第9話 禁足地
馬で駆けること数時間。私とリュカは目的地の荒地に到着した。辺り一面、草ひとつ生えておらず、赤く乾燥した地面と切り立った岩だけが広がっている。
「禁足地というわりには、立入禁止の看板が立っているだけで監視がいるわけではないようですね」
「そうね……」
ざっと辺りを見た感じ、植物だけでなく動物一匹、虫一匹もいなさそうだ。道に迷いそうな複雑な地形でもない。泉を探すのに何の心配もいらなそうだったが……それでも何となく伝承の記述が頭から離れなかった。
やはりリュカはここで待っててもらうのがいいだろう。馬も置いていけば、何かあったときにリュカだけでも逃がせられる。
「……あのね、リュカ。実は泉へは一人で行かないといけないの。だから、リュカはここで待っていてくれる?」
「ソフィさんが一人で? だめです。それなら俺が行ってきます」
「えっと……伝承では、泉には男嫌いの女神様の力が宿っているとかで、女性一人で行かないと万能薬の効果が得られないらしくて……」
もちろん、これは口から出まかせの真っ赤な嘘である。我ながら、ちょっと苦しい説明かとも思ったけれど、意外にもリュカは信じてくれた。どこかで似たような伝説などを聞いたことがあったのかもしれない。
ただやはり心配なのは変わらないようで、一人で行こうとするのを何度も呼び止められ、八回目にしてようやく出発できたのだった。
「じゃあ、行ってくるね」
「場所は──」
「本に書いてあったから大丈夫!」
「馬を──」
「今のうちに休ませてあげて」
「俺も──」
「行ってきます!」
半ば強引にその場を後にした私は、本から写してきた地図を片手に泉を求めて歩き続けた。
地図には、泉を見つけた旅人が覚えていた目印として、「猿の石」やら「鴉の石」などの注釈が書いてある。初めは何のことやらと思っていたが、歩いていると特徴的な石が行く先々に鎮座していて、たしかに泉のある場所までのよい目印になっていた。
「ふふ、今度は狩人の石だって。本当に変な形の石ばっかり……」
なんて言いながら狩人の石に視線を向けた瞬間、私は自分の顔が引きつるのを感じた。
本物の人間そっくりの石像。その顔には、何かに驚いたような、恐怖に怯えているような異様な表情が刻まれている。自然にできたものとは考えられない。
これは誰かが作ったものなのだろうか。でも、一体何のために?
私は体が震えるのを必死に堪えながら足早に泉を目指した。
そうして、およそ二十分は歩いたと思われる頃、ようやく泉へと辿り着いた。
「よかった……本当にあった……」
岩のくぼみから湧き出ている、ごく小さな泉だったが、その水は虹のような不思議な輝きを帯びていて、いかにも聖なる力が宿っていそうな雰囲気だった。でも、本当に万能薬なのだろうか。念のため、指先を少しだけ泉の水に浸けてみる。
「うん、変な刺激はないわね」
感触としては、意外と普通の水と変わらなかった。次は回復の効果があるのか確かめてみたい。私は、昨日包丁で切ってしまった傷のある指先を泉に浸けた。
すると途端に今度はきらきらと複雑な色合いの光の粒が現れ、指先に優しい温かさを感じた。やがて光が収まり、そっと指を泉から引き上げて見てみると、さっきまでは確かにあった切り傷が、跡形もなく消えていた。
「傷が、治ってる……」
これは本物だ。病気や呪いにも効くのかはまだ分からないが、怪我には間違いなく効果がありそうだ。早く持ち帰って他の効果を確かめなければ。私は持ってきた皮袋を泉の水で満たし、溢れないようきつく口を縛った。
さて、これで目的は達成だ。あとは一刻も早く立ち去って、リュカの魔力封じの呪いに効くか確かめたい。私は皮袋をしっかりと握りしめながら、元来た道を駆け足で戻った。
帰り道は行きよりも短く感じる。遠くに見えていたリュカの姿が、だんだんと大きくなってきた。私が皮袋を掲げて「お水、採ってきたよ!」と叫ぶと、リュカも嬉しそうな表情で手を振ってくれた。
無事に泉の水を採取できてよかった。ここまで足を運んだ甲斐があった。そう思い、ほっと息をついた瞬間、私はリュカと馬の背後にある高い岩の上に何かの影が動いていることに気がついた。逆光で見づらいけれど、鳥のように見える。
その鳥は大きく羽ばたいて尾を高く上げた。太くて長い尾だ。
「……やだ、何あれ……」
額から嫌な汗が流れる。あれはただの鳥ではない。雄鶏のような体に蛇のような尾。どう見ても魔物だ。
しまった、よりにもよって魔物がいたなんて。伝承で『帰還した者はいなかった』というのは、あの魔物に襲われたからではないだろうか。
幸い、魔物はまだこちらに気づいていない。逃げるなら今のうちだ。
焦って駆け出す私を、リュカが不思議そうに見つめている。でも、今は大きな声を出して魔物に気づかれたくない。
リュカの元まであと数十歩の距離まで来たとき、不意に魔物が翼を広げた。そして嘴を大きく開けながら、こちらへと舞い降りてくる。
まずい、せめてリュカだけでも逃さなければ。
「リュカ! 馬に乗って逃げて!」
私は鋭く叫んだ。皮袋を脇に抱え、足下に転がっていた拳大の石を掴み、魔物目掛けて投げつける。石は魔物の尾に叩き落とされたが、こちらに注意を向けられればそれでいい。魔物がその首を私に向けたそのとき、毒々しい真っ赤な瞳と目が合った。
「あ……」
逃げようとするが、体が動かない。リュカに私に構わず逃げてと言いたいが、言葉を発することもできない。視界がどんどん暗くなり、皮袋がトサリと地面に落ちる音と、リュカが私の名前を叫ぶ声が聞こえる。
深い水の底に沈められているような、覚めない夢に閉じ込められてしまったような。どうにも抗うことのできない力によって、私の意識は奪われていったのだった。
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