第四話 海へ

 駅を出てから、三十分は歩いただろうか。全てがスマートフォンで完結する現代において、それ無しでは時間すら把握することが出来ない。腕時計くらいは買っておくべきだった──そう思いながら空を見上げる。相変わらずの快晴である。強烈な日差しは、私のまぶたを触らずとも容易に閉じさせる。

「太陽は、白い穴に違いない」

 穴は本来暗闇の特性を持つため、太陽とは縁が無い。しかし今の私には、太陽は完全な穴に思えた。そう、向こう側から強烈な光が差しているだけで、太陽も穴に違いないのだ。光も闇も、同じ舞台に立っているのだ。ただ、スポットライトが当たっているかどうかの違いに過ぎない。……あの白い穴の中には、どのような光景が広がっているのだろうか。光に満ちた無重力状態を想像する。暖かく白いだけの空間で、ただ泳ぐ。心地が良い、このままここで暮らせたのなら──

 突然、潮の香りがした。潮風は鼻を通り、脳を支配する。ああ、一度目の海を思い出す。光の宇宙は慌てて逃げ去り、暗い海が大きく呻き声を上げて全てを呑み込む。その波音は、神話の怪物を思わせる恐ろしいものだった。海はひたすらに大きく、上空ではカモメが笑うように鳴く。海は青くて、ずっと暗い。その奥には、一体何が潜んでいるのだろうか。


 やがて坂道は終わり、舗装ほそうされた道路が見えた。青い六角形の道路標識が立っており、その道が県道であることを示していた。向こう側には海が広がっているのだろうか──防波堤と並走するように、真っすぐと県道は走っていた。そびえ立つ防波堤の高さは2メートル程あり、向こう側は確認できなかった。遠くから、波が岸辺を食う音が聞こえる。防波堤は、近くに海が在ることの証拠だ。防波堤を左手にして、県道沿いを歩き始める。この道には歩道が無かった為、道路の白線を縫うようにして歩いた。時折、車両──その殆どは軽トラックであった──が走って来る。私を追い抜く瞬間、ドライバーは訝しげにこちらを一瞥する。旅行者にしては身軽な装備の私が、怪しく見えるのだろう。


 歩き続けると防波堤が終わり、代わりに林が続いていた。いわゆる、防潮林ぼうちょうりんというものだろう。高さはゆうに10メートルを越し、奥行きも数十メートル程あった。木々は、海風を受けてしなるように揺れていた。そのまま少し歩くと、左手から光を感じた。目線をやると、一本の獣道が見えた。その道を照らすように、奥から光が差していた。この道はどこへ続くのだろうか──忘れかけていた好奇心が蘇り、足が自然と動き出した。草木に邪魔されながらも、確かに道は続いていた。緩い登り坂のようになっている獣道は、林の向こうから差してくる光へ向かっていた。その光とは対照的に、辺りは暗闇に包まれていた。幼い頃に持っていた、冒険の楽しさを思い出す。足が早まる。坂を駆け上がる。勢いをそのままに、坂の天辺てっぺんを目指す。

 遂に林の終わりに辿り着いた。途端に、強烈な光が私の視界を奪う。目を伏せ、てのひらで光を隠す。恐る恐る目を開き、景色を眺める。そこは、こぢんまりとした、光に包まれた入り江だった。白い砂浜が広がり、向こう側には青い海がどこまでも続いていた。日の光が、きらきらと海面を照らしていた。まるで、光が水面みなもで踊っているかの様だった。砂浜は木々に囲まれており、ナヴァイオビーチの様に小さく美しい隠れ家だった。この一角だけが、世界から隔離されているに違いなかった。死に場所に相応しい、残酷さのある美しい場所だった。

 目を奪われる光景を前にして、体の感覚が戻って来た。かなり歩いたせいか、足が少し震えていた。木陰を見つけて座る。その瞬間、疲労がどっと押し寄せて来た。歩き疲れた。ここまでよく、頑張った。

 浜辺に寝そべり、目を閉じる。母の胎内たいないを思い出す様な波の音と、うちわで静かにあおがれているような木のさざめき、それらの音の隙間を埋めるかの様にカモメが鳴く。音が世界を祝福する中、その心地良さに、身をゆだねる──

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