第五話 三度目の海

 人の気配を感じて目を覚ます。若い女が、顔を覗き込む様にして立っていた。目をこすりながら、慌てて体勢を整える。

「すみません! 寝てしまっていたようで……」

「いえ、いいんですよ。起こしちゃったみたいで、ごめんなさいね」

 その女は、猫の様な顔をしていた。目は扁桃へんとう形で、鼻と口は小さくまとまっていた。年齢は恐らく、私と同じくらいだろう。砂浜の様に白い肌は、女が海の近くに住んでいない証拠に思えた。ふわりと揺れる白いワンピースに、大きな麦わら帽子を合わせる女──きっと、夏を具現化したものに違いなかった。そして、その化粧気けしょうけの無さが、女の美しさをより際立たせていた。

「えーと……もしかして、ここは入ってはいけないところでしたかね……?」

「いえ、そんなことないわ。ここは、私もお気に入りの場所なの。他の人がいるなんて、初めてだけれど」

「それなら良かったです。本当に心地が良い場所で、いつの間にか眠ってしまっていました」

「……それよりも、嫌な夢でも見ていたんですか? あなた、泣いてますよ」

 慌てて頬を拭うと、しずくが腕をつたっていった。どうやら、泣いていたようだった。


 泣いていたことを誤魔化ごまかすように、女と少し話をした。特に女が喜んだのは、流行り物の話だった。女は世間に疎く、目を輝かせて私の話を聞いていた。顔の前で両手を合わせて、少女の様に楽しそうに振る舞う。その時、気が付いた。彼女の左手薬指には、指輪がはまっていた。きらりと光るそれは、私の目線をあやつることに見事に成功していた。大きな期待をしていたわけではないが、少し落胆した。それを悟られぬ様に、筋肉を意識して口角を上げる。

「やっぱり、東京ってすごい街ですね。本当に楽しそう」

「……そんなことないですよ」

「いやいや、羨ましいですよ、本当に──」

「そんなに憧れるのなら、東京に住んでみたりしないんですか?」

 相手の言葉をさえぎるような、少しの恨み節を混ぜた言い方になってしまった。勝手だが、心に土足で踏み入れられそうな気分になってしまったのだ。少しのが空いてしまい、途端に世界の音がよく聞こえる様になってしまった。そこから数秒経ち、女が口を開いた。

「……生まれてから、ずっとこの町にいるのよ。外に出たことなんて、一度も無いわ。私は、この町から──いや、この海から、逃げられないんです」

「え?」

「……だって、こんなにも素敵な海じゃないですか! 東京の海は汚いって聞くし、すごく美しいこの海が、大好きなんです!」

 如何いかにも取りつくろったかの様な回答だ。私が女の薬指を見た時も、こんな風に引きった笑顔だったのだろうか。こちらを向いて必死に弁解をする女──太陽を背にしたことで、その顔は逆光の暗闇に染まってしまった。女の造り込んだその表情は、海にあやつられてしまったかのように思えた。それでも、私と同じ様に海へのトラウマを隠しているであろうこの女は、簡単に好奇心をいだかせた。


「隣、座ってもいいですか?」

 女はひとしきり話した後、そう言って私の隣に腰掛けた。そこからは、夏の音がこぼれる中、少しの会話と沈黙を混ぜながら、二人で海を眺めていた。不思議と、そこに気まずさは無かった。

 謎めいた女だった。昔の母の様な包容力を感じさせながらも、時折伏し目がちに視界の隅を見つめていた。その目は、絶望を知っている人のそれに違いなかった。女の負を感じさせる表情は、私の眠っていた情欲を掻き乱してくる。ああ、やはり逃れられないのか。私は、確実に父の子どもなのだ。このけがれた血は、私が地球上のどこへ逃げようとも、皮膚のすぐ下で笑っているのだ。私の中に棲む苛烈な欲は、蜷局とぐろを巻いて今にも内臓を食い散らかしそうだった。人は絶望し、死をくっきりとした輪郭で意識する時、ぼやけていたはずの醜い性も、同時に解像度を上げて刺激してくるのだ。性と死は反対にあるものだが、どちらも表立つことが許されない、醜悪しゅうあくなものなのだ。


 これが、悪魔のくれた刹那の甘い蜜では無いことを、祈るばかりだ。

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