第七話 二度目の海/公園にて

 ある日の残業終わり、一服する為に、帰路に在る公園に寄った。普段は家に着いてから一服するのだが、その日は何となく、そうしてみた。公園には、象を模した滑り台があった。鮮やかなピンク色に塗られたそれは、公園の名物であり、子供達に大人気だった。昼とは打って変わり、夜の象は、どこかうれいを帯びた表情をしていた。子供が居ない夜は、象も寂しいのだろうか──同情した訳ではないが、ふと、象の天辺てっぺんに登りたい気持ちになった。入口から真っすぐに、滑り台を目指して歩く。

 夜の公園は、静寂という概念のお手本に違いない。時折聞こえてくる雑音も、何故だかうるさく感じないのだ。夜の公園においては、きっと、それらの雑音も、静寂という名の茂みに隠されてしまうのだろう。そして、そこから生まれるわびしさによって、大人だけがたしなむことを許される居心地の良さが作られている様に思えた。

 滑り台のふもとに着く。近くで見ると、案外それは小さかった。滑り台を登る為に、階段の方へ回る。階段のステップは、幅が狭く段差も低かった。それは暗に、大人禁止を匂わせる作りだった。非常に体を動かしにくかったが、所詮は子供用だ──あっという間に階段を登り切る。天辺に辿り着き、空を見上げる。快晴の青黒い夜空が、私を出迎えてくれた。煌めく星々は、画鋲がびょうで開けられた夜空の落とし穴に思えた。形而上けいじじょうの棲家の様に、穴の中では光が燃え続けていた。星の一つひとつが、太陽の様に見えるのだ。妙な感覚だったが、不思議と心地良さが体を巡る、何とも異様な夜だった。もしも童話の様に、全ての星を集めて一つにすることが出来たとしても、それは夜空の一欠片ひとかけらにすら満たないのだろう。あんなにも燃え盛る星々も、夜空の闇と比べたら、蝋燭ろうそくの様にか弱い光なのだ。しかし、何故だか今夜は、遥かに小さなその光たちから、一向に目が離せないでいた。微睡まどろみの中にいる様に、段々と、吸い込まれていく感覚に陥る……。

 ハッと、我に返る様に──いや、、煙草に火を点ける。


 一本吸い終わり、二本目の煙草に手を掛ける。その時、公園に入って来る一人の女の姿が、視界の端に映った。恐らく、私と同じ様に一服しに来たのだろう。喫煙者は、喫煙者を見分けられるものだ。そんなことを考えながら、自らの足元を見る。改めて、自分が幼稚な滑り台の天辺にいることを認識し、気恥ずかしさを覚えた。しかし、今更滑り台を後にするのは、女を意識している様で気不味きまずい。そのまま気が付いていない振りをして、煙草に火を点けた。女は私を一瞥した後、すぐに目を逸らし、遠くのベンチに腰掛けた。そして、慣れた手つきで煙草を探していた。無意識を装い、その光景を視界の端で捉えていた。女は、煙草を取り出し口に咥えた後、少し焦ったかの様に、カバンやポケットを全て漁りだした。喫煙者なら分かる、ライターを無くしたのだろう。口に煙草を咥えたままライターを捜すその姿は、下手な芝居の様にコミカルなものだった。少し迷ったが、声を掛けることにした。

「すみませーん! ライター無いんですか?」

 しかし、私の声が聞こえなかったのか、女は手を休めることなく、ライターを捜し続けてた。不審者だと思われて、無視されたのだろうか。──いや、無視というよりも、そもそも声が届いていない様に思えた。いつもの私なら、これ以上は関わらない。だが、今日は、もう一度声をかけてみることに決めた。臆病で八方美人な私にとっては、非常に珍しい行動をしようとしている。特に良いことがあった訳では無いが──何となく、今日はそうしてみたかった。……もしかすると、星の光にやられてしまったせいかもしれない。しかし、もし仮にそうだとしても、折角せっかくの異質な夜だ。並を振る舞うには、勿体無かった。先ほどよりも一回り大きく、女に届かせる様に声を上げた。すると、やっとこちらに気が付いたのか、女が顔を上げて私を見つめてきた。声の主だと主張するように、手を軽く振る。それを見た女は、何故か返事をせずに黙ったまま、こちらに向かって走り出した。急な女のその行動に戸惑いが隠せず、挙動不審になってしまった。声を掛けたことが気にさわったのだろうか、そんなに悪いことをしたとは思えずに、困惑した。段々と近付いてくるその女が無性に怖くなり、滑り台からの逃走を試みる。

「待ってください! ライター無いんです! 貸してください!!」

 女が大きな声でそう叫んだ。どこか可笑おかしな発音だった。急な大声に驚き、女の方を見る。女自身も、自らの声の大きさに驚いたのか、両手で口を抑えたままこちらを見ていた。少しの間、女と目が合い続けた。世界は停止してしまったかの様に、静まり返っていた。その沈黙を破ったのは、女だった。

「すごい顔してますよ!」

 女は笑いながら、私を指差す。その笑い声は、停止した世界を再び揺り動かした。急いで自分の姿をかえりみる。そこには、焦燥しょうそうの表情で、狭い滑り台を必死に降りようとしている社会人男性が居た。子供に人気の、象を模した滑り台との対比が、何とも滑稽こっけいだったに違いない。女に釣られて、私も笑みをこぼす。久しぶりに、心から笑えた気がした。笑うことで、少しだけだが、心の奥でうごめく雑音から、逃れることが出来た様に思えた。



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