第16話  佐之助の決断

 乗資に呼ばれた坂野兵庫は上機嫌で屋敷に戻って来た。

 出迎えた楓に、

「庄二郎はいるか」

 と急ぎの様子だ。すぐに庄二郎を呼んだ。

「お呼びにございますか」

「うむ、乗資様は此度の一件を自ら不忠者とつまびらかにして殿に書状を送ったそうだ。何といさぎよいことだ。それでな、殿から返書が届きお家を救った堺庄二郎に会いたいと言ってこられた」

「坂野様、それはまことでございますか」

 庄二郎の喜ぶ声を聞きつけて楓も側に座った。

「庄二郎様おめでとうございます。それで父上、お目通りはいつになりますか」

「そうだな年が明けて雪解けを待ってからになるか」

 そこに定次が書状を持って来た。

「ただいま外に飛脚ひきゃくが参りまして堺様宛でございます」

 そう言って置いていった。

 庄二郎は一旦部屋に戻り書状を開いた。

 それは救済米を国元へ届けた青沼佐之助からであった。

 佐之助は家老の神原伊織に田野口の状況を報告している時、聞き耳を立てている間者かんじゃに気付き追いかけて斬り捨てたとあった。

 庄二郎は「それは上々じょうじょう」と口に出して言った。

 だが読み続けるうち、驚きに目を見開いた。

 すぐに元の部屋に戻ると、

大事おおごとにございます。青沼様が武士を捨てるとのことでございます」

 そう告げて書状を見せた。

 兵庫と楓は回し読みをして驚いている。

「母上にも書状と金子を送り江戸に呼び寄せるとありますが、母上様が知ったらどうなさるかわたしは嫌な予感がいたします」

 庄二郎が口早に言うと、

「わたくしも多津たづ様が心配でございます。」

 と楓も同調した。

「母上様をご存知なのですか」

「亡き母が懇意にしており、生前は暮らしぶりなどを気にかけていたのです。とにかく参りましょう」

 庄二郎と楓は小走りに青沼家に向かった。

 書状を届けたのが同じ飛脚だとしたら一刻の猶予もならなかった。 

 辿り着くとすぐに声をかけたが返事がない。しんと静まり返っている。

 庄二郎は「ごめん」と言って框に上がると奥座敷の襖の前に立った。

「失礼つかまつる」

 襖を開けると死装束に身を包んだ多津が正座し、目の前には書状と金子が並んで置かれている。

 今まさに膝前の短刀を手にしようとするところであった。

 庄二郎は先に短刀を取り上げた。

「早まってはなりませぬ。何故ご自害しようとなさるのですか」

「ご先祖様に申し訳が立たず……息子を育てたわたくしの責任ですから」

 多津は力なく言った。

「申し訳が立たないとは武家の面目ですか」

「武家の面目などとうにございません。ご覧になったでしょう、商家から内職の仕事をいただく暮らしぶりを。申し訳ないのはお役目です。青沼家は代々郡方の役人として村を廻り、雨の日も風の日も田畑を気にかけお百姓と心を通わせて参りました。その苦労を息子の代で無にしてしまうのが悲しいのです」

 庄二郎はそれを聴いて希望が湧いてきた。

「それならば同じでございます。母上様は婿入り先の蔵元という職をご存知でしょうか」

「いいえ存じませぬ」

 多津は庄二郎が何を言おうとしているのかわからなかった。

「蔵元とは藩に収められた年貢米を買い取り米問屋に卸すという商売です。藩は何千俵もの米を領内で売り捌くことはできません。江戸や大阪のような大きな町でなければ売れないのです。されど我が藩のように山間部にある藩は収穫した米を年内に江戸へ運ぶことができないのです。雪の峠は越せませぬゆえ。そこで雪が解けてから運ぶ米の代金を先に払ってくれるのも蔵元なのです」

 蔵元の仕事を聴いた多津は不快感を露わにした。

「それでは佐之助は金貸しのようなこともすると仰るのですか」

「金貸しではなく前払いです。佐之助様は今まで真っ黒に日焼けして村を廻ってはお百姓の面倒を見てきました。これからも同じです。各村を廻り助言をし、お百姓と一体になって収穫を増やす努力をされる筈です。より多くの前払いができるようにです。佐之助様は藩を見限った訳ではありません。藩を別の形で支えようとしているのです」

 庄二郎の必死の説得で多津の表情が和らいだ。

「佐之助が武士をやめるのは脱藩だっぱんではないのですね」

 多津への書状にはその経緯いきさつまでは記していないようだった。

「脱藩ではありません。国元では佐之助様が運んだ米で年を越せると大層喜ばれたそうです。大仕事をやって抜けたとご家老からも褒美が出ました。その金子がそうです」

 庄二郎は前に置かれた金子を示した。

「救済米や船を手配してくれたのは蔵元の佐原屋吉兵衛殿です。佐之助様は藩を救えるほどの大きな力の存在を学ばれたのだと思います。そしてご家老に暇乞いとまごいをしました。ご家老は藩を去っても忠義の心に一点の曇りもないことを知り承諾したとのことです。わたしは青沼家の歴史の中で最も大きな功績を残されたのが佐之助様だと思いますが、如何ですか」

