櫛宮さんサイドのお話らしい2 前

 まさか、本当にまさかだ……仕事の時間を心待ちにする日がわたしにやって来るなんて思いもしていなかった。ソワソワするのを止められない。

 うわずった思いは私の行動にまで影響を及ぼしているようで、あっという間に終わる着替え。いつもとは比較にもならないスピードで、撮影までの準備をパパッと済ませてしまった。

 その分だけ呼び出しがかかるのを待つだけの空虚な時間が無駄に伸び、堪らないぐらいにもどかしい。


 さっきから事あるごとに時計をチラチラと確認してしまっている。まばたきの回数よりも時計を見る回数の方が遥かに多くなってしまっている。

 じーっと落ち着いたままではいられずに、タップダンスみたいに床でリズムを刻んでしまうぐらいだ。

 許されるなら今すぐここを飛び出して教室に行きたい。


 わたしがこんなことになってるのも全部……それもこれも全部、平沼くんのせいだ。

 平沼くんに会えると思うだけで、私の心はどうしようもなく舞い上がってしまう。

 でもそれも仕方ない。平沼くんは初めての友達で、わたしには今まで友達なんてものは微塵もいなかったのだから、慣れていないことなんだから……仕方ない。うん。そうだよ。仕方ない。

 映画の撮影も楽しみなのに、それ以上に、その後の時間がとても待ち遠しくなっている。平沼くんを退屈させないように話題を考えたりしてみる時間、そんな時間すらも何だか楽しい。


 いつの間にか手にはスマホを持っていた。

 殆ど無意識的に平沼くんとのトークルームを開き、交わしたやり取りを見る。


『ごめん。そういうの興味無いんだ』


 平沼くんを撮影に誘ってみた時に送られてきたこの返信。これが来た時、わたしは自分の浅はかさに絶望した。嫌われたと思って目の前が真っ暗になった。

 すぐに必死に謝った。自分勝手なわたしを猛省した。返信が来るまでの時間は生きた心地がしなかった。

 

『前言撤回させてください。是非とも参加させて貰いたいです』


 数分後に返ってきたこのメッセージを見た時は、良かったぁ……と心の底から溢れる安堵感。平沼くんの優しさに胸を打たれた。どう見ても平沼くんはわたしを気遣ってくれている。文面からでも簡単に分かった。

 分かっているのに、分かっていても、その申し出を断ることはわたしには出来なかった。気づかなかったフリをして、都合良く受け入れた。

 

 なんてわたしは情けないのか……平沼くんの優しさに完全に甘えてしまっている。

 それでも、これもきっと仕方ない。

 平沼くんの裏表のない温かな優しさを断れるほど、わたしは高潔な聖人じゃない。ただの人間だ。


 …………早く平沼くんに会いたい。そして皆が羨ましい。

 友達がいる人達は皆こんな風に毎日を楽しく新鮮に生きているんだと思うと、わたしが今まで本当に色の無い毎日を送っていたことを嫌でも実感させられる。

 平沼くんのことを考えてるだけで鼓動は高鳴り、多幸感に包まれて、自動的に緩み始める頬。友達ってすごい……不思議な感覚。


「く、櫛宮さん……そ、そろそろお時間です……」


 扉の向こうから聞こえる声。どうやら準備が終わったらしい。

 これでやっと平沼くんのいる場所に……あ、だめだめ。顔を戻さないとっ。

 椅子から意気揚々と立ち上がろうとして、不意に鏡に反射した顔は自分でも見たことないぐらい口角が上がっていた。表情に締まりが一切ない。

 パシパシっと頬を叩いて、引き締め直す。

 危ない危ない。これで大丈夫。


「はい。すぐ行きます」


 外に出ると、廊下の先に人だかりがあった。

 映画に出演するわたし以外の四人が先を歩いているのが見えたが、特に興味は出てこない。わたしと関わることはどうせないし、覚えるだけ無駄。

 そんなことよりも平沼くんだ。わたしが誘ったんだから、嫌な思いはさせないようにしないと。メインキャスト以外はまだ配置も決まってないので、平沼くんが近くに座ってくれないかなぁと思う。それなら困っていた時にサポートだってしやすいし、単純に嬉しい。


