送り火に手を合わせる
朝ご飯を済ませ、昼からのお客さんをひたすら捌く。そろそろお盆休みも終わりなせいか、今日はこの数日と比べると人の行き来が落ち着いている。
「アイスコーヒー、スペシャルブレンドでふたつ。パンケーキふたつ」
「はい、こちらどうぞ」
なんとかふたりだけでも捌き切ることができ、閉店時刻まで駆け足で終えたのだった。
ようやくありつけた賄いは、今日はソーキソバで、上に載った豚の角煮の脂肪が、今の私にはたまらなく甘く感じた。
「おいしい……」
「そりゃよかった。しかし、満。今晩はいい加減初穂ちゃん送らなくっても大丈夫か? 今夜は送り火だし」
「そうですね。今晩は問題ないかと思いますよ」
「あの……すみません。この辺りだったら送り火はしないと聞いていたんですけど……?」
朝も四月一日さんが言っていたけれど、送り火をすると言っても、そもそも六甲山で送り火をするというのは聞いたことがない。
そこへ、昨晩お節介を焼いてくれた無為さんがカランカランとドアを開けてやってきた。
「こんばんは、今年もお盆に死者を預かってくださり、どうもありがとうございます。おかげさまで今年も無事にお盆を終えられそうです」
そう言って深々と頭を下げる無為さんに、四月一日さんと一さん、そして三村くんが頭を下げる。私も一応下げてみる。
「いえいえ。それで、今年の送り火ですが」
「はい。それで死者をあの世に帰します」
私がどういうこと? と、一番説明してくれそうな三村くんを見た。三村くんは「うーんと」と教えてくれた。
「有名なのは京都の送り火だけど、昔は家の玄関とか庭とか、もっと家庭生活でやってたんだよ。もっと地域密着型の行事で、今みたいな観光名所で行う大々的なものじゃなかったんだ」
「はあ……そうだったんだ」
「本当だったら日本各地で行われるんだけど、今は家庭では焚き火すらするのが難しいじゃない。だから送り火で死者を送ってあげないといけないけど、火が足りな過ぎるんだ。だから不死者が死神の手伝いをしているの。この説明でわかるかな?」
「火が足りないと、死者ってあの世に帰れないものなの?」
「そうだねえ……どちらかというと『私たちは心配ないから、もう帰って大丈夫』という気持ちが通じないから、死者が安心できないから帰れないって感じかな。ほら、家の中で生活臭がしないってことは、家に帰れないほど忙しいんじゃとか思わない? 家庭の火が足りないってそういうこと」
「ああ……なるほど。それだったらなんとなくわかる」
今はどこに行っても焚き火は禁止されているし、煙草だって駄目。調理器は火事対策にIH調理器が推奨されている。でもそんな生者の都合を、死者がわかる訳ない。
生活環境が変わったからできなくなったのを、その事情を知っている不死者が補っているというのは、なんとなく素敵だ。
一さんは立ち上がると、無為さんと一緒に店を出て行った。
「あのう……京都の送り火だったら、観光で皆が見に来ますけど、ここで送り火をして、人間は気付かないんでしょうか?」
「いえ。今までやっていて、気付いた人間はひとりもいませんよ。現に八嶋さんは、三村くんに説明を受けるまで、行われていたことを気付かなかったでしょう?」
「そりゃ、私も就職していたときだけ神戸から離れていましたけど、それ以外じゃ全然……」
あの世から死者が帰ってきていたことも知らなければ、送り火で送り出していたことなんて、本当に気付かなかった。
窓の外を眺めても、バーや居酒屋、夜の店のネオンが見えるばかりで、送り火というものに気付かない。
いったい無為さんの手伝いに一さんは出て行ったけれど、なにをするつもりなのか。
私が途方に暮れた顔をして外を見ていたら、ふたりと入れ替わりにお客さんがやって来た。
「いらっしゃいませ」
「あら、久し振りですね。ようやく深夜営業に出るのを解禁されたんですか?」
フラワーロードで占い屋を営んでいる九重さんだ。私は曖昧に頷いた。
「今から送り火をするっておっしゃってましたけど……九重さんはご存じでしたか?」
「ええ。やっていますよ。ほら」
そう言って指を差してくれた。って、もうやっているの?
