海に棲む女

路地表

第一話 車窓

  ああ! 海で暮らしたい

  ここから海を眺めるんじゃなくて

  海の中から首を出して

  暮れていく町や山脈を眺めていたい

      ──To live in the Sea , 原マスミ




 電車の車窓からは、深緑の山々や田圃たんぼ、点在する一軒家のみが見える。代り映えの無い景色に、時折、違和感を覚える物が現れる。真っ赤な鳥居や派手な色の車、大きな犬を連れた散歩姿など…。それらは見つけられた瞬間に、くっきりと──間違い探しを解決したかの様に──景色から浮き出て見える。しかし、気に留めた瞬間に、それらは遥か遠くに過ぎ去ってしまう。刹那の出会いは散り、次の違和感によって、それは塗り替えられる。まるで、現代を皮肉っている様に思えた。皆が皆を監視すると同時に、それを開放するのだ。人の興味は、秋の空よりも移ろい易く、しかしその瞬間だけは、花火の様に皆が一斉に気に留めるのだ。


 いつの間にか、私は電車に揺られていた。無論、ここに来るまでの記憶はある。しかし、目的があった訳では無い。意識を覚醒させずに、ただ足を機械的に動かした結果、ここに辿り着いたのである。乗車してるのは常磐線じょうばんせんの鈍行列車。東京から二時間ほど揺られていた。今は、茨城の真ん中辺りだろうか。月曜日の昼間ということもあり、車内には殆ど人はいない。この人と人との物理的な距離の大きさが、私を安心させる。東京にパーソナルスペースは存在しない。いつも誰かによって無意識に侵害されている。同時に、侵害している。遠いからこそ、安心するのだ。夜空に浮かぶ月はひたすらに美しいが、それが雲ほどの位置にあったらどうだろうか? 不快感と恐怖を感じ、月が憎くなるに違いない。

 端的に言うと、疲れたのだ。人が絶望する瞬間は、自らに価値を見出せなくなった時だ。都会にいると、否応なしに、大勢の一部にしか過ぎないと感じさせられる。それは、社会の歯車と形容されることが多いが、歯車は一つ失うだけでも大問題になる。幾万とある歯車の中で、私は、歯車の歯に過ぎなかった。歯が一つ欠けた所で、誰も気が付かないまま、歯車は回り続けるのだ。

 土曜日に会社宛てに辞表を郵送した。今頃は、人事部に届いているだろう。土日を利用して、家具を全てリユースショップに売却した後、自宅マンションの解約を済ませた。毎日少しずつ下ろしていた貯金も、日曜日に全て下ろし切った。その足で漫画喫茶に泊まり、朝を迎えた。月曜日の朝、管理会社との最後の会話を済ませ、スマートフォンはその役目を全て終えた。売りに行くのも面倒だったため、電車に乗る前に川に投げ捨てた。

 これからの事は何も考えていない。死ぬか生きるかすら、面倒な考え事だ。ぼーっとしたまま、車窓を眺めていると、トンネルに入った。電車が風を切る音が、トンネルの壁に幾度いくども反響して、不気味な合奏を奏でる。子供の頃は恐怖を感じていたこの音も、今は少し心地が良い。……今の私には、このトンネルに終わりが無い様に思えた。等間隔に在る電灯を道標にして、歩き続ける。ただ、救いを求めて。しかし、その道に終わりなど無く、いつの日か、志半ばにして倒れてしまう。その時、神様は、私を助けてくれるのだろうか。もしも選別があるのだとしたら、の世との世は、一体何が異なるのだろうか。

 ──途端に、視界が明るくなった。空気すらまだ眠っている早朝に、突然カーテンを開けられたかの様だった。思わず、目を逸らす。数秒の間を空けて、ゆっくりと目を開いた。車窓一面に、海が広がっていた。快晴の空を鏡で映したかの様な、輝く海原うなばらだった。まるで、天国に迷い込んだかのような眩しさだった。

 最後に、近くで海を見たくなった。観光名所では無く、名前も無いような──存在すら不安定な──そんな海岸に行きたくなった。


 思えば、思い出はいつも海にある。




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