第4話  峠の天狗様

「陣内様、戻られましたか」

 信濃屋嘉兵衛は店の奥座敷にいた。

「すべて片付いた。馬廻り組は五人ともその場で、目付の大野宗一郎は旅籠に運び込まれたが毒により絶命した。墓も確認したゆえ間違いないだろう」

 陣内剛三郎は満足そうに言った。

「問題などあろう筈がございません。あの忍びたちは仕損じたことがないのです」

 嘉兵衛は自信をもって答えた。

「だが国元の間者からは六人と聞いておったが、従者らしき者が一人ついておった」

 嘉兵衛は驚いて顔を上げた。

「どうやら目付の家の下僕のようで、旅籠の者との会話を聴く限りは武士の口調ではなかったが」

 と更に付け加えた。

「それで始末されたのですか」

 嘉兵衛が問うと、

「それが、常に人がいて機会が得られなかったのだ。だが山賊に襲われたと思い込んでおり、目付の遺品を持って中山道を戻るところも確認した。ここは山賊の襲撃にあったと国元で報告をさせるのが好都合かと敢えて見逃したのだ」

 嘉兵衛は首をかしげて、

「まあよろしいでしょう。あなた様の策が失敗した時、腹を切るのはわたくしではございませんから」

 と唇の端をゆがめた。

 陣内が座敷を出て行くまで嘉兵衛の不敵な笑みは消えなかった。

「まったく、町人の分際で嫌味なやつだ」

 陣内は嘉兵衛の鋭い目を思い出し、ただ者ではないと感じていた。



 坂野兵庫は苛立っていた。

「もう着いてもよさそうだが道中で何かがあったのやもしれぬ」

 坂野は誰ともなしに言った。

「坂野様、下手に動くと感づかれます。いましばらく待ちましょう」

 いさめたのは勘定方かんじょうがた与力の臼田助三郎うすだすけさぶろうだ。

 坂野の屋敷には田村清之介に牛耳られた藩の行く末を憂える者たちが集まっていた。

 臼田の他には郡奉行こおりぶぎょう配下の青沼佐之助あおぬまさのすけ普請方ふしんがた同心の桃井一平太ももいいっぺいた、町奉行所同心の曽原儀介そばらぎすけ、そしてお納戸役配下の海野小助うんのこすけがいたが、臼田以外は皆下級武士であった。しかし私欲への誘いに乗らない忠義者たちを坂野は大切に思っていた。


 坂野兵庫の父は若い頃より時の老中松平定信まつだいらさだのぶの信奉者で、田野口でもその改革を実施した。

 農村の繁栄と救済に力を注ぎ、収穫に応じた年貢の取り立てを行なうことで農家の負担を減らした。すると貧しさから離散していた農民が戻ることで農村人口が増え、収穫量が増すことで飢饉に備える備蓄米も増えていった。

 そして自らも質素倹約を信条として、嫡男の兵庫にも厳しく伝えたのであった。

 厳格な父親の背中を見て育った兵庫もやがて父となったが男子には恵まれなかった。

 娘は『かえで』と名付けられた。楓は活発な子で走るのが何よりも好きだった。家の中でもつい走ってしまう。

「おなごは走るものではない」と父は走ることを禁じた。しかし父の言いつけを守ると今度は熱が出た。

 兵庫は何か発散させるものはないかと考えた末に小太刀こだちを習わせることにした。

 楓は毎日欠かさず元気に道場に通い、やがて年上の男子も敵わぬほど強くなった。

 楓が他の子供と違うのは小太刀の腕前だけではなかった。背丈が際立って大きいことであった。

 十五歳になると五尺七寸もの背丈になり、仲の良かった友もいつしか避けるようになった。

 自分の肩ほどしかない友は、並んで歩いて人目を引くのが嫌だったからである。

「母上、背が高いことはそんなにいけないことですか」

 楓が母に泣きつくと、

「いけないことなどありません。元気に育ってくれて母はとても嬉しいのです。顔立ちも美しくて、身体の弱いわたくしにとって神様からの授かりものだと思っていますよ」

 と母はいつも慰めてくれた。

 たった一人の味方だった母も楓が十七歳の春先に帰らぬ人となった。


 母の『萩乃はぎの』が亡くなってから楓は父との距離が遠くなったと感じていた。

 始まりは半年ほど経って出入りの呉服屋が来た時のことである。

「旦那様、呉服屋の主が着物の生地を持って参りました。楓様は背丈が大きいので一反では足りません。奥方様はいつも二反お買い求めになりましたが如何いたしましょう」

 女中頭のおたみが訊くと、

「わしは常々質素倹約を口にしている身だ。わしから贅沢をしては家中に示しがつかぬ」

 と兵庫は言った。

「それでは楓様がお可哀そうです」

 おたみは何とか取り成そうとした。

「ならば一反だけ買って、半年後に同じ柄をもう一反持ってくるように伝えなさい」

 おたみは渋々呉服屋に伝えに戻った。

 そのやり取りを隣室から聴いていた楓は、父上は娘より体面を気にするお人なのだと決めつけた。

 それからは父との会話が減り、また兵庫も楓をどう扱ってよいかわからずにいた。

 困り果てた兵庫は奉公人たちを集めて相談をした。

「わしよりも娘と接してきたそなたたちの方が楓の気持ちがわかるであろう。何か良い知恵はないかのう」

 すると下男の定次さだじが、

「わたしの出自しゅつじの高沢村はどうでしょうか。庄屋の高木惣兵衛たかぎそうべえさんは先代のご中老様にお世話になっていますし、きっと楓様を大切にお預かりしてくれると思います」

