雨が降る夜

@mikantopenguin

雨が降る夜

柵の外側、そこに立ってみて初めて気がついた。

恐ろしい。ただただ怖かった、呼吸がうまくできない。

一歩先には何もなく、ただ遠い地面だけがぼんやりと見える。

この少しの段差を踏み越えたら、確実に死ぬ。

死んだ後のことはわからないが、生きているよりは楽な気がした。でもやっぱり怖い。臆病者の私にはその一歩を踏み出すことがどうしてもできなかった。

ビル風が吹いて、後ろ手で力の限り掴んでいた柵がゴトゴトと音を立てる。古い中層ビルのそれは、今にもすっぽ抜けそうな強度であったが、これが最後の命綱だ。

「もしもこれが外れたら」と考えたけど、それで死ねるならいいなと思った。何事も自分で決めるのは怖かったから、運命に身を任せたいとも思った。柵を掴んだまま腕を伸ばして、上半身だけビルの外側に身を乗り出してみる。全体重を預けてみても、壊れそうだと思った私の命綱はガタッと動いただけで私と一緒に生涯を終えるつもりはないらしいかった。冷たいだけの鉄の感触が手のひらから伝わってきて、無機質になった自分の心とリンクするような気がした。


手を離そうかと思った。でも、握りしめた手は膠着してしまって、離そうと思ってもいざと言うところでより固く握り直すだけだ。

ここまできて、私はやはり自分のことでさえ決断する覚悟も勇気もなかった。死ぬこともできないけど、このまま戻って生き続ける気力も覚悟も持ち合わせていない。この場所に立っているのだって、「どっちみち地獄なら、まだみたことのない死後の世界の方が希望がある」そう思ったからで、所詮消去法では、いざとなったら実行できない。


今までは死ぬことを「怖い」と思ったことはなかった。

「悪い」と思っていた。

死んだらみんなに迷惑がかかるし、親や友達を悲しませてしまうし、何より自殺なんて殺人行為と一緒だから絶対にしてはいけないことなんだと、生きたくても生きられない人もいるのだからその人の気持ちを考えなければと。

「でも、そういうの全部面倒臭い」

もはやそんなものは私にとってなんのストッパーにもならなかったし、死ぬのが悪いことであっても最後くらい悪いことをしてもいいだろうと思った。

でも、いざこうやって文字通りの崖っぷちに立ってみて、初めて「怖い」と思った。私の最後のストッパーになったのは、私自身が培ってきた死に対する考えなんかより、「死を恐れる」という生物の原初的な体質によるものだった。

上半身を乗り出すのはやめて顔を項垂れる。

ぼーっとしていた視線の先にはコンクリートでできた狭い道があって、下は見つめれば見つめるほど、地面が遠くなっていくように感じた。

少しだけ視線を上げて街を見回すと、光が点々とする大通りの方にはまばらに人影が見える。その通りの突き当たりにある寂れた駅のロータリーでは、疲れ切ったサラリーマンがタクシーに乗り込む姿が見えた。そのすぐそばを若い女の子と全身黒い服を着た男が泥酔した様子で奇声を発しながら千鳥足で歩いてる。いつも通りに動いてる街の中で、私の周りだけ時間が止まってしまっているかのような錯覚に陥る。時間が滞留し、圧縮された重たい空気がまとわりついているような感じがする。


気がつけば私は、疲労によって立っていることが難しくなり、体を畳むようにしながら小さなスペースにしゃがみ込んでいた。その状態で、柵を片手で掴みながら段差の向こうのビルの下をもう一度覗いてみる。すると、さっきまで見えていたコンクリートがぼんやりと薄暗く見えなくなって、自分の真下だけ地面がなくなったかのように見える。もし落ちたら、どこまでも落ちていって、そのまま終わりなく落ち続けてしまうのでは無かろうか。そのまま、下を眺めているうちに、不思議な感覚に陥って思考が停止した。

遠くで雷がなって、ふと視線を上げると、空一面の灰色のくもはもう含みきれないほどの雨とゴミを溜め込み、今にもこぼれ出しそうだった。

空はやけに近く、目の前の景色は一面の曇天だ。

青い姿があったことなんて、思い出せないほどの薄汚れた灰色の空は、私を取り巻く世界に似てる。


何もできないまま、ほとんど電池が切れたかのように動けなくなってそこにしゃがみ込んでから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。ここに立ってから何回か試みたそれもできずに、また戻ることもできずに、こんなところに挟まったように縮こまって時間だけが過ぎていってしまった。

もっと簡単に逃げられる場所を選べばよかったのだろうか。電車とか・・・「でも電車で死ぬと遺族に損害賠償責任がかかる」そう思ってここにしたのだった。

私は力無い笑みをこぼした。

自殺は悪いことだ、迷惑がかかるから。そう思っていた私の考えなんてなんのストッパーにもならなかったかもしれないが、死に方の選択方法にはきちんと考慮されていたし、それが結果として今の生きている状態を作っているかもしれないと思うと、なんだかおかしくなってしまったのだ。

死んだら結局、何もないのに。


全てがどうでも良くなってきて、分からなくなってしまって、数時間同じような体制で固まっていた体に感覚が戻らない。そのせいで、なんだか自分の存在がここに本当にあるのかさえ分からなくなってきた。

ここはどこか現実とは違う場所で、生と死の間の異空間なのではないかとか、逃避をしたくて、そんな風になったのかもしれない。

風の音も、遠くから聞こえる酔っぱらいたちの笑い声も、駅のアナウンスもだんだん小さくなっていく。目の前にはただ、真っ暗な雲が広がって、雨のにおいが街に浸透していく。

ふと、この世から全ての音が消えた。

さっきまでの、自分が望んで作り上げた思い込みの異空間とはまた少し違う、まったく音のない世界、匂いもない、感情も無くなった世界、一瞬だった。

その瞬間に、さっきまで鉛のように重かった心がふっと軽くなった。全てに投げやりだった自分が、本当に全てを投げ出せたかのような気がした。

一瞬の「無」が訪れただけで、私は全てから解放された。

解放というよりは、もはや転生のようだった。

生きることからも死ぬことからも解放されたと思った。


何もない世界で、何も感じることが無くなった先で、私さえいなくなった先で、「無」だけを体感することができた。

「無」を感じたのは私のどの部分だったのかは知らない。

でも、確かに感じたのだ、あの瞬間に。

そして、それを感じたことこそが、「私がここに存在しているという全てである」と、心底思い知らされた。

ただそこにある。それだけでよかったのに。

ーーーーーーポツンーーーーーーーー

頬に水滴があたる。

全てを溜め込んでいたあの灰色の雲がついに雨を降らし始めたのだ。











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