漂流20日目

 炎が僕らを飲み込もうとしていた。


 地獄の業火が僕を殺そうと襲い掛かってくる。スペーススーツを着ていても、圧倒的な熱が僕を焦がしていこうとするのがわかる。


 突然の衝撃で船体がひしゃげ、前の座席が僕を押しつぶす寸前にまで後退していた。おかげで身体が挟まれて動けない。どこかから飛んできた破片も脇腹に刺さっていて、灼熱の痛みが僕を責めさいなんでいた。


 前の座席には父さんが座っているはずだけど、無事だろうか。


 右側に座っている母さんはぐったりしている。気絶しているらしい。母さん、早く助けて。そう叫んでも、真空状態では僕の声は届きはしない。


 左側に座っているユリが、僕の腕をつかんできた。彼女も前列の座席に挟まれ身動きが取れない状態だった。あたしも助けてほしい。小さな手の必死のあがきに、僕は彼女の手のひらを包んで応える。大丈夫、きっと助けはくるよ。父さんも、母さんも、僕も、ユリも、みんな助かるよ。


 すると、船体の壁の一部が四角く輝き、あっという間に壁が取り払われた。レーザー溶断機だ。オレンジ色のスペーススーツのレスキュー隊が続々と入ってくる。


 隊員の一人がレーザー溶断機で、たちまち僕を圧迫していた座席を切り離し、自由にしてくれた。破片によって空いたスーツと肉体の傷を医療パッチでふさがれ、僕は隊員に抱えられながら、父と母とともに船外へ運ばれていく。


 ユリを拘束する座席も取り払われようとしていた。恐怖から安堵に変わってゆく顔がヘルメット越しに見える。


 よかった。ユリ、悪いけど先に行くね。お兄ちゃん、待ってるからね。


 その瞬間、シャトルの燃料タンクに火が回った。


 船内は爆炎に包まれ、僕は隊員とともに宇宙へと吹っ飛ばされる。


 あっという間に遠ざかっていくシャトル。隊員に抱えられたユリが船外に出ようとしていた。彼女は僕に向かって手を伸ばした。僕も手を伸ばしたけれど、到底届く距離ではない。


 お兄ちゃん、助けて。


 ユリの悲鳴が聞こえた。耳ではなく心で聞こえた。助けにいかなければ。しかしシャトルは僕の視界の中で、どんどん小さくなっていく。ユリと離れ離れになっていく。


 急いで僕を回収に来た隊員に再び抱きとめられたが、僕はその腕の中でもがいた。ユリを助けに。妹を助けに行かなくては。


 だが合理的な選択をした隊員は僕をレスキュー船に連れていく。


 直後、シャトルは大爆発を起こした。間一髪でレスキュー船に収容された僕は、破片がレスキュー船を激しく打つ音に震えた。


 船内には父と母がいた。でもユリはいなかった。彼女だけが一歩遅れた。


 ごめんよ、ユリ。助けてやれなくて、お兄ちゃんが生き残ってしまって、本当にごめん。


 ユリの助けを呼ぶ声が未だに聞こえる。お兄ちゃん、助けて。熱いよう、熱いよう。


 助けて、助けて、お兄ちゃん――


 ※※※


「コウタ! 助けて、コウタ!」


 キトゥンの必死な呼びかけに、僕の意識は一三年前の事故の夢から、無味乾燥な現実へと引き戻された。栄養不足で朦朧もうろうとする頭では、キトゥンの声さえ夢の中の出来事のようにぼんやりしていた。


「お願いドアを開けて! ローチに殺される! ねぇ聞こえてるコウタ? 返事して!」


 キトゥンはドアを何度も叩いた。ようやく意識が覚醒し始めた頃、もう一人の罵倒が聞こえてきた。


「逃げんじゃねぇ! この生命体殺しめ!」


 ローチの声は殺気立っていた。どうやらキトゥンの言っていることは事実らしい。やっとのことで身体を起こした僕は、慌ててドアを開けた。キトゥンは通路の壁際に追いつめられ、全身から怒りを発散させるローチに見下ろされていた。彼の手には、どこかの配管を外して調達したのか、一メートルほどの鉄パイプが握られている。


