第3話
表
「じゃあ。オレ達は出かけてくるわ」
夜の八時過ぎ、オレ達は家を出て散歩することにした。もちろん、オレとハナの二人だけで。諸事情により、目立つわけにはいかないのだ。車いすを引いて歩くのは、さすがに目につく。だから、フウカには悪いが、家に居てもらう。
フウカが一人で家にいる間、寂しくないようにテレビをつけっぱなしにしておく。九時からフウカの好きなジャンルの二時間ドラマが始まるので、そのチャンネルに合わせておく。そして、フウカを車いすからソファーの上に移動させる。
「はい。いってらっしゃい」
フウカは腕を振って元気に見送ってくれた。
「……」
オレはフウカの前にしゃがむ。「どうかしたんですか?」そう聞いて来た。オレはフウカと同じ目線になると、オレはフウカの頬をつねった。それから頭をなでた。
「まったくもう……」
フウカもオレの頬に触った。つねる事が出来ないので、切断面で触れるだけになっていた。「すぐ帰るよ」
「ドラマが終わるまで、帰らなくていいですよ」ツーンとそっぽを向いた。
「はいはい。わかった」オレは苦笑を漏らす。「じゃ、今度こそ、行ってくるわ」
「はい」
「んー、ん、んーんーんー♪」
ハナは陽気に鼻歌なんか歌っている。大変機嫌がよろしいようだ。呑気にスキップなんかしている。ハナの長い髪が上下に躍る。
「今日はどうしたんだ?」
「あー……た、たべる」
ハナはジェスチャーを加え、自分の言いたいことをオレに伝えようと努力していた。人差し指と中指以外の指をすべて折りたたみ、それを横にし、口元で上下させる。オレは何でそのジェスチャーをチョイスしたのか、とつい笑ってしまった。
「夕飯がうまかったって事でいいんだよな」
「うん!」
「そうか。ありがとう」
嬉しい気持ちになった。やはり、自分がしたことを快く思ってくれると気持ちが高揚する。褒められるのは、いいことだな。つくづく実感した。
「つ、つきー!」
ハナは空に人差し指を向ける。そして、夜に存在を強く主張している三日月を指すのだった。黄色い光を照らし暗い夜道を明々とさせていた。オレ達を導くように。
オレ達は手をつなぎながら、明るい夜道を歩いていくのだった。
「すん……すん……」
ハナが鼻を啜り始める。いや、嗅いでいるのか? ハナは何かをかぎ取ったようで、キョロキョロと辺りを見渡し始める。オレはその姿に犬を連想させた。
「うー?」
ハナは何かを見つけたのか、その方向へ向かっていくのだ。オレはハナに引っ張られる。
ハナはずっと匂いを嗅いでいた。オレはただただついていくだけだった。そしてしばらくその状態が続いた。オレは「まだかな」と退屈していた。
オレ達はやがて、山の中へ入っていった。ごつごつとした石の道で歩きづらい。その道を歩いていくと今度は腰辺りまで伸びた草むらの中を進んでいく。蜘蛛の巣が鬱陶しかった。オレは顔をしかめながらもまだハナについていく。
「……?」
オレは耳に何かを聞いた。
「ハナ」
オレは歩みを止めた。オレを先導し、前を歩いていたハナは急にオレが止まったのを認識できず、不意をつかれ、体のバランスを崩した。重心が後ろに傾く。そして盛大にしりもちをつくのだった。
「すまん」
オレはハナを立たせて服についた土の汚れを落としてあげた。
「もしかして、アレか?」
「うん!」首を縦に振る。
「人はいるのか?」
「ううん!」今度は首を横に振る。
「……わかった。とりあえず、そこへ行こう。人がいないのなら好都合だ。道案内、引き続きしてもらえるか?」
「はい!」
ハナはオレの手を引っ張る。またそれに従っていく。そうしてしばらく進んでいくと、小屋があった。どうやらそこがゴールのようだ。その小屋からは、無数の獣の哀切な鳴き声が重なり、響きわたっていた。
「ここだな」
オレはやかましいその小屋に入る。中は随分と廃れていた。窓ガラスは全て無くなっていた。床にその破片が散らかっているようで、一歩ずつ歩くたびにパキパキと音が鳴るのだ。オレは持って来ていた懐中電灯をつけた。そして辺りを照らす。
奥へ進むと、五個の小さな檻があった。そこに犬や猫が閉じ込められていた。とりあえず、うるさいし臭い。動物が発する独特の臭いのほかに腐臭も付け加わり、臭いは強烈なものだった。よくよく見れば。血も辺りに点々としている。
ハナは犬が収監されたその檻の前でしゃがむ。よく平気でいられるなと感心する。オレは鼻をつまんでいる。
「わーい」
ハナは物欲しそうにそれを眺めていた。なんか、涎を垂らしているようにも見えた。ハナは檻を両手で掴むと、それをガタガタと揺らし始める。その檻の中の犬はさらに吠えるのだった。