 多津の顔には血の気が戻り、微かな笑みもこぼれた。

「母親とは愚かなものですね。もっと我が子を信じてやればよいものを、いつまでも子供のように思ってしまいます」

「佐之助様は心配してくださる母上様がいらしてうらやましいです。わたくしは今でも母に会いたくなります」

 楓が初めて口を開いた。

「まあ楓様はすっかり母上様に似ていらして、わたくしも萩乃様が恋しゅうございます」

 多津はすっかり普通の母親の顔になった。そうなると勿論結婚相手の話になる。

「ところでおくみさんとはどのような娘さんですか」

 庄二郎は少し下がって楓に任せた。

「おくみさんはわたくしより一つ下の十八になる娘さんです。気さくで明るくてそれでいて思いやりのある優しいお方です。お会いになったらすぐに好ましく思われる筈ですよ」

「では婿養子に入る佐原屋吉兵衛殿はどのようなお方ですか」

 楓は庄二郎を見たがもう自分の役目は済んだという顔をしている。

「吉兵衛殿は米を扱う以上、お百姓と一体でなければならぬと思っておられます。お百姓が幸せでなければ商売も立ち行かぬ、心情は佐之助様と同じです。さればこそ婿にと望まれたのだと思います。娘可愛さで判断されるお方ではございません」

 楓がちらと見ると庄二郎はわざと大きく頷いて見せた。

「多津様は江戸に行かれますか」

「佐之助は近くに住んで欲しいらしいですが、わたくしは生涯此処におります。いただいた金子で借財も返済できますし、わたくしが生きている間だけでも青沼の家を守りたいと存じます。佐之助とは村を廻る折にでも会えますもの」

 多津は仏壇の前に座り手を合わせた。先祖に詫びるためではなく、おそらく息子をめてもらうために。

 庄二郎は辞去する時、取り上げた短刀を襖の脇にそっと返した。もう大丈夫と確信したからだ。

 帰り道に楓が訊いた。

「二人はいつ想い合う仲になったのでしょうか」

「さあ男女のことはわかりませぬ、ひょっとして一目惚れとか。わたしのように」

 いきなり庄二郎は背中を叩かれた。

「先ほどは話からお逃げになって、意地悪ですこと」

 二人は多津の自害を止められたことが嬉しくてたまらなかった。



 真田忍軍による騒動の後始末はひと月を要した。

 捕らえられた者たちは一人残らず打ち首となった。それは幕府の意向を受け入れたからでもある。

 信濃屋の床下からは前の住人たちの亡骸が見つかり、掘り出されて丁重に供養された。

 地下通路は埋められ、何棟もの米蔵は飢饉対策の備蓄用とされ藩の管理下に置かれた。

 隣の店舗はその管理をする役人の詰所となり米問屋がなくなった今、扶持米の買取りや町家への米の販売も行うようになった。

 表向きは坂野兵庫の提案だったが、坂野に原案を出したのは庄二郎であった。

 年が明けると高沢村では最後の正月を過ごした吾助が眠るように息を引き取った。

 おみつを案じたおくみは中山道が歩ける状態になると佐之助と共にやって来た。気落ちしていたおみつはおくみの顔を見るなりその胸に飛びついて泣いた。そして気持ちの入れ替えができると元気な笑顔を取り戻していったのである。

 おくみが多津と対面し互いに心を通わせたことは言うまでもないが、多津が自害しようとしたことなど佐之助は知るよしもなかった。

 坂野屋敷では佐之助の帰郷を機に久々に同志が集まり、すっかり町人風になった佐之助を肴に大いに盛り上がった。

 佐之助が江戸に帰る際には佐原屋から借りた米二千俵と船賃などの経費分として三百俵を加え荷車に載せて同行させた。


 佐之助が去った翌日、手入れに出していた槍が戻った。

 真田忍軍との戦いで槍の穂は細かく刃こぼれし、柄は削れたりささくれたりしたからだ。それが穂は鋭く研がれ柄はささくれをこすり取った上、黒漆を何層にも塗って磨き込まれている。

「まあ、美しく生まれ変わりましたね。その槍どうするおつもりですか」

 楓が見ていて尋ねた。

「殿様が槍の秘術を見たいと仰せのようです。演武を披露するのに傷んだ槍では無礼なので直しに出したのです。さあこれで出立できます」

「風笛も連れて行くのですか」

「はい、『双輪』に耐えられるのは風笛だけですから」

 そう言うと庄二郎はしなりを見るため槍を強く振った。槍はぶん!と音を立て、巻き起こる風が庭先に咲く蝋梅ろうばいの黄色い花びらを散らせた。

「楓、そなたも行くか」

 廊下に出て来た兵庫が言った。

「行ってもよろしいのですか、父上」

 楓の顔がぱあっと明るくなった。

「国元を見ておくのも良いだろう。もうおなごの足でも峠は越せよう」

 兵庫は娘が天狗様であることを知らないのであった。

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