 周囲から聞こえてくる悲鳴も、向けられる視線も、ドサリと倒れていく人達も、今日のわたしからすれば空白と何ら変わらない。心の片隅にも入ってこなかった。朝から脳内メモリは一つのことでもういっぱい。

 

 教室の中に入ったら、後ろの方で固まっているエキストラの人達に真っ先に目を向ける。

 当然、平沼くんはその中にいた。平沼くんの顔を見た途端に嬉しくなった。だけど同時に…………胸の奥がズキンと痛む。

 

 隅の方に立っていた平沼くんは、前に立っている可愛らしい女の子の目元を手で覆い隠していた。その子との距離感はすごく近い。二人はとても仲が良いんだということが一目で分かる。もしかして、平沼くんの彼女さんなのかな?

 そう考えていたら平沼くんと視線が合う。この前とは正反対で、わたしの方から目を逸らしてしまった。何故だかそうせずにいられなかった。

 ズキズキと痛み続ける胸の奥。わたしは病気とは無縁な人生をこれまで送ってきた。だからこんなことは初めてで……ただひたすらに苦しい。


 その後はもう、心ここに在らず。溜め息が勝手に口から溢れる。

 エキストラの人達が席の配置を決めている間、動物に似た雲を探して、わたしはずっと外を眺めてた。

 いいなぁ、わたしも雲になりたいなぁ……。漂ってるだけなんて羨ましいなぁ……。

 十分ぐらいそんな風にボーッと過ごしていたら、いつの間にかエキストラの人達の戦いは佳境に突入していた。でも別にそれに興味は無い。

 

 つい気になってしまうのはその人達の向こう側、わたしと真反対の位置にある廊下側の席。そこに座っている平沼くんと……その前に座っている女の子。

 誰が見ても分かるぐらい、平沼くん達はイチャイチャしていた。二人だけの世界に入り込んでいて、全ての配置が決まろうともお構いなしだ。

 撮影を始めると言われるまで、平沼くん達はずっと楽しそうにじゃれ合っていた。指摘されてようやく状況に気付いて、顔を真っ赤にした平沼くんが席に座り直す。

 その姿を見て胸が強く痛んだ。そして平沼くんとまた目が合う。またすぐ逸らす。すぐ逃げる。

 あんなにこの時間を楽しみにしていたはずなのに、今は平沼くんの顔を見るのが怖い。

 

 ああ……やっぱりあの子が平沼くんの彼女さんなんだ。間違いない。そうじゃないとおかしい。ただの友達同士ならあんな風に顔を触り合ったりしないと思う。

 昨日出会ったばかりのわたしでも、平沼くんが優しくて良い人なのは分かっている。それに……かっこいい。付き合ってる人がいたって全然不思議じゃない。

 わたしにとって平沼くんは初めて出来た大切な友達だけれど、平沼くんからしたら違う。わたしは特別な存在なんかでは無くて、たくさんいる友達の中の一人に過ぎない。

 

 そんなことは最初から分かっていたのに、まざまざとそれを思い知らされた気分だ。

 あの子に向けている楽しそうな平沼くんの顔が、わたしには向けられないという事実。それをこの目で確認するのが怖い。もう平沼くんの顔を見れない。つまりはここからは仲良くなれない。

 最初で最後の友達を失ったに等しい。落差が大きくなればなるほど威力は増すと言うけれど、本当にその通りだ。何もかもを喪失した気分だ。心にぽっかりと大きな穴が空いた。


 撮影中も胸は傷み続けていた。平沼くんの席がカメラの向こう側というのも、その要因の一つだった。

 彼女さんと楽しそうに話している姿が嫌でも視界の片隅に入ってくる。わたしがまだ見たことのない平沼くんの顔。幸せそうだ。

 

