第6話  楓との出逢い

 庄二郎がいつものように旅籠の手伝いをしてから湯に入って部屋に戻ると、夜更けだというのに吉兵衛が一人酒を飲んで待っていた。

「まだ起きておられましたか」

 庄二郎が小声で言うと、

「昼間あんなことがあったものですから、あのまま娘が戻らなかったらと思うだけで気が高ぶってしまいましてね。寝酒をもらったところです。堺様も一杯いかがですか」

 向かいに座った庄二郎にさかずきを差し出した。

 吉兵衛は手渡した杯に酒を注ぐと、

「それにしても堺様が天の助けでございました。あらためて御礼申し上げます」

 と頭を下げた。その時、庄二郎の頭の中に峠は違えど助けられなかった馬廻り衆一人一人の顔が浮かんだ。

 その苦悩を吉兵衛は見逃さなかった。

「堺様には何かお辛いことがあったようですね。この旅を藩のお役目とおっしゃっておられましたが、わたくしを信じてお話しくださいませ。お役に立てることがあるやもしれません」

「わたしは奥殿藩馬廻り役組頭堺勝太郎の弟で無役の部屋住みです。始まりは旅を経験させてもらえるというだけの頭数にも入らぬ存在でした」

 庄二郎はそう切り出すと、役目の内容、和田峠での刺客による襲撃、傷ついた目付の命令で陣屋に行くことなど経緯をすべて話した。そして話し終わると、

「陣屋でお目付に代わって帳簿を調べたり、目上の方々を尋問したり、そのようなことがわたしにできるでしょうか」

 と不安な気持ちを打ち明けた。

 吉兵衛は落ち着いた顔で庄二郎を見つめると、

「堺様が先ほど楽しそうに働くのを見ましたが、あれはどうしてですか」

 と問い返した。

「あれは旅日記のようなものです。わたしは幼い頃からじっと文机に向かうのが苦手で、その代わり己の目で見て訊いて体験することで色々なことを学んできました。次男だからということもあるかと思いますが、父母からはお前はそれでよいと言われて育ったのです。ですから旅籠でも共に働き仲良くなることで旅の思い出を心に焼き付けております」

 吉兵衛はみるみる笑顔になると言った。

「ご両親と同じようにわたくしも堺様はそれでよいと思います。夕食の折、米の流通についてお訊きになられましたな。知らぬものを知らぬと素直に言うのは容易たやすいことではございません。ましてやお武家様は体面を気にされます。お目付様が堺様を見込んだのはその自然体を貫くところかと思いますよ」

 そう言われても庄二郎には役目を果たす方法には至らなかった。

「それではわたくしの旅の話をいたします」

 庄二郎に助け船を出すべく吉兵衛は話し始めた。

「岩村田藩江戸屋敷から来年の米を担保に借金の申し出がありました。初めての取引なので温泉の楽しみも兼ねてお国を見に来た次第です。ですが商人がお大名の調査をすることなど到底できやしません。それよりも簡単な方法は領民の暮らしを見ることです。米の出来高を知りたければ各村のお百姓や庄屋さんに尋ねればよいのです。帳簿は改ざんできても下々の口に戸は立てられませんからな」