オレはハナの元へ行き、腕を引っ張り、ここから離れさせようとする。しかし「うー!」と言ってハナは抵抗する。
オレは「はあー」と深いため息をついた。こうなってはもうどうしようもないので、オレはハナをこの場から離れさせるのをあきらめる。
「誰か来たらすぐに伝えるんだぞ」
「はい!」
オレはその言葉を信じて、ハナの物欲しそうに見ていた犬の檻を開けた。犬は勢いよく外に飛び出した。
ハナはその犬を抱きしめる。犬は抵抗し、ハナの腕の中で暴れる。しかし、ハナの膂力は思った以上に強く、犬はそれを振りほどけないでいた。
オレは遠くでそれを見守っていた。ハナにライトを当てて傍観していた。
「ほどほどにな」と、オレは念を押すようにハナにそう言った。すると「はい!」と、ハナは今日一番の明るい大きな声で返事をするのだった。
「はあ」とオレは一つため息を漏らし、この場をそっと離れた。
裏
終わりは突然やってくる。それは予期せぬ形で。
それはそれはとても悲しい事。
幸せだった日々が。虹のように色鮮やかで輝かしかったあの日々が。全てを台無しにされ消え失せてしまうのだ。初めからそこには存在しなかったかのように消滅してしまうのだ。
始まりも同じで、突然にやってくる。同じなのだ。終わりも、始まりも。これは予定調和だ。
お父さんの浮気が発覚したのは私が小学四年生の頃だった。私はただ泣いているだけだった。
お母さんは私たちに内緒で探偵を雇ったのだ。それによりお父さんが私たちについていた嘘が暴かれたのだ。私にはお父さんの嘘を、違和感を感じ取れなかった。
お父さんは仕事で帰りが遅くなっていたりや、出張で出かけているものばかりだと思っていたのだが実は違ったのだ。そんな事はなかったのだ。私はお父さんの仕事は大変なんだなと思っていた。しかしそれが違ったのだ。私にはそう感じ取れていた事はお母さんにとって違和感でしかなかったんだ。
お父さんとお母さんは喧嘩した。モメにモメた。家が修羅場と化した。二人は私が寝静まった時に言い争いを始めたのだ。私を気遣っての事だろう。しかし、二人のヒートアップした怒号の飛ばし合いは、私の睡眠を妨げた。目が覚めてしまったのだ。私は何事かと両親がいるリビングへ眠たい目を擦りながら向かった。そこにいたのは、私のお父さんとお母さんなのではなかった。
私の世界が歪んでいった。私の世界が壊されていったのだ。崩壊していったのだ。崩れていく。足場が崩れるのだ。私は奈落の底に落ちていく。
私は絶望する。私の幸せが手元から離れていくのだから。私の光は喪失し、暗闇に取り込まれる。私の周りが、辺りが、一面が、真っ暗闇になる。私はそれに包み込まれていくのだ。それが私を飲み込むのだ。
私は出口のない世界にいざなわれる。私の心が蝕まれていく。黒く汚れていく。終いには心に茨が巻き付き、私を締め付ける。痛みつける。苦しめる。
私はよく、テレビでこういうのを見ていた。私にはそれがただの民衆に向けた娯楽の一種だと思っていた。フィクションだと、作り話だと、そう思っていた。だがしかし、その幻想フィクションは私の前で起こったのだ。それが現実に起こっているのだと理解するのはそう時間がかからなかった。でも、私はその現実を認めたくはなかった。
二人が離婚したのはそう遠い話ではなかった。私はお母さんと暮らすことになった。私は私たち家族が長年過ごしてきた居場所を離れなければいけなくなった。
私たちはどこかのアパートで暮らすようになった。お父さんから貰ったお金である程度良く暮らしていけるようだ。それでもやはり家計は火の車となるので、お母さんはパートでお金をさらに稼いでいた。そうやって私を養ってくれていた。
お父さん。それは私の世界の中から消失してしまった人。二人だけの家。それはその人がいなくなった世界。私の心に穴がポッカリと空いていた。喪失感。心が貧しい。言いようのない痛みが胸に来た。
私は……寂しかった。けど……それでも、幸せだったと思う。何とかそう思えるようになった。見知らぬ土地で、初めて出会う人々。それは本来なら知りえるはずのない人達なのだから。
人の生とは最初に終わりが始まり、その始まりが終わる。そしてまた始まり終るのだ。それの繰り返しでしかない。そうやって人の糸を紡いでいくのだ。私たちは終わった世界でまた新しい幸せを掴もうとするのだ。それを意味もなくリピートしていくのだ。遣り直そうとするのだ。
だから、私の今の幸せも、幸福も、終わっていくのだ。
それはそれはとても哀しい事に。
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