第2話  無念の死

 松平乗資のりもとの狂気は田野口に来てから始まった。

 国元にいる頃は藩主乗羨のりよしの従弟として、藩士の手本となるべく心掛けていた。

 その心のたがを外させたのは小姓上がりの側用人、田村清之介たむらせいのすけである。

 田村は懇意にしている米問屋の信濃屋嘉兵衛しなのやかへえの養女『志麻しま』を乗資にあてがい、乗資は夜な夜な忍びで信濃屋に通うようになった。

 乗資は次第に妖艶な志麻に溺れて行き、側室に迎えたいとまで言うようになった。

 政に興味を失くした乗資は陣屋の運営すべてを田村に任せたため、家臣は政務において田村を介するのみで直接乗資の判断を仰ぐことが出来なくなった。

 田村は地領の多い田野口こそが藩であるかのように振る舞い、奥殿にある本藩の意向を体よく無視した。

 家臣の中には私腹を肥やそうとするものは田村に付き、忠臣の藩士は冷遇されていったのである。

 その忠臣の一人、中老坂野兵庫さかのひょうごは密かに不正の証拠を探していたが田村の権力内に踏み込むことができなかった。

 坂野は国元から目付が来ると聞き、その到着を心待ちにしていた。


「清之介、殿が目付をつかわしたと聞いたが大事ないだろうな」

 乗資が田村に言った。

「心配ござりませぬ、何か誤解があったようにございます。わたくしが対処いたしますゆえご安心くださりませ」

 その夜、田村の配下である陣内剛三郎じんないごうざぶろうは信濃屋を訪ねた。

「嘉兵衛、お前に任せて大丈夫だろうな。一応わしも同行して監視するがな」

「お任せくださいませ、皆手練てだれでございます。和田峠は難所でございますゆえ、一人たりとも超えるのは無理かと存じます」

 嘉兵衛が言うと陣内は細い目を更に細めてほくそ笑んだ。



 中山道下諏訪しもすわ宿は最大難所である和田峠に向かう者そして越えて来た者で大層な賑わいであった。

 平坦な道のりでは一日十里歩けても、峠越えを要する下諏訪宿と和田宿間の七里はそれだけで一日を費やした。そこで温泉のある下諏訪は旅の英気を養う重要な宿場となっていた。

 奥殿藩目付一行も後三日で田野口領に入るということで、諏訪大社でこたびの役目の成功を祈願してから宿を取った。

 ここでも庄二郎はせわしく働いた。旅籠の中を駆け回るのが楽しくていつしか日課になっていた。

 旅人が寝静まった頃、一人で温泉に浸かっていると宿の主人が入ってきた。

「おや、お武家様。これは失礼いたしました」

 庄二郎は横に移動しながら、

「どうぞお入りくだされ。こちらこそこんな夜更けにすみません」

 と言って立ち去ろうとした主人を引き留めた。

 主人は湯を揺らさぬよう時間をかけて肩まで沈むと人のよさそうな笑顔を向けた。

「わたくしは当旅籠の主、笹屋藤右衛門《ささやとうえもんと申します。本日はお手伝いいただきまして大変助かりました。お武家様は旅籠の仕事を何故ご存知なのでございますか」 

「知っていた訳ではありません。この旅を通して覚えたのです。わたしは初めての旅でより多くのことを経験したいと思っただけです。おかげで立ち寄った旅籠の人たちとは皆親しくなれました」

