残炎
白野椿己
残炎
君との日々は、逆上せるように熱い夏のようだった。
大学3年の夏、飲み会ばかりだったサークルも辞めて就活前の最後の自由な期間だ。
長い夏休みを利用して、県外のリゾートバイトに応募することにした。
旅行も兼ねて楽しめるバイトなんて最高だと思ったし、産まれも育ちも東京の自分は海辺の暮らしに憧れていた。
これを機にサーフィンやダイビングもできたらいいなと思いながら、心を躍らせてその地を踏みしめた。
そして君と出会い、夢のような時間を過ごした。
まるで、昨日のことのようだ。
バイトを始めて3日目、女性が真っ赤な夕日の海辺にひとりで佇んでいた。
「あの、どうかされましたか?」
気付けば女性に近づき、声をかけていた。
彼女はゆったりとこちらを振り向いて指をさした。
「夕焼け空が真っ赤で綺麗でしょ、それをウットリと見つめていたの」
「・・・確かに、めちゃくちゃ綺麗ですね」
赤く照らされた彼女の表情や仕草が妙に色っぽくて、夏の暑さのせいかクラクラする。
俺の口から出た言葉が何に向けられていたのか、自分でも分からなかった。
少しの間だけ夕日を眺めてから視線を彼女に向けると、彼女はまだ夕日を見つめていた。
「私ここにはよく来るんだけど、お兄さんは初めましてだね」
「あ、3日前からリゾートバイトでここに来ていて」
「そうなんだ、いつまで?」
「大学の夏休みが終わるまでです、9月の12日だったかな」
「大学生なんだぁ、初々しいね」
スッと目を細めて笑う姿が上品だ、口ぶりからこの人は社会人なんだろうと察した。
またね、と海辺を去る彼女の後姿をただぼんやりと見つめ続ける。
ポタポタと垂れる汗もそのままに、俺はその場に立ち尽くした。
2日後の日没前、ゴミ出しで海辺に出ると少し遠くに地平線を見つめる女性の影が見えた。
彼女に違いない。
ゴミをさっさと片付けると、バイト中だという事も忘れて彼女の元まで駆けた。
黒く艶々とした髪が風に煽られ、ふわりと舞う。
髪の隙間から見える彼女の横顔は、今まで見てきたどんなものよりも心をときめかせた。
ドクンドクンと大きく跳ねる心臓の音で周りの音は何も聞こえなくて、ただ地平線を見ているだけの彼女から目が離せなかった。
彼女が俺に気付くまで、ほんの数分。
でも、俺にとっては限りなく無限に近い時間だったように思う。
出会って1週間、俺達はほぼ毎日顔を合わせて交流を深めるようになった。
彼女はフリーランスで自由に働いているらしく、俺の休憩に合わせて一緒に昼食を食べてくれたり、バイト先に遊びに来てくれたりした。
特に待ち合わせるでもなく会い、時々一緒に夕暮れを眺め、互いに惹かれ合いピッタリと重なるのに時間はかからなかった。
彼女はいつも、長いサラサラの黒髪を額の真ん中で分けていて、目は細めの狐美人だ。
白い肌は柔らかく、体形は細身で華奢だった。
長年スポーツをやっていた自分の腕と比べると、半分しかない。
自分の第二間接までしかない小さな手も細い指も、俺と全然違って愛らしかった。
住み込みのリゾートバイトは休みの日であれば外泊が可能だったので、その時は彼女が暮らすアパートに泊まった。
溶け合うように触れあって、うだるような暑さに同じようにたくさん汗をかいて、それを互いに拭っては笑い合う。
呼吸のリズムさえ重なり合っていた。
窓から差し込む真っ赤な光が俺等を強く照らす、なんだかスポットライトのようだ。
交わす言葉がなくとも、考えていることはきっと同じだろう。
この島の夕日は美しい。
何の変哲もないアパートの一室さえも絶景に変えてしまうのだから。
あぁ、やっぱり横顔がとても愛おしい。
たまらず彼女の髪を撫でると、彼女の手が俺の手を掴んで指先にキスをした。
ふふふと笑う顔に吸い寄せられて、今度は俺が彼女の唇にキスをする。
幸せだなぁ。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
人生で初めて、お盆期間中に家族以外と過ごした。
バイトだから仕方ないと言うのもあったけれど、お盆だからと言って親戚一同が集まるような家でもない。
小学生の時まではじいちゃんばあちゃんの家に帰省したりしたけれど、2人が亡くなってからはただの休みでしかなかった。
「お盆の帰省はしないの?」
「うん、家族とは折り合いが悪くってね。この島にも逃げるように移住してきたから」
「ごめん」
「気にしないで、もう随分前のことだから」
どことなく寂しそうな顔を見て、ただただ彼女の手を握り続けた。
僕なら彼女をひとりになんかしないのに。
空を見上げる彼女がどこか遠くへ行ってしまうように見えた。
もうすぐ、夏休みが終わる。
「今日は随分甘えただね」
「離れがたいなーって」
「なにそれ」
「あーあ、ずっと夏休みだったらいいのに。そうすればずっとここに居られる」
「ダメよ大学はちゃんと卒業しないと。未だに評価する側の人間たちは学歴を見てるんだから」
卒業までまだ1年以上もある。
秋からは気持ちを切り替えて就活の準備をするつもりだけど、正直迷っていた。
この島に来るかどうか、だ。
仕事の数で言えば東京で探した方が多いし、住み慣れているから生活もしやすい。
フリーランスの彼女であれば東京に来てくれるかもしれない。
でも、この離島から離れたくないのなら俺がこっちに来るしかない。
「あはは」
「急にどうしたの」
「いや、俺女々しいなって」
「男ってだいたい皆そうよ。そして女は案外、男らしいものよ」
