第14話 届いた想い
リュカの屋敷で暮らし始めてから一週間が経ったある日。私は部屋のバルコニーから美しい庭園を眺めていた。
「今日はいいお天気ね。お庭を散歩でもしようかな」
庭の木々や花が日差しを浴びてきらきらと輝いて見え、遊びにおいでと誘っているようだ。
リュカも誘いたいけれど、今日は忙しいみたいだから一人で行くのがいいかもしれない。
私は準備を整えて庭へと繰り出した。
春の綺麗な花々が咲き乱れる一画を、のんびりと歩いて回る。
そうしてひとしきり楽しんだ後、私は近くのベンチに腰掛けて、リュカのことを考えた。
あれから私とリュカは、一緒に食事をしたり、庭を散歩したり、リュカの晩酌に付き合っておしゃべりをしたりして楽しく過ごしていた。
大人の姿のリュカにもだいぶ慣れてきた……のだが、やはりどうしてかたまに胸がドキドキしてしまって、戸惑うこともある。
つい昨日もリュカが食後のワインを嗜んでいたときのこと……。
『リュカもワインが飲めるようになって……。本当にもう大人なのね』
『そうですよ。でもソフィさんはワインじゃなくて、ぶどうジュースで我慢してくださいね』
『どうして? リュカばっかりずるくない?』
『どうしてって……。ソフィさんが昔ワインを飲んで酔っ払ってしまったのを忘れたんですか?』
リュカにそう言われて、昔お酒で大失態をさらしてしまったことを思い出した。『あはは、そうだったね。ごめんごめん』と謝ると、リュカはなんだか意味深な笑顔を浮かべてこう言ったのだ。
『でも、それを分かっていて飲みたいなら構いませんよ。ソフィさんは恥ずかしいかもしれませんけど、俺はソフィさんの可愛い姿が見れて楽しいので』
それを聞いた私は急に胸が高鳴って、真っ赤な顔で首を横に振ったのだった。
大人になったリュカは、こんな風にたまにドキッとするようなことを言ってくる。
私も私で、ずっと弟のように思ってきたリュカなのに、大人になった途端、こんなに意識するようになってしまって、自分が不誠実な人間になったような、いたたまれない気持ちになる。
正直に言うと、リュカが14歳の頃、もしもリュカともっと年が近かったら、リュカが年上だったら、好きになっていたかもしれないなと思ったことがあるのだ。一緒に馬に乗ったときも、リュカは弟じゃなくて男の子なんだなと感じて、少しドキドキしてしまった。
子供のときでさえそうだったのに、ある日突然、こんなに成長して現れるものだから、本当に心臓に悪い。……でも、今の状況も嫌ではないのだ。いきなり10年が過ぎていたのはさすがに驚いたけれど、リュカが一緒にいてくれるなら、まあいいかと割り切れる。
私にとって、リュカは大切で、特別な存在なのだ。
我ながら、とことんリュカに甘いなと考えて、くすりと笑っていると、横から「ソフィさん」と呼びかける耳慣れない声が聞こえてきた。
「は、はい……! あら、あなたはたしか……リュカの弟さんの──」
「ええ、ジュリアンです」
考えごとに没頭していて、まったく気配に気がつかなかった。
赤茶色の髪に榛色の瞳。リュカとまったく似ていないが、彼の異母弟だ。
私は慌てて立ち上がって挨拶をした。
「ソフィ・ルルーと申します。すみません、先日はきちんとご挨拶もできなくて……」
「いえ、あれは兄がすぐにソフィさんを連れ帰ってしまったから……」
ジュリアンさんが苦笑する。
そうなのだ。私の石化が解けたあと数日してから、「別にする必要もないと思いますが、一応念のためにご紹介しますね」とリュカにジュリアンさんの私室へと連れていかれたのだが……。
『ソフィさん、弟のジュリアンです。ジュリアン、俺の恩人のソフィさんだ。これからこの屋敷で暮らしていただく』
そんな風に一方的に紹介されて、あっという間に連れ帰られてしまったのだ。
居候となる身であまりにも失礼なのではとリュカに抗議したが、『ソフィさんとジュリアンの接触は最低限で大丈夫ですから』と軽く流されてしまった。
おそらくジュリアンさんもそれを気にして、わざわざ声をかけてくれたのだろう。いい人だ。
「屋敷での暮らしはもう慣れましたか?」
「はい、皆さんよくしてくださるので、だいぶ慣れました」
「それはよかった。普段はどんなことをして過ごされているんですか?」
「そうですね、今日みたいに散歩をしたり、図書室で本を読んだりとか……。あと、私は薬師なんですけど、リュカが薬草を育てられるように温室を作ってくれるそうで、どんな風にしようか考えたりしています」
「兄は本当にあなたのことが大切なようですね」
ジュリアンさんが安心したように微笑む。
他の人からそんな風に言われると、なぜだか恥ずかしくて頬が赤らんでしまう。
「そうでしょうか……?」
「ええ、どう見てもそうだと思います。あなたがいらっしゃってから、兄はずいぶんと笑顔が多くなりました。兄が幸せそうで本当によかった」
「……ジュリアンさんは、リュカのことを嫌っていないんですね。失礼ですが、リュカからご家族の話を聞いていたので、あなたもリュカのことを嫌っているのかと思っていました」
私の失礼な話を、ジュリアンさんは怒ることなく聞いてくれた。
「……たしかに、僕の母は兄のことを疎んでいました。僕にも兄の悪口を吹き込もうとしたり……。でも、兄は僕が嫌がるようなことはしませんでしたし、幼いながらに母の態度は間違っていると思っていました。ただ、僕はまだ無知で無力な子供で、母が何をしようとしているのかも知らず、凶行を止めることもできませんでした」