 庄二郎も明るく笑顔を返して答えた。

 藤右衛門は武士の体面よりも人としての関りを大切にする庄二郎の心根に深く感銘を受けた。

「お国はどちらでございますか」

 藤右衛門の問いに、

「三河国の奥殿藩という小藩です。佐久に飛地の領地があり、此度こたびはそこの田野口陣屋に向かう旅です」

 と庄二郎は素直に答えた。

「それではお帰りの際にも是非こちらにお泊りくださいませ。お武家様の無事なお戻りを心からお待ち申し上げます」

 藤右衛門の丁寧な言葉に照れて、

「藤右衛門殿、お武家様はやめてください。私は堺庄二郎という無役の次男坊です」

 そう言って庄二郎は立ち上がった。

「お先に」と湯殿ゆどのから出て行く庄二郎は、

「お休みなさいませ堺様」

 と背後に藤右衛門の親しみを込めた声を聞いた。


 翌朝一行が出立する時、女中や下働きの者まで旅籠の前に出てきて総出で見送った。

 後ろを振り向き手を振る庄二郎を見て、

「そなたは人気者だな。不思議な男よ」

 大野は緩む口元でつぶやいた。


 和田峠の長い登坂に疲れ水も飲み干した頃、庄二郎は赤松の大木の脇に1本の獣道けものみちを見つけた。

「ここです。この道の先に美味うまい湧水があるそうです」

 庄二郎は出立前に藤右衛門から教わっていた。

「水を汲んで来ます。すぐに追いつきますので先へお進みください」

 そう言って一行を先に行かせると獣道に入って行った。

 庄二郎と別れて一行が歩いていると、突然木立の隙間から矢が飛んできた。

 瞬間的に馬廻り衆は隙間なく目付の馬の周りに付いて矢のたてとなった。

 すると道の両側の熊笹くまざさの中に潜んでいた族が立ち上がり、一気に攻め下りて来る。

「ここは我らが!お目付様はお逃げください」

 既に矢傷を負った馬廻り衆は斬り合いの中、目付をもと来た道に逃がした。

 馬廻り衆は十二人の族と激しく戦いながら次々と倒れていった。

 庄二郎が数本の竹筒を下げて街道に戻った時、目付が馬上で倒れ込みながら駆け下りてくるのが目に入った。

「大野様、いったい何が!」

 叫びながら走り寄ると大野は二の腕に矢を受けていた。

 追手がいないのを確認すると庄二郎は大野を馬から降ろして傷を見た。

「毒だ」

 矢の臭いを嗅いでそう判断すると、手拭てぬぐいを裂いて肩に近いところをきつく縛った。そして一気に矢を引き抜いた。

「うっうー」

気を失いかけていた大野は痛みで目を覚ました。

「大野様しっかりなさいませ。毒を出しますからもう少し我慢してください」

 そう言うと刀の鞘から小柄こづかを取り出して傷口に深く差した。

 大野は歯を食いしばるとそのまま気を失った。

 矢は骨には当たらず筋肉で止まっていたため、庄二郎は小柄を腕の反対側まで貫通させてから水をかけ血毒を両方の傷口から絞り出した。

 庄二郎は大野を一旦街道脇に運び、樹木の根を枕にして寝かせると馬に飛び乗った。

 坂を駆け上がり襲撃場所に行くと、敵の姿は消え馬廻り衆五人が地面に倒れたまま既に絶命していた。

 嘔吐おうとした後もあり、矢の毒が戦うほどに早く回ったのだと理解した。かくも卑怯ひきょうな手になすすべもなく討たれた馬廻り衆の無念が心に伝わり、庄二郎は激しい憤りに身体が震えた。

「あとでお迎えに参ります」

 目を閉じて合掌すると庄二郎は亡骸なきがらを茂みに隠し、取って返して目付の元に戻って行った。


 下諏訪宿の笹屋では今宵の客を受け入れる支度をしていた。

 店先を掃いていた小僧の仙吉せんきちが馬に乗る庄二郎を見つけた。

「旦那さまぁー、堺様がお戻りですよ」

 その声に何事かと藤右衛門が表に出てみると、庄二郎が目付を背負ってこちらにやって来る。

 只ならぬ様子に男たちを呼んだ。

「藤右衛門殿、医者を呼んでいただけませんか」

 辿り着くなり庄二郎が言った。

「堺様、どうなされたのですか」

「和田峠で族に襲われました」

 それを聴くと藤右衛門の顔に緊張が走った。

「仙吉、急いで玄庵げんあん先生を呼んできなさい。お前たちはお武家様を奥の座敷に運びなさい、そっとだよ」

 男たちに指図すると、

「お連れの方たちは?」

 といた。

「残念ながら皆亡くなりました。わたしが藤右衛門殿に教わった湧水を汲みに一行と離れた僅かな時の出来事でした」

 庄二郎がそう話すと、

「申し訳ございません、わたくしが余計なことを申したばかりに……」

 藤右衛門は深々と頭を下げた。

「それは違います、わたしがその場にいたところで毒矢による不意打ちには勝てません。死人が増えるだけでした。それにしてもわたしたちは荷を持っておらぬし路銀も手付かずです。山賊の仕業に見せかけて一行にはなたれた刺客しかくだと思われます」

