第三話 見知らぬ駅

 電車の車窓から、きらめく海を眺めながら、みにくい記憶を顧みていた。


 ──やはり、死ぬことにしよう。美しいものは美しいが、私には、対岸の出来事の様に思える。向こう岸は、東アジアの湾岸都市の様に煌びやかである。一方でこちら側は、草木一本生えていない不毛の土地なのだ。幾度かこの川を渡ろうと試みたが、奔流ほんりゅうで到底渡れそうに無い。大きな声で助けを呼ぶが、途端にその声は川へ沈んでしまう。……前提が、異なるのだ。此方こちらから彼方あちらは見えるが、彼方からは此方を認識できない。この川に、橋が架かる予定は無いのだ。

 最後に、あの海を近くで見たい。美しい記憶に包まれて、死んでいきたい。


 電車の速度が緩やかに減少し始め、車内アナウンスが流れる。駅名が幾度か繰り返された後、電車は停止した。重い腰を上げ、電車を降りる。二時間ぶりに浴びた外の空気は心地好ここちよかった。ホームに三つ並んでいる水色の椅子の真ん中に腰掛け、少しの間空気を堪能たんのうする。その内に電車が過ぎ去り、ホームの向こう側が見えた。確かに海の方角なのだが、高い草木に邪魔されて、海を見ることは叶わなかった。席を立ち、両手を挙げて背中を伸ばす。改札へ向かって歩きながら、ホームを眺める。線路は上りと下りの二つのみであり、無賃乗車が容易に思える程、簡素な作りの駅であった。切符を清算するために、有人改札に向かう。駅員はいぶかし気な表情で、切符に記載されている発車駅を確認する。清算を終え、駅を後にする。海の方角へ延びている道は勾配こうばいしており、山と海が近い土地であるようだった。辺りを見渡すと、田圃や畑が碁盤ごばんの目のように整列しており、そのかたわらに大きな一軒家が点在していた。

 故郷を思い出す風景であった。胸に溜まっていたものを吐き出すように、深呼吸をする。

 海の方を目指し、緩やかな坂を下る。


 両脇に田園が広がる坂を、ただ下っていく。空には雲一つ無く、代わりに太陽がただ一つ在った。快晴の空は、巨大な半円上の水色の壁に思えた。そこに大きな穴が開き、向こうの光が漏れているような、そんな強い日差しだった。

 昔から、晴れの日はあまり好きではない。

 私は、光の中にいるべき存在では無い様に思えるからだ。とは言え、暗闇に特段の親しみがある訳では無い。この後、空が晴れるか、雨が降るか分からない、その中間の不安定さの中で、曇りの様に生きていた。

 しかし、今日の光は、嫌な眩しさを感じなかった。生に対する執着を亡くしたからだろうか。期待をしなければ、絶望を覚えることもないのだ。悪人も善人も、皆が極楽浄土へ行きたがるのも頷ける。光は祝福であり、同時に終焉しゅうえんなのだ。


 それにしても、晴れた日がよく似合う、本当に、美しい土地だ。見渡す限り、緑と青しか見えないが、この世界は二色だけで十分なのではないか──そう思える程の、彩度を放っていた。


 ……私は、とっくに死を覚悟し、今は天国の様な美しい土地にいる。私の運命を邪魔するものなど、もう何もないはずだ。それにもかかわらず、私は未だに、悪魔を恐れている。

 悪魔は、音も立てずに忍び寄り、突然現れるのだ。

 あの草木の陰から、山の向こうから、雲の狭間はざまから、海の──その奥から。


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