05.アイデンティティがない5

【魔暦580年07月01日07時40分】


 

 三年間、幼児である僕を育ててくれたアオスト夫妻から、意図的に距離を取っていたわけではない。僕は佐藤ミノルとして日本に戻ることしか考えていなかった。アオスト夫妻に情もないし、日本に着けば二度と会わないだろうとさえ思っていた。

 不愛想な赤ちゃんという次元ではない。僕は泣きもしなければ笑いもしなかった。返事と食事だけはしっかりと行っていたが。



 母親はゆっくりと僕の成長を待つような姿勢を見せていた。だが、父親は違う。

 しつこく、僕とコミュニケーションを図ろうとしていた。どんな時も話しかけてくるし、すぐに庭に連れ出して遊び始める。それはもううんざりするほどだ。僕がどれだけそっけない態度をとっても、彼から笑顔が消えることはなかった。

 佐藤ミノルの頃から、こういう元気な男は苦手だった。

 故に、ロイ・アオストとの二人きりの帰路は地獄だった。


 いっそ、このままヘルト村に走って逃げてやろうかと僕が考えていた時、ロイは沈黙を破った。



「誕生日おめでとう、モニ」

「あ、はい」



ーー怒らないんだ



 開幕説教から始まり、一人で外に出る危険性がどうだとか説かれると思っていたが、そうではないらしい。ロイは優しい目つきで僕を見ながら、言葉を続けた。

 


「とうとう、モニも三歳か。長いようで、あっという間だったなぁ」

「はぁ」

「最初は病弱で心配が尽きなかったけどな。ここまでたくましく育ってくれて、お父さんは嬉しいよ」

「・・・」



ーーこの男は、何が言いたい



 僕は我慢ならない程に腹が立ってきた。ロイが何を考えているかさっぱりわからないし、こういう遠回しな言い方がこいつの嫌いなところだ。「言いたいことがあるなら、はっきりといったらどうだ」と口走ってしまいそうだった。

 しかし、突然ロイの表情が冷たく変化した。これまで見たこともないほど真剣な眼差しで、僕を見据えてくる。僕は思わず足元がふらつく感覚に襲われた。それほどの威圧感が、彼にはあった。


「で、だ。ここからは、俺の独り言だ。モニが返事をしたくなかったら口を開かなくていし、聞きたくないなら耳を塞いでくれてかまわない」


 僕の相槌も待たずに、ロイは話をつづけた。


「異物って知っているかな」


 彼は唐突に話を展開し始めた。こちらの心情や、表情などはすべて無視して。本当に、独り言を始めたのならば、彼の頭は可笑しいと言わざるをえない。

 それでも、僕に反論する気はなかった。反論する理由も、生きる理由ももうない。最後に、父親の戯言に付き合ってやろうという気持ちにすらなってきた。


 彼はそれを理解してかしていないか、変らず冷徹に話始めた。



「異物とは、異なる世界の漂流物のことだ。大きさや性質、全てが違う異質の物体という意味もある。異物協会が管理しているそれは、未だに解明されていない謎が多い。異物の種類は無数に渡り、毎年新しい異物が発見される」


 ロイは丁寧に、だけど饒舌に語る。


「これは協会内でも物議を交わしている話なんだが、異物は物体以外もあり得るのではないかという話がある。生命体は一度も発見されていないが、その中間なら異物として漂流してくるのではないかと。見ることができず、触ることもできない。でも、そこに確実にあるもの。パラス王国でも数百年に一度、その漂流物を証明しようとする者たちが現れる。何か、わかるかい」



 初めて、ロイは僕に話を振った。だけども、僕は話をほとんど理解していないので口を開かなかった。彼がなぜ『異物』とやらの話を始めたのかもわからないし、何の意味があるかもわからない。