「それではお役人には何とお話すれば宜しいでしょうか」

 藤右衛門は困惑して訊いた。

「何もなかったことにしていただけませんか。このことがご公儀に知れるとお家騒動を疑われ、いくら譜代ふだい大名といえどもお取り潰しの口実になりかねません。また山賊に討たれたとしたら、武士の面目が立たず残された家族が哀れです。峠には目撃者もなく知っているのは笹屋の方々だけなのです」

 庄二郎は切に願った。

 藤右衛門はすっと肩の力を抜くといつもの温和な顔に戻った。しかしその目には腹を決めた強い光が宿っていた。

「承知いたしました。堺様が笹屋を頼ってくださったのは旅籠のほまれです。何なりとお申し付けくださいませ」

 その時、小僧の仙吉が薬箱を持って帰って来た。

「玄庵先生をお連れしました」

 仙吉の後ろから呼吸を荒くした玄庵が現れた。

 初老の医者には威厳があり過去にはいずれかの藩に仕えていた藩医のように思えた。

 早速奥の座敷に通されたが、寝かされた大野の意識はまだ戻っていない。

 玄庵はすぐに巻いてある手拭いを取り傷口を確かめた。

「これはまた派手に切り裂いたものだな」

「すみません、必死だったものですから。先生これを」

 と言って庄二郎は抜き取った矢を渡した。

 玄庵は受け取って矢の臭いを嗅いだ。

「これは!」

 と驚く玄庵に、

「やはり附子ぶしですか」

 庄二郎が先に問うた。玄庵は庄二郎の顔をまじまじと見つめた。

「附子とは何ですか」

 横から藤右衛門が口を出した。 

「とりかぶとの根じゃ」

 玄庵はぶっきらぼうに答えると庄二郎の方に向き直った。

「おぬしは何故この毒が附子だとわかったのじゃ」

 庄二郎は何故か責められている気になった。

「わたしの父は冬になると身体の節々が痛み、わたしはよく藩医の所に使いに行かされました。その時処方された薬が附子だったのです。藩医の先生から附子は猛毒だが水で溶いて薄めると鎮痛剤になると教わりました。そして附子を削るところを見ていましたが、刺激臭が強くて涙が出ました。此度の矢に子供の頃嗅いだ臭いが微かに残っていました」

 玄庵は優しい目をして、

「おぬしは生きた学問をしてきたようじゃな」

 と言った。

「先生、お命は助かりますか。毒は回っておりませんか」

 庄二郎がすがるように訊くと、

「わしがなすことはない、おぬしが全部やったからな。毒は残っているが親父様が飲んだ鎮痛剤になる程度じゃ。おぬしの荒療治の痛み止めにはなるじゃろうて」

 そう言って玄庵は大声で笑った。

「わたしは大切な方のお身体を余計に傷つけてしまったのでしょうか」

 庄二郎は泣きそうな顔になった。

「傷は時が経てば治る、だが命は失ったら二度と戻らぬ。おぬしはよくやった」

 玄庵は傷口の治療を終えると、立ち上がる際に庄二郎の肩をぽんぽんと軽く叩いた。

 座敷から出ようとする玄庵に庄二郎は声をかけた。

「玄庵先生、ありがとうございました。わたしは堺庄二郎と申します。このお方は奥殿藩松平家目付の大野宗一郎様です。此度の件、何卒ご内密にお願い申し上げます」

 庄二郎が畳に手をついて頭を下げると、玄庵はゆっくりと振り向いて目尻を下げて言った。

「医者はいつだって患者の味方じゃよ」

 そして玄庵はまた仙吉に薬箱を持たせて帰って行った。


 庄二郎にはまだやるべきことが残っていた。

「藤右衛門殿、此度のこと迷惑を掛け申し訳ありません。おかげでお目付様のお命が助かりました。されど山中にはまだ五人の亡骸が眠っております。わたしはあの方々をとむらわねばなりません。迷惑ついでにお力をお貸しくだされ」