 察しが悪くて気も効かない、自分勝手な自分が恥ずかしい。

 エキストラの時もそうだし、今日の放課後の話だってそうだ。平沼くんには予定があるのに、それを考えもせずに一方的に誘ってしまった。

 平沼くんの優しさに甘えてばかり、本当にわたしはダメダメだ。


 一時間弱の撮影中、わたしは延々重苦しい気持ちを抱えたままだった。撮影が終了し、待機室に戻ると、平沼くんにお詫びのメッセージを送る。

 そうしたら私服に着替えて、宿泊場所のマンションに帰る……なんて気分にはなれなかった。

 今は誰とも話す気にならない。関わる気にもならない。ただただ一人にしておいて欲しい。そんな気分だ。

 目を閉じて机に突っ伏す。頭の中でグルグルと揺れているのは自分への苛立ち。平沼くんに直接謝れば良かった。


 多分30分はそうやって一切の情報を遮断。周囲から聞こえる音は最初の五分ぐらいで消え失せていた。

 気付いた頃には学校の中には誰一人いない。部屋から出て廊下を歩いてみると、無人の校舎内では足音が良く響いた。

 

 少し不思議な状況な気もするが、一人の気分なわたしにとっては好都合でしかない。

 無人の廊下をぐんぐんと進んで、わたしの目指す先は当然、二年二組の教室。

 

 中に入るとまず廊下側の一番後ろの席へとわたしは向かう。平沼くんがさっきまで座っていた場所。

 わたしは無意識にそこに座っていた。平沼くんの温もりが残っていると考えていたのかもしれない。最低だ。

 即座に立ち上がり、その席から離れる。

 わたしがここに来た目的はこれじゃない。


 わたしの本当の目当て。それは間違いなく窓際の前から三番目、平沼くんの席。

 次は意識的に、確かな意思を持ってその席に座る。

 おかしな話だけれど、何だかしっくりきた。

 この席には体温とかそういう話で無く、平沼くん自体の温もりが残ってるような気がした。

 平沼くんの机の上に伏せて、わたしは目を閉じる。


「……平沼くん……」


 この胸が締め付けられるような切ない気持ちは、一体なんだろう。

 ううん、実際はもう分かってる……きっとこれが恋だ。わたしは平沼くんを好きなんだ。

 平沼くんとは昨日会ったばかりなのに、わたしってこんなに惚れっぽいのかって……ちょっとショック。

 

 で、でも仕方ない、仕方ないよ……!

 誰もわたしをわたしとして見てくれる人なんていないって諦めてる中で、急に出てきた平沼くんも悪いよ……!

 あんな優しい笑顔、一目惚れぐらいしちゃうよ……!


 ……だ、だけど、平沼くんには可愛い彼女さんがもういるんだから……わたしは諦めないとダメだ。


「…………」


 こんなことなら出会わなかった方が良かった。

 平沼くんとさえ出会わなければ諦めたままで、知らないままでいられたのに。

 知らないままが良かった。見つめ合って話す喜びも、胸の奥で疼くこの痛みも。


「………平沼くん……」


 もう少し早く平沼くんと出会えていればと思わずにはいられない。

 人生のもっと早い段階。小学生の頃ぐらいに出会っていたかった。どこでどう出会ってもわたしはすぐに平沼くんを好きになってしまうと思うから……それぐらい早くに出会えていれば、わたしがきっと今頃…………


「バーカ。無理すんなっての」

「ひゃうっ……?!」


 前触れも無く耳にヒヤッとした冷たい何かが押し当たったかと思えば、爆破スイッチでも押されたみたいに反射的に動く身体。

 当然、ぐでんと突っ伏したままではいられずに、それはそれは勢い良くわたしは机の上から跳ね起きる。


 ビックリしすぎてカチカチとしている視界の中で、すぐ側に誰かが立っているのが見えた。

 その誰かは、わたしが今一番会いたくて、今一番会いたくない人だった。


「……へっ、ああれ……な、なんでいるの……?」


 ここにいるはずのない平沼くんが、すぐそこに立っていた。

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