第二話 一度目の海

 海には、二つの思い出がある。


 一つ目は、地元である新潟の海に、両親と訪れた時のことだ。まだ家族の仲が良かった、八歳の頃の記憶だ。

 私たち家族の住んでいた町は、山に囲まれた盆地に位置していた。電車は通っておらず、自家用車が無ければスーパーにすら行けない、そんな町で私は育った。

 八月の初旬に、家族三人で海へ遊びに行くことにした。山しか見たことの無い私にとって、海は憧れだった。父が運転し、母は助手席に座る。車内では決まって、サザンオールスターズの曲が流れていた。私は、後部座席から望むその光景が好きだった。

 走行中は、恬淡てんたんとした性格の母が正確なナビゲーションを行い、鷹揚おうような父が丁寧に運転する。時折、父の運転をのろく感じるのか、母は少し小言を溢す。父は苦笑いしながら、柔らかい謝罪をする。そんな母だが、私にだけは非常に甘かった。信号で停車する度に、決まって後ろを振り返り、笑顔で私の顔を覗く。その度に、私は愛されているのだと実感することができた。私にだけは優しい口調で語りかける、そんな母が好きだった。

 渋滞した道をやっと抜け、到着したのは地元では有名な海水浴場。車から降りると、途端に磯の香りが脳を支配した。そして目の前には、ただ、大きな海がった。形容出来ない程に、青かった。海は何も言わないが、そこに在るだけで、自然の美しさを雄弁に語っていた。

 浜辺にレジャーシートを敷き、パラソルを刺す。母からの入念な、日焼け止めを塗る儀式を終え、父と海に走る。灼熱しゃくねつの砂浜──その熱さから逃れる為に、海に飛び込む。初めは冷たさを感じる海も、じきに慣れる。

 ただ、そこに在るだけの海。何者も拒むことはない──海の寛大さを感じる。童心に返ってはしゃぐ父と、水を掛け合って遊ぶ。遠くの浜辺を見ると、母が幸せそうにこちらを見て、微笑んでいた。私がいつ見ても、彼女はこちらを見ていた。きっと、母はずっと、私を見ていたのだろう。それが幸せと言わんばかりに──

 帰りの車からは、海に沈む夕日が見えた。昼とは打って変わって、海は大人の顔を見せる。その残酷なまでの美しさは、当時の私には性的に映った。海が夕日を受け入れ、その色に染まる様子は、まるで男女の交わりの様に思えた。

 太平洋と異なり、日本海は、日が沈む側だ。今思えば、それからの人生を暗示していたかの様な、寂しさが在った。


 その一週間後に、父の浮気が発覚した。同じ会社の、後輩だったらしい。母は怒り狂い、父は何度も土下座した。家庭は、悪魔あくまによって支配されてしまった。母は、父の浮気を許しても良かったが、結局父は、浮気相手を選んだ。プライドを傷つけられた怒りと、悲しみ。幸せとは、常に悪魔が狙っているものなのだ。

 母と二人で引っ越した先のアパートは、いわゆる団地に在った。五階建ての白いアパートであり、同じような建物が三棟続いていた。平均化された家庭が、そこには無数に在った。

 悪魔は、新居へもいて来ており、遂には母をも変えてしまった。新生活が始まった辺りから、母は、私に対して酷い暴言を吐くようになった。毎日の様に、外見や人格を否定された。初めの頃は泣いていたが、その度に頬を打たれる為、その内に泣かなくなった。私を攻撃するその理由は、いつも母が言っていた。

「あんたの顔見てると、あのクソ男を思い出すのよ」

 成長するにつれて益々父に似てくるのか、余計当たりは強くなる。休み無く、毎日暴言を吐かれ、その度に土下座した。私には、謝るしかなかった。どうやら、性格まで父譲りだったらしい。