こんなに誰かを愛する日が来るなんて、思ってもみなかった。
四六時中彼女のことで頭がいっぱいで、ずっと熱に浮かされてる。
夕日に照らされて真っ赤な地面と、肩を寄せて並ぶ2つの影。
なんとも言葉にし難い想いで胸がきゅっと締め付けられた。
9月10日、明日がバイトの最終日だ。
バイト帰りに会えるのも今日で後2日、いい加減これからの俺達の話をしようと思う。
考えすぎて中々寝付けずバイト中にうたた寝する時もあったけれど、1週間考えて覚悟も決めた。
バイト終わりの夕暮れ、いつもの海辺で彼女を待つ。
「お疲れ様」
「お疲れ様、今日の夕焼けは初めて出会ったあの日くらい真っ赤ね」
「そうだな」
それから数分、体を寄せ合っていつものように夕日を眺める。
この日常が俺には当たり前になっていて、手放したくないものになってしまった。
「これからの話がしたくてさ」
「これから?」
「うん。・・・俺さ、卒業したらこの離島で働こうと思ってるんだ」
俺の言葉に彼女は細い瞳をまんまるとさせた。
サラサラと風で流れる長い黒髪を梳くように撫で、その手で彼女の頬に触れる。
この1週間考えていたことを全て話した。
何を言わずじっと俺を見つめる瞳は水面のようにゆらゆらと揺れている。
住んでる場所が離れていても、歳が少し離れていても、俺はこの人を手放したくない。
これからもずっと貴女と一緒にいたいから、そう告げてぎゅっと彼女を抱き締めた。
彼女はいつものように抱き返してはくれなかった。
しばらく抱き締めてから離れると、彼女は俺を見上げてゆっくりと首を振る。
どうして。
「もう秋になるよ。これはひと夏の恋でしょ、だからこれでおしまい」
バイト最終日、彼女は俺のバイト先に顔を見せてはくれなかった。
帰省は明日の14時の船だ、その前にもう一度会って話がしたい。
もう一度、ちゃんと。
バイト終わりに彼女の家に尋ねたけれど、灯りはついておらず留守のようだった。
次の日の朝8時、再び彼女のアパートにやってきた。
呼び鈴に返事はない。
「家に居ない?それとも居留守か」
数回ノックしたけど返事はなく、肩を落として扉横に座り込んだ。
朝早くから出かけるような人では無さそうだったし、昨日も今日も出かける用事は聞いていない。
勿論なんでも話してくれた訳じゃないけど、予定を教えてくれる事もちょくちょくあった。
居留守ならいずれ外出するために、扉から出てくるかもしれない。
帰ったか確かめる為に扉を開けるかもしれない。
そう思ってずっと待ち続けたけれど、昼になっても扉が開くことはなかった。
もう、帰らないといけない。
どうして連絡先を聞いておかなかったのか。
当り前に会える毎日にそんな事も忘れていたなんて。
「俺は本気だから」
彼女へのメッセージと連絡先を書いた紙をポストに投函する。
このご時世に古風だなぁなんて思いながら、きっと返してくれると信じて帰省の船に乗り込んだ。
船の中でも、東京に帰るまでの新幹線の中でも、震えないスマホを握り締めて窓の外を見続けた。
新幹線から見る夕日はずっと遠くて、冷房のせいか冷たく見えた。
蝉が鳴く夕暮れ、防波堤に座り込んで地平線を眺め続けたあの日。
汗が流れるのも気にせずに体を寄せ合い、ポツリポツリと自分達の話をしていた。
大きな大きな太陽が沈んでいくのを、一緒に静かに見届けるのが週に1度のご褒美だった。
バイト中ふと見た夕日に口元を緩めたりなんかした。
「大学生、だからかな」
俺が社会人だったら違う結果だったのだろうか。
経済力だってたいしたことないし、大学生で遠距離に住んでいる。
気持ちがあれば距離なんて関係ないと思っていたのは俺だけなのかもしれない。
一昨日の別れ際、彼女はいつもは「またね」と言うのに「じゃあね」と言った。
必死に気持ちを伝えたって、彼女はほとんど言葉を返さず俺に寄り添うだけだった。
微笑む彼女が今にも壊れてしまいそうで引き止めることは出来なかった。
彼女の出した答えは、彼女にしか分からない。
9月の末、大学が始まって2週間。
残念ながら、未だに彼女からの連絡は来ていない。
友達には「遊ばれたんだろ」と笑われて、失恋会と称して飲み会をさせられた。
中には、暑さにやられて見た幻覚じゃないかとまでいう奴も居た。
こっちに帰ってきて最初の日曜日、未練がましく島に行ったけれど彼女は家に居なかった。
初めて会ったアパートの隣人に聞いても、知らない見ていないと言われるだけだった。
こっそり覗いたポストの中には俺がいれた手紙は入っていなかった。
彼女は確かに存在しているし、ちゃんと手紙も読んでくれたはず。
それでも連絡が無い・・・そう言う事、なんだろう。
あれから2年、俺は東京で就職し社会人になった。
結局連絡は来ないまま、俺は離島に行くのも移住するのもやめてしまった。
今は10月の半ば、紅葉の見頃を知らせるようにSNSでたくさんの画像が流れてくる。
あの島で見た夕日のように真っ赤な木々。
その赤を見ているとまだ君が隣にいる気がして、ずっとそうだったように心を火照らせてしまう。
何とも言えない寂しさと、愛おしさが込み上げる。
君に来た飽きは、僕にはまだ来ないらしい。
衣替えをしなければいけないほど急激に肌寒くもなったというのに。
僕だけはいつまでも、夏に取り残されたまま。
残炎 白野椿己 @Tsubaki_kuran0
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