人魚の肉

 七原さんは私の背中に腕を回し、そのまま私のスーツの襟元を寛げてくる。ぬるい外気にさらされた首の根目掛けて牙で噛みつかれようとしている。

 まずい。まずい。まずい。

 そう思っても私の体は、指先ひとつ力が入らず、彼を突き飛ばすことも逃げ出すこともできずにいた。私の首にいよいよ牙が押し当てられる……そのときだった。


「だから言ったでしょう。不死者は皆いいひとではないと、口酸っぱく何度も何度も」


 怒気を孕んだ声と一緒に、七原さんは大きく突き飛ばされた。

 その途端、あれだけ動かなくなっていた体が動き、私はそのまま舗装された道に膝を突いてへたり込んでしまった。

 七原を突き飛ばしたのは、本当に珍しく額に汗を掻いて前髪を貼り付けている四月一日さんだった。

 彼は暢気に「いってぇぇぇぇ……」と声を上げて、道に転がっていた。

 四月一日さんが私に手を差し出す。私はその手を取ってのそのそと立ち上がった。


「本当に間一髪でしたよ、八嶋さん」

「あの……ありがとうございました。四月一日さん……七原さんは?」

「七原くんは平気でしょ。夜ですし、吸血鬼ですから。ちょっと突き飛ばしたくらいじゃなんともありません」


 四月一日さんはとことん素っ気ない。七原さんはようやく大の字に転がっていたのが起き上がって、頬を膨らませて四月一日さんに抗議した。


「なにすんすか!?」

「あなた何年も前にもうちの店の協定破りましたよね? 店内の人間のお客様に手を出されては困りますと。外に出たからオッケーなんて、トンチじゃないんですから通用しません。ましてや八嶋さんはうちで預かっている店員なんですから」

「だってぇ……初穂ちゃんは大丈夫かなあって思ったんだし……」

「彼女に魅了をかけておいて、なにを言っているんですか」


 その言葉に、私は「へっ?」と四月一日さんを見た。


「あの……私、七原さんになにかされていたんでしょうか……?」


 おそるおそる四月一日さんに聞くと、四月一日さんは溜息をつきながら、張り付いた前髪を指で直した。


「吸血鬼は捕食対象が逃げないように、眼力で魅了をかけることがあります。それにかかった対象は、かけた相手のことをそれはそれはいいひとに感じて、されるがままになるんです。あなたがずっと七原くんを庇い立てしているのも、彼に血を求められて身動き取れなくなったのも、そのせいです」

「へ……へえ……!?」


 私は痴漢に襲われたことを思い出して、「まさか……」と七原さんを見た。

 四月一日さんも一さんも、いくらなんでも七原さんのことを悪く言い過ぎだと、そう思っていた。だって助けてくれたんだから。でも……私が七原さんと一緒に不死者カフェに入った時点で、ふたり揃って警戒心剥き出しだった。

 今だって……四月一日さんが追いかけてきてくれなかったら、私はもしかしたら、吸血鬼にされていたかもしれなくって。私は怖くなって私は必死に寛げられたジャケットを直して、四月一日さんの後ろに隠れた。

 七原さんは、ますますもって膨れた顔をした。さっきまで私に迫っていたときに漂わせていた色香は、すっかりと霧散してしまっていた。


「ひっどいなあ……たしかに初穂ちゃんの血がうまそうだなあと思って、ちょーっと味見したかったのはほんとっす。でもねえ……人間は、犬猫じゃないんすよ!?」


 そう言って立ち上がった。

 私は困惑して四月一日さんの影に隠れたまま、七原さんを見た……さすがに何度も何度も魅了に当てられたくないため、目線は外しておいた。

 七原さんは言う。


「あんた、いっつもそうじゃないっすか。餌もやらずにポイって。人間の感情なんてそういうもんじゃないっす。俺もあんたも人間相手に客商売してるのに、あんたのほうがちっとも人間のことわかってないじゃないですか!? 俺は単純に、初穂ちゃん見てて可哀想だなあと思ったから、不死者にしてあげようと……」

「本当に止めなさい、それが短絡的だとわからないんですか!?」


 四月一日さんはまたも全身に怒気をほとばしらせて、七原さんを睨んでいる。

 ……私は魅了にかかっていたし、七原さんも私の血を飲みたくなった。そこまでは本当だとして。四月一日さんは七原さんの言っていることを全面的に、私が彼のことを庇い立てしたくなる魅了にかかっているだけと切り捨てているけれど、もしかして七原さんは、私のために怒ってくれている?

