クロロ その0

三鷹たつあき

第1話 0.2&0.4 クロロと女と「・・・・・」


 人。強いもの。智慧と道具を使って自分より大きな動物を殺して喰う生きもの。人。弱いもの。未知の生物には、なんの工夫も抵抗もできずに捕えられて喰われてしまうもの。最後の手段は両の掌を合わせて無事を祈るしか能わないもの。だけど祈りが届くことは稀。だって人は誰に祈りを捧げればよいのか理解していないのだもの。

 祈ればなにものかが声を聞きつけて助けてくれるのだと勘違いしている。きちんと誰に祈りを捧げるのか、はっきりさせなければいけないわ。サトバとは違う存在はたくさんいるのだから。神と呼ばれるもの、天使と呼ばれるもの、悪魔と呼ばれるものもの、そしてそらとよばれるもの。


 人は何千年もの間、自分達の力で解決できないことを祈りによって叶えようとしてきた。人は人の力だけでは生きていけないと自覚していたのね。だから祈るのよ。神や、天使、あるいは人に。自分のことをもっと知ってくれ。助けてくれ。僕の声を聞いてくれ。気持ちを察してくれ。人は人に祈ることが一番多かったみたいね。


惨たらしい時代。何処を歩いても血の匂いがする時代。畑にも河にもサトバの遺体が無数に転がっている時代。西暦千六百四十年。日本では寛永十七年と言われる年に北海道にある駒ヶ岳の山体崩壊による津波で三千体を超えるサトバが溺死する事件があったと伝えられている。また、日本中の牛が大量死することが原因で大変な飢饉が発生したらしいわ。日本の民にはなにも為す術がなかったのか。そうではない。みなは祈りを捧げ、平穏な生活を願ったわ。祈ることとは重要な問題解決策のひとつよ。あなたも祈ったことがあるでしょう。自分の力の限りをすべて費やしても、まだ自信が持てないとき。あなただけではないから恥じることはないのよ。


随分長い時間日本の民は祈り続けた。怖ろしい季節がすぐに終わるようにと。この夏が過ぎれば惨事を乗り越えられると期待して祈った。ただ、祈る相手を間違えていたのね。彼等は神とか仏という頼りない存在に手を合わせた。本気で世界を変えて欲しければ、そらに向かって祈らなければならないのにね。でも、そらは意地が悪いから彼等の声を真剣に聞いてくれなかったのでしょうけど。 


やはり神も仏も日本の民の祈りを叶えられなかった。民の祈りは肝腎なそらの元まで届かなかったわ。平和が訪れるどころか悲惨な日常に追い打ちをかけるように一体の不気味な生命体が日本に現れた。そいつは分子の組み合わせが人とは違って生まれて、育ったような奇形をしていたわ。老人のように背骨が曲がっている。贅肉は殆んどなく骨と皮ばかりの身体つき。首から下だけを見れば爺のよう。でも顔だけは幼くて甘えたがりのこどものようなの。それだけでも充分気味が悪いでしょう。そいつはサトバを捕えてはその身体を引き裂いて喰らったのだって。日本の民はそれをおにと呼んで怖れたわ。そいつの食事の様子を見たら気味が悪くてきっとあなたも吐いてしまうでしょう。


おにが現れた地域では天災もしばしば発生したという。牛の大量殺戮も、飢饉や疫病もすべておにのせいだとされた。おにのそばにはいつも白い髪をして着物を纏ったひとりの少女がほうきに跨って空を飛び、おにの悪行を微笑みながら見守っていたのらしいわ。民はその少女を般若と呼んでいた。おにはきっと般若に従って悪事を働くのだろうと想像した。するとどうしたことだろう。民の一部には神に祈るのをやめて、般若に村から去ってくれと手を合わせるものが次々現れた。愚かなことね。


人。どれだけの力を持っているのか分からないもの。身なりを変えるだけで発揮する能力が変わるもの。身なりを整えたものはいつも以上の力を発揮する。裸でいるものは最大限に力を発揮するもの。

おにが現れてから数か月後、四人の少年少女がそらから舞い降りてきた不思議な衣を手に入れたそうだ。その衣を手にしたのは少年がひとりと少女が三人。彼等はまったくのあだびとであったが、不思議なことにおにの居座る村に示し合わせたように寄集まった。そして四人は力を合わせてなんとか老人のようで赤子のようなおにを滅した。この衣はおにを成敗する為に神が人に与えた道具なのだろうと四人は推測したようだわ。ただ、小さな疑問が残るじゃない。 

おにを倒すための衣を人に与えるくらいなら、神は元よりおになど創らなくてはよかったのではないのかしら。四人はまだこどもだった為、なぜ、おにと衣がこの世に落とされたのか想像もつかないのね。


