第8話  父と娘

 内山峠に続く内山峡は下仁田街道にあって無数の奇岩きがんが見られる奇勝地である。

 人づてに聞いて馬でやってきた庄二郎はすっかりこの場所が気に入った。

「風笛、今まで荷などを運ばせてすまなかったな。今日から槍の稽古をするゆえよろしく頼むぞ」

 風笛はわかったとばかりに首を縦に振ると走り出した。庄二郎は勢いがつくと手綱たづなを離し騎馬槍術の基礎となる動きを繰り返した。

 下仁田街道と田を挟んで並行する草地を走るのは何とも気持ちがよかった。数回往復していると内山峠の方角から街道を疾風しっぷうごとく走って来る者がいる。

 両者は一瞬のうちにすれ違ってから「天狗?」、「今のは……」それぞれが立ち止まって振り向いた。

 すらりと伸びた長い足で鹿のように跳躍するその姿を見て庄二郎は天狗かと思った。

 また楓は馬の背で槍を回転させては振り下ろす庄二郎の姿を天女の舞のように美しいと思った。

「庄二郎様ではないですか」

 楓は近づいて頭巾ずきんを取った。

「楓殿!噂の天狗様が現れたかと思いましたよ」

 庄二郎は馬から飛び降りた。互いに額の汗を拭いながら笑った。

「楓殿はそので立ちで何処に行っていたのですか」

 興味深げに庄二郎が問うと、楓はこんにゃくを運ぶことになった経緯を話した。

「こんにゃくとはいいですね。ところで何故頭巾を被っているのですか」

 楓は女が走ることは恥ずかしいことと思ってきた。武家でははしたないとされているからだ。

「おなごは走ってはならぬと言われて育ったものですから男の振りをしたのです」

「男も女もありません、あの走りっぷりを見たら誰だって感動しますよ。わたしもれしました」

 楓は己の女らしくない部分を恥と思って隠して生きてきた。しかし庄二郎と会ってからそのからが少しづつ剥がれ落ちるのを感じていた。

(この方といればわたくしは本当の自分でいられるのかもしれない)

「庄二郎様はここで槍の鍛錬ですか」

「はい、国元では日課としておりました。我が家に伝わる騎馬槍術の基本形です」

 楓は美しく流れるような動きを思い出していた。

「わたくしは庄二郎様の槍捌やりさばきが武術というより舞のように見事で見とれてしまいました」

 二人の会話は尽きなかった。腰を下ろした草地の上に朝日が高く昇ってきた。

「いけない、こんにゃくを届けないと」

 突然楓は立ち上がると、

「先にお帰りください。煮売り屋さんに寄ってから戻ります」

 そう告げてからまた疾風のように走り去った。


 昼餉の後、離れに戻った庄二郎が大事そうに包みを抱えて楓の部屋を訪ねた。

「楓殿、昨夜お父上から預かって参りました」

 楓は受け取った包みを開いて出て来た着物を黙って見つめている。

 手に取ることも触れることも躊躇ちゅうちょしている楓に庄二郎は静かに口を開いた。

「会合の後わたしは台所でおたみさんと話をしました。それでわかったことがあります。楓殿はお父上から厄介払やっかいばらいされてこの村に来たと思っておられますがそれは違います。確かにお母上が亡くなって気まずい関係になったのは事実ですが、母を亡くし友もいない武家の町暮らしを不憫ふびんに思ってのことからでした」

 楓は驚きの目で顔を上げると庄二郎を見つめた。

 庄二郎は頷いて返すと話を続けた。

「お父上は楓殿が自由に楽しく暮らせる方法はないかと奉公人ほうこうにんたちを集めて相談されました。武士の体面を捨てて奉公人に頭を下げるお父上におたみさんたちはとても驚いたそうです」

 楓の目には涙が溢れ、「父上……」と絞り出すように呟いた。

「高沢村が良いと提案したのは定次さんです。庄屋殿は坂野家に恩があるらしく喜んでお受けしたそうですよ。お父上はそれから惣兵衛殿と頻繁ひんぱんに書状のやり取りをして楓殿のことを気にかけておられたようです」

 楓は泣きながら、「何だか父上にとても会いたくなりました」と素直な気持ちを打ち明けた。

「そうです、それでいいのです。それから着物のことですが同じ柄の反物がもう一反届いた時、お父上は深い後悔の念にかられてその日は部屋から出てこなかったそうです。これはおたみさんからの伝言ですが、この着物を着てお父上をお訪ねください。そしてお父上を許してあげてくださいとのことです」

