画家の孫娘

そのへんにいるありさん

画家の孫娘

 かの巨匠が言った。日本人は古来より、羞恥心において優れている。だから我々は美を生み出すのだ、と。


 祖父は界隈では名の知れた画家で、しょっちゅう展覧会を開いた。愛らしい猫や、日傘を手にした貴婦人や、私にはさっぱり分からない抽象画なんかを、数え切れないくらいたくさん描いた。そしてその殆どが高額で売り買いされた。だけど、今は半分隠居して、アトリエのある大きな家に3人の弟子と共に住んでいる。大学に通っている私は、夏の間だけ、そこでアルバイトをすることになっていた。


 8時になると、瑛二さん、ビアンカさん、シンさんが起きてきて、私の作った朝食をみんなで食べる。家族みたいに一緒に食事をとるのは不思議な感じがするけれど、準備や後片付けが一度で済むから楽だ。


 普段、彼らは弟子入りにあたって、このアトリエに住み込み、家事雑事を分担してこなしている。けれどこの夏だけは、私がそれらをすべて肩代わりする。私はお給金をもらい、彼らは絵に専念するというわけだ。


 瑛二さんは親戚のおじさんみたいな感じだ。もう10年くらい祖父の元で絵を描いている。暗い色合いの絵が多くて、よく分からない。多分、40代か50代くらいだろう。


 ビアンカさんは美人だ。そして、美しい花の絵を描く。高校受験に合格した時、素敵な絵をくれた。若く見えるけど、何歳なんだろう。


 シンさんは弟子の中で一番若くて、一生懸命だ。ここにきて1年くらいだと聞いた。今回初めて会った。まだ自分のタッチを確立していなくて、いろんなものを描いて何でもやってみるようにと祖父に言われているらしい。


 シンさんの絵を見て、祖父は眉をしかめた。


「描き直しなさい」


 そう言って、部屋を出ていってしまった。シンさんは静かに肩を落とした。

 何がダメだったんだろう。すごく上手いのに。

 職人気質の頑固な人だと知ってはいたけれど、こんなにもよく分からないことで機嫌を悪くするなんて。ちょっとひどいと思った。問題のキャンバスには、豊かな金髪が美しい裸婦が描かれていた。


 次の日、朝早くからアトリエに向かうシンさんの姿を見かけた。歳が近いから、話しかけやすいのが助かる。


「おはようございます。早いですね」


 シンさんは昨夜、祖父の部屋に押しかけていた。行動力のある人だ。


「よく知らないものを知った気になって描くなと言われました。一理あるなと思いました」


 昨日の絵の話だ。シンさんは若いけど、あの裸婦はべつに変じゃなかった。むしろ綺麗だったのに。


「描きたいものが見つかるまでは、花瓶に生けた花でも描くことにします。ビアンカさんの真似だと、またお師匠に叱られるかもしれませんが」


 悲しそうに笑うから、私はつい「描くの見ててもいいですか」と言ってしまった。朝食の準備にもまだ早いから。


 行き場を失った裸婦のキャンバスを、シンさんは端に寄せようと持ち上げている。でもやっぱり、私の目には素晴らしい芸術作品に見えた。


「私はすごく素敵だと思います。作品として完成させないのは勿体ない」


「そう言ってもらえて、嬉しいです。でももうどうしようもありませんから」


 絵は写実的なものばかりでは無い。「よく知らないものを描くな」とは困ったことを言うものだ。まあ、祖父は恐らく、シンさんに「異性の裸を描くな」と言いたかったのだ。


 ──服を着せればいいのでは?


 そんな私の呟きが聞こえたらしい。シンさんはハッとしたような顔で私を見た。


「このままダメになるなら、やってみる価値はあるんじゃないでしょうか」


 キャンバスの婦人は柔らかくこちらに微笑んでいる。


「そうですね……。でも、私には彼女の服などとても描けません」


 シンさんは、女性の衣服や装飾品が描けないのだと語った。だから裸で描いたのだと。そうだったのか。


 時間が来るまで、どのような服が金髪の彼女に映えるのか、二人で語り合った。朝食は簡単に、目玉焼きとサラダ、ウィンナーと食パン。みんな揃ってから、いただきます。


 食後はいつもそれぞれで過ごす。食器の片付けもそこそこに、私はシンさんと合流した。

 シンさんがどうしてもできないと言うので、彼女に服を着せるのは、私がやることにした。腐っても画家の孫娘。多少の心得はあった。

 けれどもいざ筆を持ち、キャンバスに向き合うと、他人の作品に手を加えることに抵抗を感じた。だから、丁寧ビニールシートを貼って、その上に色を乗せた。髪の流れを損なわぬように、細い首元を隠さぬようにと細心の注意をはらって、服を着せたのだ。


 いつものように重々しい足取りで現れた父は、薄紅のドレスを着た婦人にじっと見入った。


「これはどういうことだ」


 低い声色で、シンさんを呼ぶ。


「お祖父さん!私がやったの!……だから、シンさんを叱らないで」


 視線がチラリと私の方に向けられる。


「剥ぎなさい」


 え。やっぱりダメだった……?