 そしてどういうわけか、キトゥンの下腹部は不自然に膨れていた。まるで胃袋が水風船になったみたいだ。


「ローチ! おい待ってくれ!」


 僕は今度こそローチを羽交い絞めしようとしたが、抱き着く前に鉄パイプを振り回され、近づくことすらできなかった。


「邪魔すんじゃねぇ! これを見ろ!」


 四本の内の二本の腕で抱えていたものを、ローチは乱暴に放り投げた。海水に似た臭いを発するそれは、クラゲのようにプルプルした人型の膜だった。


「ヌメルの亡骸だよ。残ったのはその表皮だけ。ウミアルス星系人はその表皮の中に水分を溜め込んで生きている。そんで首筋に開いている穴、なんだかわかるか?」


 僕は愕然としてヌメルだったものを見た。確かに首筋のあたりに小さな穴が二つ開いている。鋭いもので刺されたような……


「俺は見たんだ! こいつがヌメルの首筋に噛みついて中身をすすってるのをな! 二つの穴はキトゥンの牙だ! おとなしい顔したこいつはとんだ野獣だ!」


 僕はキトゥンを見た。友人を殺したという僕の恋人は、重そうなお腹をさすりながら言った。


「だって先に襲ってきたのはヌメルで……あんたも死ねば空気も水も節約できるって……でもキトゥンも喉が渇いていたから……甘かった……ヌメル……」


 つぶやくような口調だった。どこか恍惚とさえしているように。


「もううんざりだよ、お前ら……。どいつもこいつも、友達面した化け物ばかりだ! 俺はもう、お前らなんか信じねぇ!」


 ローチは鉄パイプを振りかぶった。僕は倦怠感で重さを増した身体を叱咤して走ると、ローチにタックルをしかけた。リブキゴーク星人の外殻は本当に硬い。なんとか転倒はさせられたが、ぶつかったこっちの方が痛い。


「なめたマネしやがって!」


 激昂したローチが僕らに向かってくる。彼は完全に僕らを殺すつもりでいる。複眼が薄暗くなった通路の照明を照り返し、一切の情を排した無機質な視線が僕らを射貫いた。


「キトゥン、逃げるぞ!」


 僕は肩にキトゥンの腕をまわし、一緒に走り出した。


「待てよこらぁ!」


 ローチはめちゃくちゃに鉄パイプを振り回し、壁という壁をへこませていく。必死に逃げようとした僕らだったが、キトゥンの足元は枷をはめられているかのようにおぼつかなく、実質僕が彼女を引きずる格好だった。これでは急ごうにも急げない。


 気が付くと、通路は行き止まりになっていた。がむしゃら過ぎて失策を犯した、一瞬そう考えたが、左手に機関室の扉があるのに気付き、やむを得ず飛び込んだ。


 機関室は幾本もの配管が四方に伝っていて、まさに血管が集中する心臓部の様相を呈していた。僕らは動力装置の一部の影に隠れ、じっと息をひそめた。


 間もなく荒々しい足音が聞こえてきた。ローチも入ってきたようだ。慎重に顔をのぞかせると、僕らを探してあたりを見渡しているのが確認できた。


「コウタ……」


 キトゥンが不安げに僕を見つめる。やせこけた身体にはすでにいくつもの生傷がついている。ローチに痛めつけられてついたものか、あるいは……ヌメルの抵抗の結果なのか。


 こんな彼女がローチと同じく友人を手にかけたという事実を、僕はどう受け止めればいいのかわからなかった。


「聞こえるか、コウタ! どこかに隠れてるいやしい地球人よぉ!」


 ローチの叫びが、せまい動力室の中に反響した。


「俺はよぉ、ずっとお前みたいな地球人のことは、ブニブニした気味悪い連中だと思ってたんだよ」


 彼が言葉をいったん区切ると、機関室はメインエンジンが動く無機質な重低音だけが響いていた。


「お前だってそうじゃねぇのか? 地球にいる害虫……ゴキブリってやつに、俺はそっくりなんだろう? きっとお前も、俺のことを内心では気味悪がっていたんじゃないのか?」


 図星だった。そうだ、彼のいう通りだ。茶色く光る外殻、六本の腕、長い触覚。どこをとってもゴキブリが立って歩いているようじゃないか。ローチと出会って友好の握手を交わした時、鳥肌が立つのを禁じえなかったのを思い出す。長袖の服を着ていたのはまったくの幸いだった。


「俺たちにはなぁ、しょせん偽物の友情しかなかったんだよ! 笑顔の仮面を被ってお友達ごっこする一方で、自分とは違う種族を平然と化け物扱い、下等生物扱いしてたんだ!」