 それだけ言うと庄二郎は静かに部屋を出た。

 障子の向こうでは子供のように泣きじゃくる様子がいつまでも続いていた。


 あくる日の午後、楓は着飾って庄二郎の離れに顔を出した。

 庄二郎は一目見るなりあまりの美しさに言葉が出なかった。

「これより実家に行って参ります。このような気持ちになれたのは庄二郎様のおかげです」

「それは良かった。お父上はきっと喜ばれますよ」

 庄二郎はそう言って送り出した。

 楓は町に入っても人目を避けたり気にすることもせずに堂々と歩いた。

 楓の心にあるのは見送られた際の庄二郎の言葉だった。

「人の心は思ったより単純です。背が高いぐらいでは人は動じません。皆がもし振り返るようであれば、それは楓殿の美しさに心を奪われたからですよ」

 庄二郎の言う通りであった。楓はいつの間にか微笑んでいる自分に気付いた。

 実家に着くと奉公人たちに囲まれて大騒ぎとなった。

「今日は久しぶりに父上に会いに来ました。再び戻る気になれたのもあなたたちのおかげよ」

 楓が明るく笑うと、

「お召し物がよくお似合いで、旦那様はどんなにお喜びになるか」

 おたみは前掛けで顔をおおった。

「定次、高沢村は良い所ですね。毎日が幸せでしたよ」

 定次も涙を袖で拭った。


 坂野兵庫はいつものように帰宅すると着替えをし文机に向かった。

「お茶をお持ちしました」と言う声に「うむ」と答えて障子の方を見ると、そこには楓が座っていた。

 兵庫の顔が笑顔に変わった。

「帰っておったのか」

「はい、父上にいただいた着物を見ていただきたくて参りました」

 楓は丁寧に頭を下げた。

「よう似合っておる」

 それだけ言うと気まずそうに茶に手を伸ばした。

「庄二郎様から父上のことをお聴きしました。わたくしは父上が娘より武家の体面を気にされるお方と誤解しておりました。お許しくださいませ」

 楓は素直に詫びた。

「いや詫びることはない、体面を気にしていたのは事実だ。娘を想う心も本心だったがそれを伝える萩乃はぎのが亡くなってしまったからな、辛い思いをさせてしまった父の方こそ許しをわねばならぬ」

 兵庫も正直な気持ちを打ち明けた。

「庄二郎様に感謝すべきですね。わたくしは母上があのお方に逢わせてくれたような気がします」

「萩乃がか?そうかもしれぬな」

 襖を隔てた仏間には母の位牌があった。二人とも隣室に目をやって萩乃をしのんだ。

「それにしても庄二郎は思わぬ災難を抱え込んだものだ」

 兵庫が何気なく口にすると、

「それはどういうことですか父上」

 楓は気になって訊いた。

「あの者は此処へ役目で来た訳ではない、旅がしたくて目付一行について来ただけだったのだ。詳しいことは言えぬが藩内に不正があり、その調査をするために目付は来たのだ。だが旅の途中で刺客が一行を襲い、護衛の武士は討たれ目付も重傷を負った。その目付を助け、亡くなった武士たちの弔いを一人でなすと目付の代わりに役目を任されてやって来たのだ」

 楓はあまりの衝撃に胸が痛くなった。庄二郎がそのような辛い目に遭いながら、他人には微塵みじんも感じさせない強い心を持っていたからだ。

「庄二郎はひたすら目付を頼りに待っていた我らに活を入れおった。下々の者に訊けばおのずと上のことがわかるとな。あやつは人の道理をわかっておる」

「庄二郎様らしいですわ」

 楓は嬉しそうに笑った。

 兵庫は真顔になって、

「わしの父は領民のために改革をなしたと自負じふしてせがれのわしにも厳しく教えた。わしは今になってそれが武士の独りよがりだったことに気付いた。こうしてやるではなく共にやるということを庄二郎から学んだのだ。あの者は此度の旅で旅籠に泊まる度に使用人と共に働いたというのだ。庄二郎の原点はそこから来ているのだと思う。あやつの目は顔ではなく足の裏についているのではないか?」

 最後は冗談まで口から出た。

「まあ、父上ったら」

 二人とも大笑いした。

「それにしても問題だらけというに我ら親子のことまで顔を出すとは人が良いというか……」

 すると楓が、

「それだけではありませんよ。旅の途中で知り合った病の父親から幼子を預かって、高沢村に住むその子の伯父に届けたのですから」

 兵庫はあきれて目を白黒させた。

「楓、戻ってくるか」

「はい、父上」

 楓は村の家を一軒づつ廻って別れの挨拶を済ませると二日後に実家に戻った。

 だが毎朝の内山峡までの散歩と十日ごとのこんにゃく運びはやめなかった。 

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