「次はもっと、深い緑色で描きなさい」


 そう言って、今来たばかりだというのに、祖父は帰って行った。


「シンさん、やりましたね!」


 すごく嬉しかった。シンさんも、とても嬉しそう。


「ありがとうございます!!もう一度彼女に、服を着せてくれますか?緑色のドレスを」


「もちろんです!彼女の美しさに見合うドレスを描いて見せます!」




『新緑の美女』。はじめにそう言ったのは誰だっただろう。シンさんの描いた金髪の、私が萌葱色の服を着せた女性は、今やそう呼ばれている。


 県立美術館で行われた祖父の展覧会の端っこに、ちょっと良い額縁に入れられて、なかなかいいじゃないの、と思ってはいたけれどこんな騒ぎになるなんて。


「せっかくだから、連名にしましょうよ」

 シンさんにそう言われた時に、断ればよかったかもしれない。新聞やニュースなんかで自分の名前が呼ばれる度に、そんなことを考えた。


 ──『新緑の美女』に注目集まる。美術の大家の秘蔵っ子、片田野シン・結坂息吹(いぶき)の作。県立美術館に月末まで展示。


 恥ずかしい。でも、少し嬉しいな。

 ビニールシートを使った、着脱できるドレス。批判されても仕方ないと思っていたのに、拍子抜けだ。




 祖父が所用で外出した朝、私はアトリエに向かった。瑛二さんはまだ寝ているし、ビアンカさんは部屋でクラシックを聞いているはずだ。祖父がいない日はいつもこんな感じで、毎日真面目にアトリエに通うのはシンさんくらいのもの。

 そこには予想通り、まだ白いキャンバス下描きをするシンさんの姿。


「ボッティチェッリですか?」


 私は遠慮がちに声をかけた。集中しているところ申し訳ないな、と思いながら。


 画家見習いは大抵、心の師とも言える存在を持つ。その師を信仰し、彼らの絵を指標に、私たちは進んでいくのだ。


「ええ、そうなんです」


 シンさんはすんなりと頷いた。ボッティチェッリは、美術に詳しくない人でも知っている画家だ。


「じゃあ、『知った気になって描くな』っていうのは……」


 シンさんは私を見て、苦笑いをした。


「ええ。お師匠は近道をしようとした私を怒ったんでしょうね。若いうちはいろんなことに挑戦しなさい、経験を積んで、そうして描きたいものを描けるようになると言われていたのに、それを破ったから」


 なるほど。あの時は理不尽だと思っていた祖父の考えが、今やっと分かった。ボッティチェッリだけを見て、ボッティチェッリを知ることはできない。本当に何かを知ろうとするなら、自分の世界を広げ、物事を細分化し、認知の精度を高めていかなければいけない。


「息吹さんの発想には驚きました」


「だって、最初はあれがヴィーナスだとは思わなかったんです。構図も、表情も違ったし……」


「息吹さん。ありがとうございます。今回のことは、あなたのおかげです」


 シンさんは、もう何度目かになるお礼の言葉を、私におくった。


「シンさんの実力があってこそですよ。まだ若いのにこんなにも上手いなんて、ものすごい努力してきたんですね」


「はは、息吹さんだって若いじゃないですか。……お師匠が出展の許可をくれたのは、きっとあなたの可能性に気付いたからです」


 偶然にも、シンさんに新たな視点を与えたことが評価されたのかな。そして、私がやる気になったのが嬉しいのかもしれない。ふと、幼い私に筆を握らせ、熱心に指導していた頃の祖父を思い出す。


「私、絵を描くの好きだったんです。今まですっかり忘れていたんですけど」


 祖父が帰宅したら、話してみよう。上手くいけば、私は四人目の弟子としてここで暮らしていける。祖父と瑛二さんとビアンカさんと──そして、シンさんと一緒に。家族みたいに。




 シンさんは、次も女性の絵を描いた。長い金髪で、やっぱり衣服を身に纏っていない女性の絵を。そして私に、笑うのだ。


「息吹さん、またあなたにお願いしてもいいですか」と。

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