私は九重さんが示す方向に目を凝らして……ようやく気が付いた。蛍だ。この辺りだったら蛍が出るような綺麗な川はなかったはずなのに。淡い光が、次から次へと飛んでいくのが見える。
「昔は家庭で火種をいただいてきて、それを焙烙に入れて燃やしていたんですけど、今はほとんどの家庭でそれをしていませんからねえ。替わりに天狗が蛍火を火に見立てて流し、それを送り火としているんです」
「蛍なんて、こんな町中で飛んでたら大騒ぎになりそうなものなのに……」
「でも今の時期はお盆ですからね。あの世に人が帰るのかもしれないと思ったら、不可解なことでも案外納得できるものですよ」
九重さんにそう言われ、私はしんみりとする。
人間は思っている以上に迷信深くて、ありえないことや、もうないことでも、あると思ったらそこにあると思ってしまう。結構都合がいいのだ。
でも。私は既に不死者というひとたちがここにいるのを知っている。死者があの世から帰ってきているのを知っている。そのひとたちがひっそりとこの店に通っていることを、もう知ってしまっている。
不思議なことに、今晩やってきたお客さんたちは、九重さんも含めて、皆死者と蛍に手を合わせて見送っていた。
彼らは不死者だから、死者に対して思うところがあるのかどうかわからない。ただ、人間が既にわからないことでも、拾い集めてきて手を合わせる。その生き方を、私は美しいと思ってしまったのだ。
****
その夜は、珍しく四月一日さんが送ってくれることになった。四月一日さんは車ではなく、徒歩で店に通っているらしく、私は電動自転車を押して歩くこととなった。
「なんだか不思議でした。蛍があれだけ飛んでいても、誰も気付かず、そのまま見送っているというのが」
「でも死んだひとが蛍になって飛ぶというのは、昔から言われていますからね。鬼灯に魂が宿るとか、生まれ変わって虫になるとか、ひとは死んだらどうなるかというのは、様々な形で議論されてきました」
「そうですね……多分私も言われなかったら、蛍を見ても気のせいだと思って、そのまま流していたと思います」
実際、蛍の光はこちらが思っている以上に淡くて、ネオンの光に負けてしまうのだ。だから酒が回った酔っ払いや、忙しく日常を送っている人だったら、まず気付かない。たとえ見つけたとしても、気のせいだって思ってそのまま忘れてしまう。
現代人、忙し過ぎるのだ。
四月一日さんはしみじみと、飛んでいく蛍を見ながら言う。
「これを言うと、人間の八嶋さんは困ってしまうかもしれませんが、死ねるというのはいいことだと思いますよ。忘れられるというのもね」
「……四月一日さんは、そう思ってらっしゃるんですか?」
「不死者は死ぬことがない替わりに、忘れることもできませんから。悲しいこともつらいことも、楽しかったこと、嬉しかったことと同じく、全部昨日のことですから。忘れることが、できないんです」
それに私は、以前に聞いた話を思い出した。
このひとの会いたいと言っている八百比丘尼さん。彼女が見つからないことを、ずっと四月一日さんは気にしているんだろうか。
四月一日さんは彼女に自分の肉をあげたんだろうか。それとも、全く別の人魚の話なんだろうか。そして彼女は行方不明になってしまって見つからないと言う。会ってどうするんだろう。それとも四月一日さんは彼女のことを忘れたいんだろうか。
そこまで考えて、店名にまでしてしまっている彼女のことを、忘れたいなんてこれっぽっちもないだろうと思い直した。
いろいろ考えてから、私は口を開く。
「会えるといいですね」
「えっ……?」
「八百比丘尼さん。私にとっては伝説の上の人で、いったいどういう人なのかさっぱりわからないんですけど……四月一日さんにとって大切な人だったら、会えるといいですよね。本当に」
私は思ったことを伝えてみた。四月一日さんは一瞬虚を突かれた顔をした。
「……もうご存じでしたか。八嶋さんも」
「いろんなひとが教えてくれました。変わった名前の店だなとか、変なコンセプトのカフェだなとか思っていましたけど、いろんな不死者のひとたちとしゃべって、ようやくわかったような気がします。私たちは変わってしまうのが普通ですけど、不死者のひとたちって私たちと時間感覚が違うじゃないですか。懐古主義と言いますか温故知新と言いますか」
「多分使い方を間違っていると思いますよ」
「いや、人間と不死者だと時間感覚が相当ずれているなという物のたとえですので。ですから、多分うちみたいな店も必要なんだと思います」
三村くんと無為さんのおかげで、私も久し振りにおばあちゃんに会えた。
どの蛍火がおばあちゃんだったかは、私にはわからなかったけれど、私の長年ずっと抱え込んでいた罪悪感から、やっと解放されたのだ。
それは結構すごいことだと思うし、四月一日さんもそうなれたらいいなと、今の私だから思える。きっと、この店で働く前の私には「なんでそんないなくなった人のことを後生大事に思ってるんだ」と薄情なこと思っていただろうから。
四月一日さんは少しだけ途方に暮れたように口を半開きにしたあと、ようやく星空のように輝く笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
その顔は、本当にずるいなあと思った。
多分その顔は私向けではなく、八百比丘尼さん用だろうに。私には、もったいないもったいない。家まで送ってもらい、私は別れた。
今晩は特別に線香を上げよう。煙が出たらちゃんと消すから大丈夫のはずだ。私はそう思いながら白檀の匂いを嗅いだのだ。
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