 足音が近づいてくる。虫の化け物が僕らに近づいてくる。装置の向こう側に、やつがいる。


「だから、俺はもう嘘をつくのを止めるぜ。俺はお前たちが心底気色悪い。ピンクの下品な毛の生えた獣と、軟弱な肉体の地球人なんてな……」


 足音が途絶えた。いぶかしんだ僕は、慎重に様子をさぐろうと頭をのぞかせようとした。


 そして頭上を見やり、ローチが装置の上に乗ってこちらをのぞきこんでいるのに気付く。


「お前たちこそ、本当の害虫だ」


 ローチが振り下ろした配管が、キトゥンの胸元を打った。木の板を割ったときに似た音が聞こえ、彼女が口から大量の青い血を吐くと、そのまま倒れこんでぐったりとした。


「次はお前だ、地球人」


 僕の中を冷たい恐怖がはいのぼり、悲鳴をあげさせた。力が入らなくなった足腰に代わり、肘を動かして床を這いずった。ローチはそんな僕の様を見て笑い声をあげた。


 僕も死ぬのか。こんな宇宙のただ中で、友人の手によって。


 背後から迫りくる殺人鬼を振り返った。リブキゴーク星人は鉄パイプをめいっぱい振り上げ、今にも振り下ろさんとしていた。


 ユリの姿が脳裏をよぎった。せめてもう一度、あの子に会いたいと願った。


 そうして気が付いた。


 ユリが、いつの間にかローチの前に立っていた。何の前触れもなく。


 あれほど殺気に満ちていたリブキゴーク星人は、驚愕して動けないでいる。


「なっ、なんだこいつ……」


 ユリは平然とローチに近づいていく。ユリは微笑んでいた。あの頃のままの、かわいらしい笑みだ。


 そしてその口元は徐々に変容を遂げていく。口端は耳元まで裂けていき、口腔がむき出しになった。奥歯までがのぞき見えた。


「こいつ、まさか……まさか!」


 僕にはわからない何かを察したローチは鉄パイプを構えた。明らかに彼は怯えていた。なぜ怯えているんだろう。さっきまでの威勢はどこに行ったのか。


「くっ、来るな! 来るんじゃねぇ!」


 ローチは鉄パイプを横なぎに振った。だが鉄パイプが当たる直前、ユリの姿が一瞬消えた。そして得物の先が配管の一部に刺さり、液体が噴出すると、ローチの全身に浴びせられた。


 配管にはこう書かれていた。〈エンジン冷却用液体窒素〉と。


 ローチは悲鳴をあげながら床を転げまわり、黒光りしていた身体に霜がおり始めた。リブキゴーク星人は低温に弱いと聞いたことがあったが、マイナス二〇〇度近くの液体窒素を浴びてはどんな生物だろうとひとたまりもないだろう。


 唖然としていると、ユリがローチの取り落した鉄パイプを指さしていた。彼女の伝えたい意図を、兄である僕はすぐに察した。


 あぁ、そうだね。ユリはかしこいね。


 僕は鉄パイプを握ると、凍りついて動けなくなったローチへ近づいた。まだ息がある。


「コウタ……頼む、やめてくれ……」


 どの口が言うんだ。お前のせいで。お前のせいで。


 僕は鉄パイプを構えると、全力で振り下ろした。ローチの腕の一本が枯れ枝のように折れた。極度の低温にさらされて外殻がもろくなったのだろうか。化け物の悲痛な叫びが機関室にこだまする。


 僕はさらに振り下ろす。三度、四度、背中、足、二本目の腕、三本目の腕……


 容赦をしてはならない。ここで力を緩めたらだめだ。これは生き残りをかけた戦いなんだ。


 ローチの腕と足はすべて折れた。あちこちの外殻にもひびが入り、黄色い体液が漏れ出ている。にも拘わらず、彼はまだ生きていた。しぶとさも地球のゴキブリそっくりとは恐れ入る。


「目を覚ませよコウタ……化け物はお前じゃなかった……化け物はそこにいる……」


 ローチは泣いていた。訴えかけるように僕の背後へ視線をやっていた。そこにはユリがいるはずだが、その意図を僕は察しかねた。まさかユリが化け物だというのか。ありえない、ユリは僕の大切な妹だ。


 ようやく再会できた、かけがえのない家族だ。


 人の家族を侮辱するなんて、許せない。


「黙れよ、害虫野郎」


 僕は怒りによって湧きあがる力を振り絞って、ローチの頭に鉄パイプをめり込ませた。氷漬けになった肉片をいくつもまき散らして、とうとう害虫は動かなくなった。


「……コウタ……」


 か細い声に振り向くと、キトゥンがうめき泣いていた。彼女もまだ生きていたとは。


「痛いよ……寒い……助けて……」


 哀れなキトゥンは、捨てられた子猫さながらに弱々しく鳴いた。紛うことなき重症だ。僕の手には負えない。


 でも、ちょうどよかった。


 これで、二人分の食料を調達できる。


「安心してキトゥン」


 僕はユリに微笑んだ。ユリ、今夜のご飯はお肉を食べよう。


 絶対に、二人で生き延びて。


 一緒に家に帰ろうな。


 何よりも大事な、大事な妹は、笑顔で応えてくれた。


「君はちょうど、二人分の食料になる」


 僕は感謝を込めて、キトゥンの頭上に鉄パイプを振り下ろした。頭蓋が割れる音は、やはり枯れ枝のようだった。

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