第2話 くろー

向日葵ひまわりちゃん、ちょっといいかな?」

 真昼の公園、ベンチに腰かけていた若い女に声をかけたのは、もじゃもじゃ頭に黒いソフトハット、黒スーツに赤いシャツと白のネクタイを合わせた黒メガネの男。

 見た目の怪しさが大爆発している細マッチョの長身に、

「くろーさん……」

 特に驚きもせず対応していることから顔見知りだろうことが知れる。

 視線を送って答えたのは、いつぞやホテルにいた若い娘だ。今は落ち着いた色合いの制服を着ている、首からぶら下がっている身分証には伊藤 向日葵いとう ひまわりとあった。

 横に座っても? と仕草で問う黒ずくめの男・くろーに、軽く頷いて答える向日葵。

「休憩時間、もうすぐ終わるから」

 言外にあまり時間はとれないことを伝える向日葵の視線の先には市役所の庁舎。この公園は市役所のそばにあるのだ。

 くろーと呼ばれた男はふんふんと頷いてから、向日葵を覗き込むようにして言う。

「向日葵ちゃん、最近、店に来ないなーさびしいなーってマスターがね」

 唐突な切り出しだが、"店" "マスター" のワードに向日葵は思いつく場所はあった、自身の住居近くにある喫茶店。

 学生時代からの行きつけ。けれど勤め始めてから、正確には人に言えない関係が始まってから赴く回数が少なくなっていた。

 店の落ち着いた雰囲気とコーヒーの味、そして何よりマスターの佇まいが居心地よくて通っていた。すでに常連だったくろーと知り合ったのも十代だったころ。

「俺もね、ちょーっとしたい話があるのよ。うん」

 向日葵から人ひとり分の間をあけて腰かけ前を向いたままでくろー。声音は少し硬い。

 横目でくろーを見、視線を戻してからため息をひとつ吐き、

「わかった。今日、仕事終わってから寄る」

 言って向日葵は腰を上げ、くろーを振り返りもせず庁舎へと歩き出す。

 去っていく向日葵の背を見つめるくろー。黒メガネ下の表情は読みとれない。

 ベンチの背もたれに身体を預け、片手で帽子を押さえながら天を仰ぐ。

 見上げる初秋の空は、少し重たい色をしていた。


 寂れた商店街のはずれにある古びた喫茶店。扉には『GUKU』と書かれてある。

 申し訳程度の駐車スペースに外装が傷み塗装もあせたスクーターが停められていた。見る人が見ればイタリア製だとわかるだろう。

 枯れた喫茶店の外観にくたびれたクラシカルなスクーターはよく馴染んでいた。

 店内へと目をやれば、五席しかないカウンターと四人掛けテーブルが三つあるだけ。

 壁や柱には世界各国の名峰ポスターが張られており、入り口横のマガジンラックに納まっているのも山岳系の書籍が多く、化粧室扉横の書棚には登山をテーマにした名作漫画が揃えられている。

 元・山男だったという店長マスターの趣味が色濃く出ている内装だ。

 一般家庭では夕餉な時間帯のせいか客はほぼおらず、カウンター席の奥隅に長身を丸めるようにしてコーヒーをちびちびと啜る黒ずくめの男・くろーが居るだけ。

 昔のテレビドラマに影響されているのが丸わかりなファッションの傾向からして、表に停めてあるスクーターも間違いなくくろーの乗車だろう。

 音量を抑えた有線放送のイージーリスニングが流れる中、カランとドアベルが鳴り、客の訪れを伝える。

 来客はためらいなく店の中を進み、くろーからひとつ空けた隣席に腰を下ろした。

 自分の正面に陣取った客にマスターはにこやかに話しかける。

「お久しぶりだね、向日葵ちゃん」

「ご無沙汰してごめんね、マスター」

 好々爺といった風情のマスターに、客――伊藤 向日葵――も穏やかな表情で答える。

「いつもの、でいいかな?」

「うん、お願いします」

 短い会話のあとマスターが手を動かし始める。隣でくろーが何か言おうとして顔を向けるが、

「――久しぶりなんだから、一杯目くらいゆっくりさせてもらえない?」

 ギロリと横目でにらんだ向日葵に制される。口をへの字にして肩をすくめるくろーをマスターが優しく笑う。

 サイフォンからコポコポと音が響き、コーヒーの香りが店の中に広がる。そして向日葵の前にカップが置かれ、

「はい。"岳" ブレンド、おまたせ」

「ありがとマスター」

 出されたカップを両手で包むように持ち、口元に運び一瞬止め、沸き立つ香りを楽しんでから一口すする。

 熱い液体を舌で転がすように味わいそっと嚥下する。喉を通り胃に納まると腹の底から熱が全身にまわるようだ。

「ん~」

 この上ない満足げな表情を浮かべる向日葵。その顔を見てマスターも嬉し気に頷く。

 二口目はスプーン擦り切れいっぱいのグラニュー糖を入れて味わい、三口目はプラスミルクで。

「ん~、やっぱり美味しいなぁ、マスターの淹れてくれるコーヒーは」

 久しぶりのブレンドコーヒーを堪能した向日葵は指先を組んだまま腕を伸ばして背を逸らせ、全身で喜びを伝える。

 そんな向日葵を穏やかな笑顔で見て、空になったカップをマスターが下げる。

 頃合いかと、大人しくしていたくろーが向日葵へと向き直り改めて話しかけた。

「訊きたいことがあるんだけどね」

 黒メガネのブリッジを指で押し下げ、上目遣いで向日葵を見るくろ―。

 カップを洗い終えたマスターがカウンターから離れ、入り口近くのテーブル席へと移り、素知らぬ顔をして新聞を広げる。

 くろ―の真面目な声音に身構えつつ、マスターの気づかいに小さく会釈して感謝を表す向日葵。

「なに、訊きたいことって?」

 鋭い視線で問い返す向日葵を、くろーは受け流すように少し間を取り、

「……いや、大したことじゃないんだけどね、うん」

 ちょっともったいぶった言い回しから、

「向日葵ちゃん、アンタ不倫してない?」

 ズバッと切り込んだ。


   ――続く――

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