ひびの入った飴細工のような精神。女の心などそんなもの。それから、四人は行動を共にし、北関東を中心に現れるおにを次々と倒していったわ。しばらくは順調におにを殺していったのだが、こども達と般若と接触してから、衣を纏うこども達の魂は徐々に腐っていったみたい。

おにを退治する為に己の命を投げ出すような戦い方をするようになってしまったの。それはほうきに跨る少女の術によるのだとは誰も想像すらしなかった。こどもひとり減り、ふたり減り、最後は黒色の衣を纏う少年ひとりが残された。


少年の精力も衰えていた。少年には般若が術をかけたわけではないわ。人は腐った人と並んでいると己も少しずつ傷んでいくもの。なんて脆いのでしょう。籠に入れられた果物と一緒ね。少年は腐敗していく少女達を見て、まるでおにと変わらないではないかと感じた。人とはなんなのか。彼女達は人らしく死んだと言えるのか。その存在は正しかったのか。動植物を喰らう人とはもしかしたら動植物等から見ればおにと変わらないのではないだろうか。随分悩んだ。


そうなのよ。おには人の世界を滅ぼそうと考えているわけではないし、傷付けたいとも思っていない。ただ、腹が減ったから餌を喰うだけなの。人が畜生を喰うのとなにも変わりはない。おにとはそのことを人に教える為にそらが送り出した「もの」ではないだろうか。人に喰われる動植物の身になれとそらが怒っているのではないかしら。


精神を蝕まれた少年は一体のおにを必要以上に弄った。そして少年はそのおにを喰ったのだって。喰えば喰う程食欲が増していったらしいわ。力がよりみなぎるようだったの。おにが言ったらしい。もっと喰え、頭蓋すらも残さず喰らい尽くせと。おにのすべてを喰い漁った後、少年は大きな雄叫びをあげた。その声は狼のようでもなく、犬のようでもなかったみたい。森の中から発せられるけものの声は村まで響き渡り、村人は新しいおにが現れたのだと勘違いを

して村を捨てて逃げ出したらしいわ。


ヒトになり損ねたもの。少年が雄叫びをあげたとき、身に纏う黒色の衣が白く発光した。月が落ちてきたのではないかと思われるほど強い光だったらしいわ。少年はヒトとなるのかと神は疑ったがそうはならなかった。そらにはそうではないと分かっていた。少年の身体は黒い衣と同化したよう。どうやらいつでも黒色の衣を纏った形に変身することは可能らしい。ただ、衣と身体が一体化してしまっている為、人の容姿には戻れない。その後、日本という国におには現れなくなったし、ほうきに跨った少女も姿を消したのだという。


心身の浄化。人の目指すもの。ヒトへの憧れ。すべてのおにを倒した後、黒色の衣を着た少年は修行というものに励んだそうだ。悟りというものを開くことを目指していたらしい。ヒトになりたかったのだという。まずは心をひとつにする為に瞑想を行った。しかし、それだけでは満足のいく結果は得られず、断食や呼吸の制御、特殊な座り方、立ち方、肉体的苦痛を受ける修行を行った。欲求に打ち勝つ智慧を養い、精神力の鍛錬が目的。ただ、それでも悟りは開けないと感じた少年は外界の河で身を清めることにしたわ。


女。厭らしいと思っていた存在。ひびの入った男の心和ませてくれる存在。美しいことがなにより価値のある存在。少年は河でヤジャータという女に接触することで気力と体力を回復させたの。己が生きる為には女という存在が不可欠であるとようやく気が付いたのね。同じ人であっても男と女はまるで別の生きものだと感じたらしいわ。男の心には性欲とは別に名誉欲、利益欲などの悪魔が襲い掛かり、それを消し去ることは難しいが、女は多少の性欲の他に優しさや慈しみ、愛おしさを抱えていることを彼は知ったのよ。


慈しみ。愛おしさ。目合い。快感。あたしも感じたことがある。愛した男の悲しみや苦痛を除く為に抱き締めることは気持ちのいいことね。男はいつもなにかと戦っているの。それが男の因縁なのだろうけど。大概の男は弱音を吐くことはないが、みんな疲弊している。彼等に一時の安らぎを与えることが女の因縁なのよ。あたしが男を慰めたときに男が悦んでくれれば、あたしも嬉しかったし、精力が増したもの。


あたしが歴史の授業で習ったのは黒色の少年がヤジャータと幸せな時間を過ごしたところまで。たった五十分の授業でこの話はお終い。あたし以外のこどもはあまり興味を持たなかったみたい。仕方のないことか。こんな話は入試には役に立たない。みんなは争いの歴史にしか関心を示さないもの。試験に出題されるからというのが理由だろうが、争いそのものに惹かれる人もいるのよね。


