死んだひとに会えたとき

 朝からいろいろあったせいか、仮眠用ベッドでしばらく横になっていたら、雨音があれだけ激しいにもかかわらず、スコンと寝落ちてしまった。

 激しく窓を叩く音も、ガラガラドカーンとどこかに落ちた雷鳴も、不死者カフェ八百比丘尼の中だと不思議と安心して眠っていられた。

 私がしばらくまどろんでいるときだった。


「……ちゃん、初穂ちゃん」

「ん……」


 三村くんの声だった。店舗の方に声が聞こえないよう、普段甲高い彼の声は抑えられている。

 彼にゆさゆさと体を揺すぶられて、私はぼんやりとそんなことを思っている。寝ているところを叩き起こされる体験をしたのは、思えばおばあちゃんが生きていたとき以来、そういえばないなと今更ながら思った。

 私がぼーっとして、目をうっすらと開けようとしたとき。


「ええよ、こんな遅うやし、寝てるんやろう。寝かせたりぃ」

「えー、でも約束したし……多分初穂ちゃんがっかりするよ?」

「店長さん騙くらかして私をここまで連れてきてくれたんやろう? ええよ、これ以上は、自分が怒られるで?」


 その神戸弁は、聞き覚えがあった。

 白髪を隠し、髪は常に美容院で栗色に染め、パーマを当ててくるくるとさせている。常に化粧をし、ちゃきちゃきと働き、生まれてから死ぬまで、背中を丸めた姿を一度も見たことがない。

 私は途端にがばっと起きた。

 控え室には、たしかに三村くんと一緒に、おばあちゃんがいた。私は目をごしごしと擦って、もう一度おばあちゃんを見た。


「……おばあちゃん」

「はっちゃん、久し振り。なんやこっちまで帰ってきとったんねえ」


 亡くなったときは、もっと小さくなってしまっていたけれど、今私の目の前に立っているのは、私が東京に発つときに見送ってくれたおばあちゃんのままだった。私はじんわりと目に涙を溜める。


「おばあちゃん、私……あの」


 話したかったことはたくさんあったはずなのに。謝りたかったこともたくさんあったはずなのに。気付いたら言葉は全て抜け落ちて、ただ私は、子供のときのように声を上げてわあわあと泣いていた。

 おばあちゃんはにこにこしながら、あのときのまま私の近くに立っていた。


「ほら、べっぴんさんがそんな声上げて泣くのは止めときぃ」

「おばあちゃ……あの、ね。私……ごめんなさ……」

「はっちゃんが謝る必要どこにあるのん。おばあちゃんこそごめんなあ、こんな先に逝ってまうつもりはなかってん。もうちょっと、せめてはっちゃんが結婚するまでは頑張って生きなあかん思ててんけどなあ……はっちゃん」


 おばあちゃんは不思議と私の体に触ることはなかった。

 私は霊感はないはずだし、死んでいるおばあちゃんがどうして私としゃべれるのか、見えるのかもわからないけれど。

 おばあちゃんはくしゃくしゃと笑いながら、心配そうに目尻を下げた。


「おばあちゃんなあ、死神さんの権利使てもうたから、もう二度とはっちゃんの前に出られへんけどなあ、これだけは覚えてて。おばあちゃん追いかけるとか、変なこと思たらあかんよ。当たり前やけどなあ、体にだけは気ぃつけて、長生きしぃや。長生きしたかてなぁんも楽しいことあらへんってそう思うかもしれんけど、人生どこでどう変わるかはわからへん。生きてられたら、それで充分や……あかんなあ、当たり前なことしか言えへんなあ」


 そう言ってよく知っている顔でころころと笑った。

 私はそれに、うんうんと頷いていた。

 私は東京で働きはじめて、最初は毎年帰省していた。でもだんだん帰省の新幹線を取るのが面倒臭いとか、東京のあちこちで遊びたいとか、仕事が忙しいとか、いろんな言い訳をして、帰るのを遅らせたり帰省期間を短く切り上げたり、挙げ句に帰らなかったりをするようになっていった。

 だから、ある日突然病院から電話がかかってきたときは、ひっくり返って慌てて三宮まで夜行バスで帰ったんだ。

 おばあちゃんは私と一緒に食べていたから食べられていたのに、私が上京してからどんどん食が細くなって、とうとう倒れてしまったのだ。

 私が病院に行ったときは、もう栄養失調が行き過ぎて手遅れだった。

 もっと一緒にいたかったのに。目先の楽しさでおばあちゃんのことを忘れた私は、最低だった。言い訳を並べても、もうどうしようもないのに。

 私は、おばあちゃんに頭を下げた。


「……ちゃんとするから。おばあちゃんの仏壇の花も枯れないようにするし、毎日手を合わせるし、仕事も頑張る。ちゃんと幸せになるから。だから、おばあちゃん心配しないで。安心して……とは、言えないけど……」