 庄二郎は心の霧が晴れるような気持になった。

「かたじけのうございます。己のなすべき道が切り開かれた思いです」

「ところでお連れのおみっちゃんはどうされたのですか。武家の子供には見えませんが」

 吉兵衛は思い出したように言った。

 庄二郎はおみつについても経緯を説明した。

「何というお人だ、ご自身はそれどころではないというのに」

 吉兵衛はあきれ顔で言ったが益々庄二郎が好きになった。



 望月から岩村田までは三里半ほどである。

 道中おみつはおくみに抱えられるようにして馬に揺られた。おみつはすっかりおくみに懐いて、昨夜は湯上りに髪を結ってもらって上機嫌であった。

「ねえちゃんはずっとおらと一緒に行くだか?」

 振り向くおみつをおくみは後ろから抱きしめた。

「ううん、岩村田まで。でもきっとまた会えるわよ」

「おらもねえちゃんと行きてえだが、おとうやんを待たなけりゃなんねえから我慢するだ」

 その言葉を聴いて庄二郎の心にまたしても別の悩みが生じた。


 庄二郎とおみつは岩村田で鯉料理を馳走になり、その後吉兵衛たちと別れると中山道から佐久甲州街道へと進路を変えた。

 おみつは別れ際におくみが差してくれたかんざしに時折触れては嬉しそうな顔をした。

 田野口の領内に入ると千曲川ちくまがわの河原に下りておみつの汚れた顔を川に浸した手拭いで拭いてやった。

 ふと見ると川に膝まで浸かり顔を洗っている若いおなごがいる。

 こちらに気づくと慌てて水から上がり雪袴ゆきばかまの裾をおろした。

「見苦しいところをお見せしました」

 顔と首筋を拭いながら近づく娘は美しい顔立ちをしていた。

「こちらこそ邪魔をして申し訳ない」

 庄二郎が詫びると娘は恥じらいながらも笑顔を見せた。

「旅の途中でございますか」

「はい、お役目で田野口陣屋へ参ります。しかしその前にこの子を高沢村まで送らねばなりません」

 庄二郎がそう言うと驚いたようにおみつを見て、自分を見上げるおみつの頭を撫でた。

「それでしたらわたくしがご案内いたします。わたくしは高沢村の庄屋屋敷しょうややしきに暮らす楓と申します」

「それはかたじけない、誰かに尋ねようと思っていたところでした。わたしは国元から参りました堺庄二郎と申します」

 おみつを乗せた馬を引きながら、庄二郎は並んで歩く楓の背が高いことに初めて気付いた。

 庄二郎自身六尺にほど近い長身であったが、これほど楽に目を合わせられる相手は初めてであった。

「楓殿は武家のご息女ではございませぬか」

 唐突に庄二郎が訊いた。

「はい、さようでございます。武家の暮らしが性に合わず一年前から高木惣兵衛様のお世話になり百姓仕事に明け暮れております」

 楓のはつらつとした顔を見て、身分に拘らない自由な生き方に庄二郎は共感を覚えた。

「ところでおみっちゃんはどちらのお子ですか」

 楓の問いに庄二郎はおみつや吾助との出会いと経緯を話した。

「堺様はお優しい方ですね」

 微笑む楓に、

「庄二郎とお呼びください」

 と照れ隠しに首の後ろを掻いた。

「わかりました、庄二郎様」

 わざとらしく名を呼ぶとくすっと笑った。


 村に着くと楓は、

「まずは惣兵衛様にお会いくださいませ」

 そう言って庄屋の門をくぐった。

 庄二郎は出て来た作男さくおとこに馬を預けて母屋に向かった。

 楓は庭に残りおみつの面倒を見ている。

 座敷に上がった庄二郎が黒光りする立派なはりを見上げていると、小柄な老人が入ってきて向かいに座した。

「遠いところお疲れ様でした。此度は弥作の姪をお連れいただき、ご苦労をおかけいたしました」

 高木惣兵衛は人のよさそうな笑顔を向けた。

「苦労どころか楽しい旅でございました」

「して吾助はどうしておりますかな」

 惣兵衛が問うと庄二郎は真顔になった。

「吾助さんは重い病にかかっており余命は三月足らずとのことです。わたしは一緒に行こうと誘ったのですが、おみつを頼むだけでも気が引けるのに死にゆく自分の面倒まで見させる訳にはいかないとかたくなに動こうとはしませんでした」

 惣兵衛は腕を組み目をつぶった。

「兄の弥作は情のある心根の優しい男です。吾助は弥作が受け入れることをわかっているからこそ甘えられなかったのでしょう」

 庄二郎もその言葉に頷いた。

「確かに吾助さんはすでに覚悟を決めているようでした。されどわたしは父親が後から来ると信じてやまない娘に嘘はつきたくないのです。今では承諾したことを後悔しております」

 庄二郎が強く言うと惣兵衛も困った顔をして、

「吾助の最後の頼みを無視するわけにも……」

 とつぶやいた。

 その時、襖が静かに開いて楓が入ってきた。

「お茶をお持ちしたのですが、話を聴いてしまいました。わたくしは弥作さんにすべてを話すべきだと思います」

 二人は同時に楓に目をやると黙ったまま次の言葉を待った。

「いちばん大切なことは残されたおみっちゃんの気持ちです。このままではひたすら父親を待ち続けることになるでしょう。そして父親が亡くなったと知らされても実感のないまま父に捨てられたと恨むかもしれません。それよりも約束通り父が来てその再会を喜び、やがて父を看取ることになっても悲しみを受け入れ乗り越えることで前を向いて新たな人生を歩めるのではないでしょうか」

 そこまで言うと楓は大粒の涙を流した。昨年の春に母を亡くした楓だからこそ言える言葉であった。

「弥作にすべてを話しましょう。男衆を集め、荷車に布団を積んで明日出立させます」

 惣兵衛は穏やかな表情で言うと、作男に弥作を呼びに行かせた。

 弥作は一家でやって来て惣兵衛の話をまぶたぬぐいながら聴いていた。

 弥作には長男弥吉十三歳、次男作治十一歳、長女おせん九歳の子供たちがいた。そして女房のおとよは気立ての良い女であった。

 夕暮れの畦道あぜみちをおみつは突然できた兄や姉に手を引かれ新しい住まいへと帰って行った。

 その姿を見送る楓に後ろから

「かたじけない、楓殿」

 と庄二郎はそっと声をかけた。

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