ジュリアンさんが悲しそうに目を伏せた。
「兄が家を出て行った後、僕は後継者として教育され、自分なりに努力もしていましたが、内心では限界を感じていました。兄は子供の頃から本当に優秀だったので。僕は後継者として相応しく見えるよう振る舞いながら、自分の力不足に悩み、いつしか兄が戻ってきてくれることを願っていました。……戻ってきてくれたところで、兄にとってここが居心地のいい場所であるはずがないんですけどね」
「…………」
「でも、兄は戻ってきてくれた。圧倒的な実力を身につけて。やっぱり、父の後継は僕よりも兄のほうが相応しい。僕は心からそう思ってるんです。母もきっと……そのうち理解するはずです」
「……ジュリアンさんは、優しい人ですね。お母様との板挟みで辛いはずなのに……。リュカのことを嫌わずにいてくれて、ありがとうございます」
ジュリアンが生まれたことで、リュカの不幸がさらに加速したというのも事実だろう。でも、まだ子供だったリュカにとって、自分のことを嫌わないでいてくれるジュリアンに、きっと心が慰められることもあったのでないか。そう思うと、お礼を言わずにはいられなかった。
ジュリアンさんは、私の言葉に驚いたように少しだけ目を見開くと、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「いえ、お礼を言うのは僕のほうです。ソフィさんこそ、兄の居場所になってくれて、ありがとうございました。今の兄がいるのは、ソフィさんのおかげです」
まさかのお礼返しに、私は思わずぱちぱちと瞬きをした。
私は当然のことをしただけにすぎないけれど、リュカが安心できる居場所になれていたのなら、本当によかった。
そんな思いでジュリアンさんに微笑みかけたそのとき、「ソフィさん」とリュカの冷たい声が響いた。
「兄さん……」
「リュカ、どうしたの? 今日は忙しいんじゃ……」
振り返ると、作ったような笑みを浮かべたリュカが、こちらを見つめていた。
「執務室の窓からソフィさんの姿が見えたので……。せっかくですから、これから俺と一緒に庭を少し歩きましょう」
「あ、でもジュリアンさんが……」
「いえ、僕は大丈夫ですから──」
「ソフィさん、行きましょう」
リュカが何かに焦っているかのように強く私の手を引いて、庭の奥へと足早に向かっていく。
「リュ、リュカ……どうしたの?」
「…………」
リュカは無言のまま歩き続ける。
「ねえ、リュカってば。どこに行くつもりなの?」
少し強めに問いかけると、リュカは急に立ち止まり、庭園に造られたレンガの壁に両手をついて、私を腕の中に閉じ込めた。
「……どこでもいいです。二人きりになれる場所なら」
リュカの芸術品のように整った顔がすぐ間近に迫り、綺麗な金色の瞳が私を見つめる。
珍しく余裕のない表情だ。
「……リュカ、どうしたの?」
またも急に早鐘を打つ私の心臓をなだめつつ、そう静かに尋ねると、リュカは私の肩に顔を埋めて溜め息をついた。
「──すみません。弟と楽しそうに話しているソフィさんを見て、嫉妬しました」
だめだ、また心臓が跳ねる。
「……リュカのことを話していただけよ。私の居場所になってくれてありがとうって、お礼を言われたの」
「そうだったんですね。ジュリアンのやつ、俺が自分で言いたかったのに……」
リュカが腕を下ろして、私の手を取る。
「ソフィさん、あのとき俺を拾ってくれて、俺の居場所になってくれて、本当にありがとうございました。ソフィさんのおかげで、俺は救われました」
リュカの真摯な想いが、握られた手を通して伝わってくるようだった。
私もリュカの手を握り返して、自分の気持ちを伝える。
「リュカだって、私の居場所になってくれてたのよ。リュカと出会えてよかった。私と一緒にいてくれて、本当にありがとう」
そう言ってリュカに笑顔を向けると、リュカは呆然と目を見開いて、その瞳から綺麗な涙がこぼれた。
「……ソフィさんは、本当にずるいです。俺にそんな言葉をくれるなんて。──ソフィさん、心の底から愛しています。子供の頃からずっと。ソフィさんが手に入らないなら、何をしてしまうか分からない。俺だけのものになってほしいです」
掠れ声で必死に想いを伝えてくれるリュカの気持ちが胸に迫って、気がつけば私の瞳からも涙が溢れていた。
私もリュカのことが心の底から大切だ。そしてそれは、弟の代わりとしてなんかじゃない。一人の男性として恋をしている。今だって、胸の高鳴りが抑えられない。
「……うん、いいよ」
私が答えると、リュカは信じられないといった顔で私を見つめた。
私はリュカを安心させたくて、もう一度答える。
「私もリュカのことが好き。ずっと一緒にいたい。私のお願いごと、叶えてくれる?」
「……もちろんです。何に替えても、叶えてみせます」
リュカはそう言うと、私の頬にそっと手を寄せた。
「……キスしてもいいですか?」
私が顔を赤らめながらうなずくと、リュカは「可愛い」と笑って、私の唇に優しく口づけた。
温かくて柔らかで、なぜだか懐かしい気もするようなその感触に、私は人生で一番の幸せを感じたのだった。
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