様に、さびが流れていた。工場には、毎日作業着で向かった。入社式以来、スーツは物置の奥で、綺麗に眠ることとなった。作業着は、野球部の練習着の様に、すぐに黒くなった。いくら洗濯しようとも、その黒ずみは、一向に落ちることが無かった。私の仕事は、鉄を裁断することだった。車のモーターの一部品を作っている工場だったらしい。ひたすらに鉄を切るだけの、気が狂いそうになる程の単純作業だった。要領が悪い私は、毎日の様に怒号を浴びせられた。所長の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくに怯えながら、何とか仕事をこなしていた。コンプライアンスが声高に叫ばれる現代において、そこだけは治外法権だった。怒鳴られる度に、あの腐った家を思い出す。あの風景が頭に広がる度、心が殴られたかの様に、深い動悸どうきがした。あの頃よりかは幾分かマシだが、それでも、未来には硝子がらすの様にもやがかかっていた。仕事が終わり、外から見上げる排煙は、けがれそのものに思えた。いつの日か、こんなにも大きな空すらも、灰色に染めてしまうのだろう。東京への甘い幻想は、工場の排煙によって見事に塗り替えられてしまった。

 自宅アパートは神奈川にあった。私の安月給では、東京の家賃を払うことは困難だったからだ。家のすぐ傍には川が走っていた。川のうねりが強く、浸水リスクが高い為、家賃が安く抑えられている様だった。築五十年に迫るアパートだった為、季節に合わせて強い寒暖差が生じた。皮肉にも、その不快感によって、私の季節は色を取り戻した。便所も浴室も台所も、古く汚かった。使用する度に、少しの嫌悪感が鳥肌となって現れた。住民は、一人暮らしのじじいばばあばかりだった。とてもじゃないが、希望を観測することなど出来ない暮らしだった。夏の夜は、かえるの合唱が毎日聞こえた。狂いそうになる程、正しいリズムで鳴き続けていた。まるで、蛙の住処すみか間借まがりしている様な生活だった。


 稼ぎは悪い仕事だったが、あまりお金を使う事は無かった。顔だけは良かったのか、女が寄って来る為、ヒモとして暮らしていたからだ。何人かの女性に寄生して、家を行ったり来たりしていた。それは、女の扱いだけがうまくなる生活だった。昼間は工場の作業に従事し、ただ時間を浪費する。夜は、ひたすらに女をむさぼっていた。ストレス解消というよりは、現実逃避に近かった。性は非常に強力なもので、その時だけは全てを忘れることが出来た。忘却の奥で笑う悪魔をき消す様に、何度も腰を強く打ちつけた。それは、まるで動物の交尾の様だった。非常に単調なセックスであり、おすとしての快感を満たすだけのものだった。相手への思いやりなどは微塵みじんも無かった。ただ逃避する為だけに、女を利用していた。悪魔は、そこにらずとも私を操ろうとする。逃げられないのならば、耳を塞ぐしかないのだ。

 就寝時は、部屋の奥から忍び寄る絶望に耐えることで必死だった。じめっとする部屋の雰囲気と、ガタガタと音を立てる木枠の窓が、恐怖をより増幅させた。隙間風の音は、私をあざ笑っている様に聞こえた。絶望は、ゆっくりと這う様に、私の足元を目掛けて向かってくる。それは、目線をやると消えるのだが、外した途端に再び現れるのだ。死へと向かう道中は、延々と恐ろしい。早く死んで楽になりたかった。死は、遥か遠くで私を待っており、彼の高笑いする声が、私の足元まで響き渡る。その声に耐え切れず、崖の下に広がる海を見て、死の先の光景に思いをせる。しかし、その奥に棲む暗闇と目が合うと、どうにも終わらせることが出来ない。怖いのだ──死は、恐ろしい。本当は誰も、死にたくなんて無い。消えたいと願うのは、ここから居なくなりたいというだけだ。悪夢が覚めるのならば、わざわざ死なんて選ばない。

 肝心の救済は、どこにるのだろうか。きっと、いびきをかく様に、気の向くままに過ごしているのだろう。自殺をする勇気も無い私は、あの頃と同じ様に、ただ布団に包まって祈っていた。来るはずがない救済を、ひたすらに待ちながら──


 そんな生活をしていたおり、ある一人の女と出会った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る