第3話 昼のまどい

「おはようございます」

 自身の住まうアパートに帰りついた伊崎芽衣いさきめいが会ったのは、最近ようやく会話を交わすようになった隣人。

「あー、お早よ伊崎ちゃん。お疲れさま」

 ちょうど伊崎と入れ違いに出かけようとしていたのはコケティッシュな魅力のある妙齢の女性。

「学校って朝早くて大変ですね」

「朝練なんかで怪我されたりすると保険医としては、ね」

 伊崎の言葉に苦笑しながら返すのは桃井花ももいはな。近くにある高校の校医なのだ。

「それでなくとも、用もなく保健室入り浸る男子が多くて参ってんのに」

 あー、女子校勤めたかった~などと愚痴る桃井、別にそういう趣味がある訳ではない。トランジスターグラマーで美人な桃井へと向けられる思春期男子生徒の不躾な情欲満タンの視線が生むストレスが言わせているのだ。

 魅力的な桃井。男子たちの気持ちが何となくわかる伊崎である。

「頑張ってきてください」

 通路を譲り苦笑気味に声をかける伊崎の顔をすれ違いざまねめつけた桃井は脚を止め、

「伊崎ちゃん、目の下隈。それと肌艶よくない。もっと栄養価高いもの食べてしっかり睡眠取りなさい」

 職分に真っ当な態度で強く言い含めるとヒールのかかとを鳴らしながらアパートから離れていった。

 自身の部屋のドアの前で立ち尽くす伊崎。手提げ袋を持っていない方の手で己の顔に触れる。指先に伝わる乾いた質感。

 深いため息をついた後、鍵を開け、

「ただいまー……」

 待つ者のいない空っぽの自室へと消えていった。

 熱いシャワーを浴びサッパリしたところで時間を確かめてから電話をかける。コール二回でつながり、

「あ、お母さん、おはよう。……うん、さっき帰ったとこ……うん、うん。お母さんは? ……そう、うん。……わかってる。……じゃ、また電話する」

 短い通話を終え、ため息ひとつ。離れて暮らす母への電話はもはや日課になっていた。

 一緒に暮らせばいいのだが、父親の姓のまま別れた母親と暮らすというのはさすがに気が退けてできないでいた。

 なにより母親が一緒に暮らすことを望んでいない。母親じぶんのことは忘れて芽衣自身が幸せになることだけを考えなさい。そう言われていた。

 こまめに連絡を入れるのはただの我がままで、自己満足みたいなものだとわかっている。家族の籍から抜けた母親はもう他人、そう割り切れれば良いのに出来ずにいる。

 またため息、途端、

「――ゲホッ、コッ」

 せき込む。口元を抑えながら常備しているのどスプレーへと手を延ばす。噴霧しながら吸引、すっと納まる咳。

 呼吸を整えながらのど飴を口にする。これでしばらくは大丈夫――。

 "上手く行かないなぁ……"

 ベッドへ身体を横たえ、天井を眺めながら思う。

 父の新しい妻、自分よりも少しだけ年上の継母ははに馴染めなくて家を飛び出した。流れ着いたこの街で新しい生活を始めたのに、なぜだろう? 置いてきたはずの何かを引きずったままズルズルと生きてる。

 作家になる、その夢を叶えるための活動も滞ったままだ。新しい生き方にも夢にもちっとも前に進めていない。

 じわりと両目の淵から涙がこぼれる、泣きたくなんてないのに。

 布団に潜り込み赤子のように身体を丸めて、伊崎は眠りについた――。

 

 午後二時を過ぎた辺りでのそりと目覚める。身体が重い、怠い。けど最近ではよく眠れたほう。

 目覚まし代わりと寝汗を流すためにシャワーを浴びる。バスタブに目をやり湯船に浸かったのはいつだったかと頭を巡らす。すっと思い出せない辺りにライフサイクルの乱れを感じる。

 湯が流れていく自身の姿態、視線を落とせば手入れされていないデリケートゾーンが目立つ。処理もせず放りっぱなしの状態にどれくらいなかったっけ? と思い返す。

 それからそっと腕をあげて脇の下も確かめる。当然のように処理はされていない。

 ような相手がいないからって、女としてどうよと自嘲する伊崎。

 少し長めのシャワータイムを終え、軽目の食事をとった後PCを立ち上げ、ネットで昨夜から今に至るまでのニュースに目を通す。

 何か執筆のヒントになるようなことはないか? と見て回るのも日課だ。

 一通り巡ってから登録してある小説投稿サイトへログイン。伸びていないPVに肩を落とす。交流ユーザーとの短いやり取りを終えてから改めてエディターを起動し公募用の作品に取り組む。

 仕事前の遅い夕食までの数時間、それが自分のためだけの時間。


   ――続く――

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