 それでも、彼は僕の答えを待った。ロイはどうしても僕の口からその答えを聞きたいようだったが、一向に口を開かない僕にしびれを切らしたようだった。

 ロイは目を瞑り、ゆっくりと口を開いた。僕の表情を見たくないのか、少しだけ俯いた。



「それは、魂だ。『異世界から、魂が漂流してくることがあるのではないか』、そういう考えを持つ派閥が協会にはいる」



ーー魂の、漂流




「その派閥は異なる世界の記憶を持ったまま生まれてきてしまった、と主張する。そして、彼らは口をそろえて「自分は転生者である」という。異物協会の会長は彼らのことを異人病であると名付けた。魂の漂流など存在せず、精神病の一種であるとね」


 僕は気が付くと、ロイの話に聞き入っていた。そして、彼がなぜ僕の口から答えを聞こうとしていたのかも理解した。



「モニが生まれた時、俺はすぐに異人病の話を思い出した。病と一蹴されるその話は、真実だったと身をもって体感した。笑わないとか、泣かないとかそういうところじゃないよ?目だ。モニは、生まれた瞬間から何か目的を持った目をしていた。何かを成し遂げようとしている、大人の目をして、前を向いていた」

「なんで」

「お?」



 僕が返事をしたことによって、ロイの独り言は会話へと変化した。彼は表情を少し緩め、不安が混じったまま僕の言葉の続きを待った。ゆっくりと閉じていた瞼を開き、伺うように僕の顔を見つめる。


「なんで、いまさら、そんなはなしをするんだ」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。こんなに情けない声が出せるのか。

 僕の言葉に、ロイは優しくこう返した。


「モニが、泣きそうにしていたから」

「う、ああ」

「モニ、泣いてもいいんだよ。君がどんな記憶を持っていようと、僕の娘には変わりはないんだから」





 佐藤ミノルが完全に死んだという事を知って、

 僕の未練は、絶対に晴れないと知って、

 

 父親はモニ・アオストが転生者だと最初から気が付いていて、

 娘から話を打ち明けられるのをずっと待っていて、

 僕は、その父親を無視し続けていた。


 僕の心はぐちゃぐちゃになっていた。


「ああ…」


 そうか。

 僕は、モニ・アオストとして生きていいんだ。

 殺人鬼とか、雪山山荘とか。残してきた妹とか。別世界の話は気にしなくていいんだ。もう全部終わったんだ。

 感情は決壊した。張りつめていたものは全て崩れ、虚勢も失われた。呪いも、人生も、全て終わったんだ。


 


 今日が、佐藤ミノルの二度目の死だとしたら。

 今日が、モニ・アオストの二度目の誕生だ。




「うわぁぁぁ」




 僕は、その場で泣いた。情けないほど、泣いた。父親は、優しくしゃがんで僕を包んだ。

 

 一人じゃなかった。日本には帰れないけど、パラス王国には家族がいる。

 泣いたのはいつ振りだろうか。それすら思い出せないまま、僕は父親に体を委ねた。



 残ったのは、父親に泣きつく三歳の女児の姿だけだった。



***

【魔暦580年07月01日08時00分】


 ひとしきり泣いた後、ロイは僕の背中をさすりながら、優しく声をかけてきた。


「もう一度、ヘルト村に行くか?自分で言うのもあれだが、俺は村長として村民にはかなり慕われている。多少の融通は利くぞ」

「いや、それなら大丈夫。もう、全部終わったんだ」

「そうか、それならよかった」



 ロイは最後まで僕が何をしに村に行ったのか聞かなかった。

 僕も、もう語ることはなかった。



「じゃあ、一つだけ頼みごとを聞いてください。お父さん」

「なんだ?」

「疲れたから、おぶってほしい」


 お父さんと呼んだのも、頼み事もしたのも、初めてのことだった。

 ロイは口を大きく開けて、激しくうなずいた。


 歪な娘と、不器用な父親は、三年遅れで親子になった。

 


 佐藤ミノルの人生が終わったのなら、モニ・アオストとして今から始めればいい。



 父親の暖かい背中に身を任せながら、僕は前世の記憶に蓋をした。

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