魅力。尊敬。憧れ。みんな強い武将や頭のいい参謀に関心を持つのだ。だから、織田、豊臣、徳川などの武将の話になるとみんな目を輝かせるのね。自分も有名な武将のように大きな悲願を達成することが能うかもしれないと期待をするのだろうか。偉業を成し遂げた彼等に焦がれるのだろうか。そんなに気にしなくてもいいのに。 あなた達にはそんな器量はないわ。夢を見るのは自由。憧れるのも自由。ただ、穏やかに暮らしている人を巻き込むのだけは止めて頂戴ね。男のつまらない野心のせいで女の幸せを奪うことは許されることではないわ。女は争いなど望んではいないのだからね。


あたしは争いの歴史にはあまり興味がない。その後の少年とヤジャータのことの方がずっと気になったので、その日の授業がすべて終わってから少年に関わる本を図書室で何冊か借りて読み漁った。


愛欲。女を求めること。おとこの子にはないけど、男はみな備えているもの。少年は数百年の間に何十人もの女と愛し合って交わり合ったという。ちょっと意外。修行を行えば性欲を捨てられたのではないかと思い込んでいたのだけどな。性欲を捨てられなかったのか、それとも性欲とは捨てるものではなく抱え込むものだと判断したのか。少年はヤジャータと別れてから数百年後に、神谷ともという女と目合ったときにこどもを授かったそうだ。どういうこと。少年は黒い衣を纏ったままで、射精など出来ないはずなのに。少年も神谷ともも不思議であったが、難しいことを考えても仕方ない。生まれてきた子に啓という名をつけて大層可愛がったらしい。 


自分はまだ理想の人とは違うという憂い。もう自分は人とは違う、けものなのだという怖れ。少年は啓が健全なおとなに育つ為には自分の存在が必要ない。邪魔にさえなると考えて衣の中に身を隠して、母子の前から姿を消した。衣となってふたりの幸せを願って見守っていたそうだ。


黒色の少年。黒色の少年の子。歴史とは輝く人のことしか語ってくれないもの。影に隠れたものにはなにも学ぶべきことがないのだろか。黒色の少年に関する話はどの本を読んでもここで終わっている。黒色の少年の息子である神谷啓は現代ではとても有名な思想家になった。だから神谷啓に関連する書籍はたくさんあるが、あたしは息子のことより神谷ともと黒色の少年のことをもっと知りたい。   

だけど、歴史を語る本も当時の新聞にもなにも書かれていない。もしかしたら、物知りのやえ婆ちゃんならなにか知っているかもしれない。土曜日になったら婆ちゃんのところに行ってみよう。


人の精神など簡単に砕けてしまうものらしい。やえ婆ちゃんは色んなことを知っていた。黒の衣を纏う少年と目合った神谷ともという女は婆ちゃんと同じくらいの年齢なのだって。婆ちゃんの話は本や新聞で知った情報ではない。あくまで噂話。どこまでが真実でどこからが作り話なのかは分からないけど、あたしにはとても刺激的でおもしろかったわ。


婆ちゃんが言うには神谷ともがこどもを生んでから八年経った頃、ともは精神を汚染されたのだって。常に空腹を感じて、喉の渇きを訴えた。いくら喰えども食欲はおさまらないし、肥えることもない。眠りもしないし、他人と接触しようともしなくなったらしい。遂には働くことさえやめてしまったそうだ。そして母子はすべての財産を失った。それでもともは大量のサトバを喰っていかなければ生きていけない。母の食欲を満たす為に息子は野山で動物を狩ったり植物を採ったりしたという。母はそれを悦んで喰うので啓は満足だったのね。息子は母を満たしてくれる動植物の命を頂くときは手を合わせて感謝することを忘れなかった。


戦い。命のやり取り。植物はともかく動物はおとなしく啓に命を譲り渡すわけがない。動物を捕える為には啓は戦わなければならないのだ。牛や猪とは命のやりとりをすることもあっただろう。啓はそれが危険な行動であることを承知で動物に立ち向かった。自分を犠牲にしても母を満足させたい。動物を捕えるということは本来傷を負わなければならないことなのだ。そして、人間にとって動物は敵ではないの。人は常に一方的に動物に襲い掛かる。動物は一度でも矢を向けられたときに初めて人を敵だと認識する。そうなってしまえば優位になるのは狩られるはずだった動物の方。真正面からぶつかり合えばいつでも動物の方が人の力を上回る。狩りとは危険なものなのだ。それでも智慧を使い、道具を使って人は汗と血を流して動物を狩る。


食い意地とはこういうときに使うべき言葉ではないかしら。母の食に対する貪欲さはまさに異常。息子は異常者となってしまった母を放ってはおけない。狂った母を止めなくてはいけなかったのだが、その方法はあまりに怖ろしすぎてあたしの口からは語れない。



★最後までお付き合い頂きましてありがとうございました。

本短編は「人型戦闘兵器はサトバも食う」の物語を補完するための物語です。

何卒、本編の方も応援頂きますようよろしくお願い致します。


https://kakuyomu.jp/my/works/16817330662358581162

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