 と提案した。

「それは良い考えだとわたくしも思います。楓様は身体を動かすのがお好きですから百姓仕事も楽しんでくださるはずでございます」

 おたみも絶賛した。

「しかし武家の娘が百姓仕事とはのう。益々粗野な性格にならぬとよいが」

 兵庫が苦い顔で心配すると、その場にいる者が皆一斉に首を横に振った。

「旦那様、いくら小太刀の達人とはいえ楓様は決して粗野ではございません。武家の娘としてのたしなみは亡くなった奥方様がしっかりとしつけられてございます。どうぞ奥方様をお信じくださいませ」

 おたみがそう言うと一同がしんみりと下を向き鼻をすすった。

「そうか萩乃がのう……わかったそうしよう。わしも楓がいない間にそなたたちから学ぶとするか」

 兵庫は奉公人の顔を見て笑顔で頷いた。

「旦那様の楓様を想うお気持ちもいつか伝わりますよ」

 おたみも安堵した顔で答えた。



 楓が高沢村に来て一年が過ぎた。

 村では誰も楓を特別な目で見ない。背丈についても「楓さんは高い蚕棚かいこだなにも踏台なしでくわの葉をくれられていいだね」と女衆がうらやむほどだ。

 友だちもたくさんできて田植えや稲刈りは村の娘たちと唄を歌って作業をし、昼は談笑しながら握り飯を食べた。

 山に入っては人の倍もの焚き木を背負い、米俵を軽々と担ぐ姿は男たちを驚かせた。

 楓は老人の家には進んで手伝いに行き、子供らには手習いを指導して面倒もよく見た。

 村の人気者になった楓は毎日が幸せだった。

 そして楓にはもう一つの楽しみがあった。それは走ることだ。

 十日に一度、楓は下仁田しもにた街道を通って内山峠を越える。初めは走ることが目的であった。

 ある日の帰り道、峠のふもとで荷を背負う初老の行商人と出会った。男は重い荷を下ろして休んでいるところだった。

 男は楓を見て腰を抜かさんばかりに驚き、

「これはたまげた、おら天狗てんぐ様にあったかと思っただよ」

 それもそのはず、楓の出で立ちはまさに天狗であった。たっつけばかまに毛皮の袖なし、頭にはすっぽりと頭巾ずきんを被り目しか出ていない。鼻の部分は鹿皮作りで息がしやすいようにからすくちばしのような形をしていた。腰帯には小太刀を差し、足元は刺し子の足袋に草鞋を履いている。

 楓が頭巾を取ると、

「あれえ、背が高いから男だと思ったらおなごかえ」

 と男は更に驚いた。

「驚かしたお詫びに荷物をお持ちします。何の行商ですか」

 楓は興味本位に尋ねた。

「行商ではないだ。おらは下仁田でこんにゃくを作っているだが、野沢宿の煮売にうり屋さんが気に入ってくれてたくさん買ってくれるだよ」

「煮売り屋さんですか、それは良かったですね。でもこの荷を背負って峠を越えるのは難儀でございましょう」

 楓は男の荷を代わりに背負いながら言った。

「近頃はきつくなって、そろそろ潮時かなとおらも考えていただ」

 それを聴いた楓は

「十日ごとでよろしければわたくしが運びましょうか」

 と申し出た。男は喜んだが人を雇う余裕などなかった。

「貧しくて給金を払うことができねえだ。代わりにこんにゃくでもええだか」

 と恥ずかしそうに訊いた。

「いただけるのですか、嬉しい」

 楓は目を輝かせて喜んだ。

「おらは吉造よしぞうというだ、娘さんは?」

「わたくしは楓と申します」


 高沢村から下仁田の吉造宅までは六里の道のりである。楓は朝の暗いうちに立つと下仁田街道を走り抜け、峠を下ってから吉造の家で朝餉あさげを食べて一息つくと、今度はこんにゃくの入った竹行李たけごうりを背負って峠を駆け上る。帰りは遠回りして野沢宿に寄るので往復で十三里を走ることになる。

 健脚の旅人でも一日かかる道程を楓は昼前には帰ってくる。庄屋の家では昼餉にこんにゃくの味噌煮が出せるほどであった。

 内山峠は急な坂が続くだけではなくへびのように曲がりくねっている。その坂を走って下る時、楓は曲がり角にある木立の幹や岩を蹴って宙に舞った。何もない所では持っている六尺棒を地面に突き立て、それを支点に飛び上がった。そうやって勢いを殺さず道からも外れずに走ることができた。

 いつしか『内山峠には天狗様がいる』と噂されるようになった。

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