 精神的にも閉鎖的なこの町では、離婚の噂はすぐに広まった。「不貞ふていを働かれ、捨てられた母と子」──そんな刺激的な話題は、最高のゴシップであった。先生やクラスメイトは、私を腫れ物のように扱った。私の性格が暗く臆病おくびょうになるまでに、時間は掛からなかった。それからは友達が出来る事は無く、そのまま高校生になった。

 そんな折、母が再婚することになった。相手は母の十個も年下の、軟派なんぱみにくい男。鳶職とびしょくであり、体は大きく、口調は非常に荒かった。性格の荒さが、顔に出ている様な男だった。長年母と二人きりだった空間は、煙草の臭いとパチンコの収支の話で充満される様になった。パチンコの負けが込んだ日は、よく殴られた。何度も腹に根性焼きを刻まれた。その度に母を見るが、いつもテレビを見ているだけだった。男の不在を伺い、幾度いくどか母に助けを求めた。

「あなたが悪い子だからいけないのよ」

 まるでRPGの住人のように、母は定型文を繰り返すだけだった。

 夜が更けると、毎日の様に母の嬌声きょうせいが聞こえた。少しずつ──母を壊されている様だった。その度に、私は決まってあの海を思い出す。あの頃の平和に戻りたい。三人で幸せを享受きょうじゅしたい。

 「ああ、あの海が、悪魔を連れ去ってしまえば良いのに!」

 体よりも小さな毛布に包まり、祈る他なかった。


 高校卒業の年になり、就職先には東京を選んだ。変わってしまった母と暮らしていくのは、もう限界だった。一度入り込んでしまった悪魔は、決して自ら出ていくことは無いのだ。

 ある朝、母に東京で働くことを打ち明けた。スマートフォンを触る指が止まる。彼女はこちらへ振り向き、驚きの表情を見せた。数秒後──両手を大きく挙げて、喜んだ。私に向けた十年ぶりの笑顔が、それだった。心のどこかで、引き留めて欲しかった自分がいたことに気が付く。私になんて、謝らなくていい。ただ、寂しそうな表情を見せてくれたら、それだけで僕は救われたのに──


 高校三年生の三月下旬、東京行きの深夜バスに揺られていた。母は、見送りには来なかった。狭い座席にもたれかかり、窓の外を眺める。暗闇の中でも、山だけはその輪郭を際立たせ、存在を主張していた。どうせなら、最後に、海が見たかった。全てを洗い流し、み込む、そんな海を──

 その内に、睡魔が襲ってきた。今までの生活の苦労が、濁流の様に押し寄せて来た。私は目を閉じ、ただ重力に身を任せた。

 ──夢を見た。八歳の頃に訪れた海水浴場に、家族三人で来ていた。海辺から母を眺める。あの頃と同じように、ただ、こちらを見て微笑んでいた。私は、彼女のその笑顔に、一抹いちまつの不安を覚えた。まるで、駅のホームで別れを惜しむ恋人のそれのように思えた。慌てて海から上がり、母の方へ走る。


 ゴーーーー


 ──突然、後方から大きな海鳴りが聞こえた。大地の震え、空気の揺らぎ──自然の強烈さを、体で感じる。恐る恐る、頭だけを後方の海へと、振り向かせる。そこには、いつもの平穏な海が在った。──しまった! そう思い、浜辺へ向き直した時には、もう遅かった。母は、既にそこにはいなかった。パラソルは風になびき、席の空いたレジャーシートが、その不在を知らせていた。あの海鳴りは、母との永遠の別れを告げる汽笛の様に思えた。

 サービスエリアへの到着を知らせるアナウンスで、目が覚めた。体は汗でずぶ濡れであり、頬には涙が流れていた。隣の席の中年男性が、怪訝けげんな顔でこちらを一瞥いちべつした。平静を装い、窓の外を見る。そこには、夜の底で平穏に眠っている町が在った。

 海は、いつも何もしない。善悪を超越し、ただ、そこに在るだけだ。

 夢の中で聞いた、酷く悲しい海鳴りだけが、私の耳にこびり付いていた。

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