 座敷に残っていた藤右衛門に頭を下げて頼んだ。

「堺様、頭を上げてください。わたくしもそのことが気になっておりました。荷馬車と男手を手配しますが、動くのは人気がなくなってからがよろしいでしょう」

 藤右衛門が話していると女中が膳を運んできた。膳には握り飯に煮しめと新香しんこが載っていた。。

昼餉ひるげもまだでございましょう。これを食べて少しお休みください」

 藤右衛門の心遣いに涙が溢れた。緊張が一気にほぐれたのだ。

「何から何までかたじけない。ご恩は一生忘れません」


 その夜、庄二郎は三人の男衆と仙吉とで荷馬車で和田峠に向かった。

 途中で仙吉は馬車を下りて別行動をとった。

 庄二郎は何げなく仙吉が持つ提灯の灯りが遠ざかっていくのを眺めていた。すると後方から何者かがつけてくるのに気付いた。

 暗闇に目を凝らし「一人か」とつぶやき、襲ってくる気配がないことを確かめると無視することに決めた。

 襲撃場所の茂みでは夜露よつゆに濡れた草が亡骸の道中着どうちゅうぎを湿らせていた。かたわらにひざまずくと庄二郎は「遅くなりました」と一礼し、男衆の手を借りて馬廻り衆等を戸板に乗せ丁寧に馬車まで運んだ。

 その様子を木立の間からじっと窺う目があった。

 遺体を回収した庄二郎たちは来た道を戻り、やがて仙吉と別れた場所に着いた。

 男衆の案内で分かれ道を行くと小さな山寺の山門から仙吉が出て来た。

「こちらは慈福寺じふくじというお寺で、先ほど円恵えんけい和尚様に旦那様からの手紙を届けました。和尚様は既に事情をご存知です」

 そう前置きして仙吉は庄二郎を本堂に連れて行った。

 本堂では高齢の円恵が座してきょうを読んでいた。庄二郎が後ろに正座すると向きを変えて座りなおした。

難儀なんぎであったのう。あとはわしに任せなさい。生臭坊主ではあるがしっかりと極楽に送ってやるからな」

 酒焼けの赤い鼻をしていたが、その目は慈悲に溢れていた。

「男衆には亡骸を本堂に運ぶよう言いなされ。今宵は通夜じゃ、わしが夜通し経を読んでつかわす」

 庄二郎は平伏した。

「かたじけのうございます。手数をお掛けしますがご住職にもうひとつお願いがございます」

 庄二郎は境内に潜む者に聞こえぬよう耳打ちをした。

 その夜は庄二郎も眠らなかった。遺体と会話をするように水を絞った布で身体を拭いて清め、遺品となるまげは丁寧いに和紙で包み、刀のつばには名を記した紙縒こよりを巻いた。

 その誠実な姿に円恵は庄二郎の人柄を見た。


 庄二郎が笹屋に戻ったのは早朝だった。

 諏訪湖から立ちのぼる朝靄あさもやが辺り一帯を真っ白に包み込む中、庄二郎は切り裂くような速さで歩くとそのまま笹屋に飛び込んだ。

 半時ほどして店先に出て来た庄二郎と藤右衛門は通りに聞こえる声で大袈裟おおげさに話した。

「それにしてもお目付様は残念でございした。庄二郎さんが和田峠に行っている間に亡くなってしまうなんて」

 藤右衛門は庄二郎と対等な身分であるかのような言葉使いをした。

「昨夜慈福寺で対面した時は驚きました。だんな様を運んでいただき、ありがとうございました。おかげで一緒にお弔いができます」

 庄二郎も下僕のような言い方をして、ついでに悲しげに鼻をすすって見せた。


 庄二郎が再び慈福寺に行くと、境内に続く墓地には既に六つの墓標が建てられ幾筋もの線香の煙が空に昇っていた。

「ここからは諏訪湖が一望できる。季節を通して眺めれば不遇な魂もいやされるじゃろう」

 円恵はそう言ってから経を唱えた。庄二郎も傍らで手を合わせ冥福めいふくを祈った。

 涙をこらえて立ち上がると眼下には諏訪湖が朝日を浴びて黄金色こがねいろに輝き、それを囲む山々は鮮やかな色彩でにぎわっていた。

 庄二郎は暫くその場に立ち尽くした。その目は景色を見ているようで見てはいなかった。

 意を決してきびすを返すと墓地を出て境内に戻った。そこに仙吉が走り込んできた。

「庄二郎さん!」と呼んだ後、近寄って小さな声で「お目付様がお目覚めになりました」と伝えた。

 庄二郎は再び笹屋に戻ることとなった。

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