 ごにょごにょとそう言うと、おばあちゃんはころころと笑った。


「それでええよ。それじゃあね」


 おばあちゃんの姿は、だんだんとかき消えた。もう私の目からでは見ることができず、声も聞こえなくなっていた。

 ただ三村くんは見えるらしく、おばあちゃんが消えたほうを凝視していた。


「もう終わりで大丈夫? ……そう。だって、初穂ちゃん。これでよかった?」


 私はだばだばと止まらない涙を手で拭いながら、頷いた。


「……ありがとう、でも。どうやったの? 私……霊感ないし、今まで死んだひとが見えたことなんてなかったんだけど……」

「うーん、多分四月一日さんや一さんは反対したと思うけどさ、無為さんが助けてくれたんじゃないの?」

「無為さんが?」


 あの浴衣姿の美人さんの名前を聞くことになるとは思ってもおらず、少しだけびっくりする。

 そういえばおばあちゃん、死神がどうのと言っていたような。

 あれだけビジネスライクの人が助けてくれたなんて、そもそもあのひとは私が死者に会うのは反対だったような……ときょとんと三村くんを見た。三村くんは頷く。


「不死者って、基本的に生者と死者が会うのに反対だからさ。人間は人間の世界にいるべき、死者は生者を迷わせたら駄目って。でも無為さんは結構律儀だからねー。初穂ちゃんは助けてあげたんでしょ? 無為さんのこと」

「え……うん……倒れてたから」

「不死者と人間って、時間感覚がかなり違うから。恩義とか後で返そうとしたら、既に相手が亡くなってるっていうのあるし。オレもそのことでよく怒られたりしてるし。だから、無為さんは恩義はその場で返すんだよね。だから、多分初穂ちゃんもおばあさんと少しだけ話ができるよう取り計らってくれたんだと思うよ」

「そう……だったんだ……無為さんにあとでお礼を言ったほうが……」

「えー、やめておいたほうがいいと思うよー? 多分四月一日さんにも一さんにもバレてると思うし、これ以上あれこれと口出ししたら、知らぬ存ぜぬしてくれているふたりも口出さざるを得なくなっちゃうからさあ」

「そっか……うん、わかった」


 相変わらず不死者のひとたちの感性はまどろっこしくってよくわからないけれど、少なくとも人間のことに気を遣ってくれているんだということだけは漠然と理解できた。

 三村くんは軽く手を振る。


「それじゃ、オレはそろそろ店に戻るねー。この雷雨なのにねえ、そこそこ死者も不死者も来てるから騒々しいんだ。明日で皆帰っちゃうからかもね。それじゃあおやすみー」

「あ、うん。おやすみ」


 私は三村くんに挨拶してから、もう一度布団を深く被った。

 人間と死者と不死者。それぞれが関わることなく生きるのは難しいのかもしれないし、関わりすぎるともっと面倒臭いことになるのかもしれない。

 多分四月一日さんにしろ、一さんにしろ、無為さんにしろ、私がそういうのと無縁でいてほしいんだろうなと思った。三村くんみたいに、ひょいと人間に関われるような子が、きっと稀なんだ。

 いいひとたちなんだろうな、きっと。私はそう思った。

 でも、そのひとたちのおかげで、私はおばあちゃんに会うことができた。これは多分、夢なんかじゃない。私はそう思いながら、今度こそスコンと眠りについた。


****


 昨晩の雷鳴はなんだったのか、今日はすっきりとした青空をしている。でも。


「あっづい……」


 残念ながらあれだけだだ降りだったにも関わらず、地熱を下げるほどの効力はなかったらしい。夏の日差しに湿気が立ちのぼり、街一帯がサウナになったかのような蒸し暑さだった。


「あれだけの雨じゃ涼しくなるのは無理だったみたいですねえ」

「本当ですよ! ああ、でももうちょっとしたらお客さん来ますよね」

「そうですね」


 既に一さんと三村さんが帰り、私と四月一日さんは朝からトーストを焼いてベーコンエッグを載せて、残り物野菜をスープにして食べていた。残り物野菜だけでも、ベーコンさえ入っていたら充分リッチなスープになってくれる。

 昨日のことは夢だったのか現実だったのかはいまいちわからない。四月一日さんは涼しげな顔で夏とは無縁な風情で朝ご飯を食べているのだから。私は半熟のベーコンエッグで口元がベトベトにならないよう必死に気を付けながら、少しずつ黄身を割って食べている。


「ああ、そういえば今晩は送り火ですね」

「あれ。そんなのしましたっけ……?」


 お盆の終わりになったら、お盆にこの世に戻ってきた死者が帰るようにとするらしい。でも。


「六甲山ではそういうの、しませんよねえ?」


 京都だったらいざ知らず、この辺りではこういうことをするのを聞いたことがない。それに四月一日さんが穏やかに笑う。


「一応、一くんはそういうの担当ですから」

「あのひと、天狗でしたよね……?」


 いまいちピンと来ない話に、私は首を捻りながらベーコンエッグを囓った。黄身がとろんと溢れ、これはもう綺麗に食べられないなと諦めることにした。

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