 正直、そう素直に取れたらいいんだけれど、魅了にかけていたという部分が引っ掛かって、上手い具合に落ち着かず、私は怒っているふたりをただただ見比べていた……七原さんからは目線を外しながら。

 四月一日さんは、怒気を孕んだ口調で厳しく言い放つ。


「七原さん。あなた、不死者カフェ八百比丘尼に、十年間出入り禁止です。自分が許可を出すまで、決して入らないでください」

「わ、四月一日さん。それはいくらなんでも、言い過ぎじゃ……」


 そもそも不死者カフェは、不死者のための店だ。そこを放逐されたら、七原さんは孤立してしまうんじゃ。人間社会だけでは上手く生きていけないひとなのに、それはいくらなんでも。

 私の言葉に、「いや、いいよ初穂ちゃん」とひらひらと七原さんは手を振った。


「……まっ、店長の四月一日さんが言うなら仕方ないかもしんないけどさあ。四月一日さんはちゃんと初穂ちゃんと話をしたほうがいいよ。人間も不死者も、寿命は違うし時間感覚違うし、年取る取らないあるし、そりゃ違うとこばっかあるよ。でもさあ……どっちも同じ生き物じゃん。話し合ったほうがいいんじゃないの? じゃあね」


 そう言って、私のほうをちらりと見た。


「初穂ちゃん、やっぱすっげえいい子じゃん。四月一日さん、人間っていいよ? おいしいだけじゃなくってさあ」

「七原くん」

「……冗談。じゃあね、十年後にでも」


 彼はそのまま歩いて行ってしまった。十年も不死者と接触禁止令出されてしまって大丈夫なんだろうか。私はハラハラしていたけれど、四月一日さんは溜息をついた。


「彼にとって、十年なんてそんなに長い時間じゃないですから、八嶋さんが心配することないですよ」

「で、ですけど……ひとりって、寂しいじゃないですか……」

「人間はどうかはわかりませんが、十年は……そうですねえ。自分たちの感覚では人間で言うところの三日間くらいの感覚ですから、心配には及びませんよ」

「み、三日って……」

「あなたも三村くんの話を見ていたでしょう? 彼にとってはそこまで時間が経ってないんですよ」

「はあ……はあ……」


 それだったら、四月一日さんの対応って、追放処分とかそういうのではなくって、いわゆる謹慎処分的な対応ってことだ。校則違反とか、会社のトラブルとかの。

 でも十年もあったらその間に結婚しているかもしれないし、引っ越しているかもしれないし、そもそも生まれた子供が小学校に通っているくらいの時の流れだから、人間からしてみたら充分に長い。

 三村くんのときにも痛感したけれど、本当に不死者のひとたちとは、時間感覚や生きているときの感覚が違うんだ。

 でも……それだったらなにをそこまで七原さんは怒っていたんだろう。私のために怒ってくれていたようにも思う。

 ……ただ、私は今の時間が居心地よくって、できる限り長く伸ばしたかったけれど、人間にとって時間はそんなに長くはない。

 不死者たちほど、気を長く生きてはいられないのだ。


「……あのう、四月一日さん」

「すみません、こんな時間ですから、家まで送ります。七原くんも退散したことですし」

「いや、そうなんですけど。すみません。歩きながらでもいいので、いいですか?」

「なにが、ですか?」


 私は、ずっと四月一日さんに直接、聞きそびれていたのだ。

 一さんは元々、人間と不死者がずっと一緒にいることをよく思っていないひとだったから、最初から釘を刺していた。

 三村くんは思うのは自由だから、時間がどれだけ経っていても平然と会いに行くことができた。

 七原さんは、人間を食事と思っているのと同時に、どうも好きみたいだったけれど、そう私が思っているのは魅了のせいなのかどうなのか、自分でも自信が持てない。

 じゃあ、四月一日さんは?

 人間の八百比丘尼さんを、不死者に変えた彼は?


「……あのう、いろんなひとたちから、ちょこちょこ聞いてはいたんですけど」

「はい」

「……四月一日さんは、いなくなってしまった八百比丘尼さんについて、どう思っているんですか? その……元々不死者カフェって、彼女のための店なんですよね?」


 言った。言ってしまった。今まで察することしかできず、聞くことにも勇気がいって、知らぬ存ぜずだったのに。

 四月一日さんは虚を突かれたような顔をして一瞬目を丸くしたあと、「そうですね……」と呟いた。


「彼女とも付き合いは長いですからね」

「あのう、彼女のためっていうのは?」

「自分にとっては親切のつもりで彼女を不死者にしたんですが、彼女はそれが嫌だったみたいです。結構長い昔話になりますが、どうしますか?」

「ええっと……」


 八百比丘尼の話なんて、私は四月一日さんから聞いている分くらいの情報しか知らない。

 人魚の肉を食べて、不死者になってしまったってこと以外、本当になにも知らないのだ。


「まず、いつ会ったんですか?」

「そうですねえ……今から千年くらい前でしょうか?」


 千年前っていつだ。平安時代か。いいはこつくろう……だから、多分鎌倉時代ではなかったと思う。

 四月一日さんは言う。


「私が諸国を回っているときでした。あの頃の若狭わかさ……今で言うところの福井でしょうか……そこは少々税の取り立てが厳しくて、海に囲まれたその国の漁師たちも、獲ったもののほとんどは税で持って行かれてしまったので、生活が困窮していました。そんなところで宿を取ろうにも、今日の食事にも困っている人たちから恵んでもらう訳にもいかず、私は村から少し離れた場所で野宿をしていたんですが、旅人が来たということで、村で手伝いをしていた子供たちが見に来たんですよ。その中に、彼女がいましたね」

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