4‐15.誰よりも特別な物語
最後の食事を思う存分に味わったラーストチカは、心地よく満たされた気分の中で眠気を覚え、気づけば寝室のベッドの中にいた。
女官に化粧を落としてもらって真っ白な夜着に着替えたラーストチカは、仰向けに寝転がって、金箔で獅子の文様が描かれたベッドを覆う天蓋を見上げている。
疲れて眠くて、布団に溶けて漂うように心地が良いひとときだった。
好きな服を着て脱いで、食べたいものを食べたいだけ食べて、眠くなったらそのまま寝る。
ラーストチカが今手に入れている幸せは、故郷の農村では成せないことばかりである。
思い残すことは何もなく、まぶたを閉じる。
あとはもうラーストチカがやるべきことはなく、ルェイビンに殺されて庖丁で身体を切り分けられるそのときを迎えるだけであった。
やがてラーストチカは甘く柔らかな肌触りの絹の寝具に包まれて、もう二度と目覚めることがないような気がするほどに重い眠気の中に落ちる。
それは夢も見ないほどに深い眠りだった。
だからラーストチカは、自分が朝を迎える前に目覚めてしまったとき、何かの間違いではないかと驚いた。
「まだ夜なのに……?」
十分に眠ったあとのすっきりと醒めた頭で、ラーストチカは起き上がる。
ベッドの天蓋には薄いレースのカーテンが垂れているので、ラーストチカの視界は暗く白い。
夜明けの気配は遠く、かなりの夜更けであるようだった。
(殺されて死ぬ前って、こういうものなんだろうか)
ラーストチカはほの温かいベッドを抜け出し、月明かりが淡く差し込む格子の飾り窓の方へ行こうと内履きを履いた。
過去にこの饗花宮で殺された少女が一人や二人ではないことを、ラーストチカは知っている。しかし知ってはいても、それが何を意味するのかを、考えたことはなかった。
(だけどたくさんいたことは間違いないんだ。私と同じように、この部屋で眠って死んだ女の子たちが)
最後の最後に時間が有り余ったラーストチカは、今まで考えていなかったことについて考える。
すると昨日までのルェイビンに殺してほしかった気持ちが、不思議なほど急に冷めだした。
(もしかすると私はこの国ではありきたりな人間で、ルェイビンにとっても本当はどうでもいい存在なのかもしれない)
ラーストチカは、自分と同じ境遇の少女が大勢いるのなら、自分は実はそれほど特別ではないのだとそのとき理解した。
犠妃であるラーストチカにとっては、好きか嫌いか以上に、農民でしかない自分を姫君として殺してくれるはずのルェイビンは特別な人である。
しかし庖厨官であるルェイビンにとっては、ラーストチカは何人も殺して料理してきた少女たちの内の一人に過ぎず、その死も単なる日常の一部にしかならない。
だから恋をするふりをしてみたところで、賭けたものの重みが釣り合うことは絶対になかった。
なぜならルェイビンは命を捨てたラーストチカと違って、最初から何も手放してはいない。
その隔たりに気がつくと、ラーストチカは自分がひどくつまらない存在に思えて、面白くなかった。
(特別にしてもらえるなら、ルェイビンの気持ちがわからなくても、殺されても良かった。でもそうじゃないなら、話が違う)
夢がさめる現実に気づいたラーストチカは一人ふてくされて、窓際に立って緋色の漆が塗られた格子を握りしめる。
本当のところは、誰かが犠妃として死ねば望みが叶うと提案したわけではない。勝手に期待していたのはラーストチカであり、他人と同じでは満足できないのもラーストチカだった。
だからこそ割り切ることはできず、願いはどこまでも大きくなる。
(私は何よりも特別になりたい。ルェイビンにとっても、誰にとっても)
窓の外から見える池は広く静かで、夜空を映した暗い水面は月明かりや夜通し灯る皇城の光にきらめいている。
それはラーストチカの生まれた雪深い村にはない、華やかで美しい眺めだ。
こうした知らなかった世界を知ったラーストチカは、自分でわかっていた以上に欲深かった。
このまま死んで全てが終わったとしても、故郷で別れたスーシャはきっと、公女の代わりに生贄として死んだ幼馴染であるラーストチカのことをある程度は大切に想い続けてくれるだろう。
ラーストチカは、それくらいにはスーシャに好かれていた自信がある。
しかしラーストチカは、故郷の地味な幼なじみのちょっとした好意だけでは、十分に満たされて死ぬことはできない。
ラーストチカは、もっと大きな意味がほしかった。
だからこの饗花宮でルェイビンが殺した大勢のうちの一人になってしまっては、ラーストチカの本当の望みは叶わない。
ラーストチカがなりたかったのは、誰よりも特別な物語を生きた姫君であり、ありふれた犠牲者では嫌だった。
「だったら私は、ここを出ていこう」
池を眺めるのをやめ、窓の格子から手を離して、ラーストチカはこれまでとはまったく正反対の決心をつぶやいた。
大勢の少女たちを殺してきたルェイビンにとっての特別な存在にまずなりたいならば、ラーストチカは彼に普通に殺されてはいけない。
けれどもラーストチカは、ルェイビンが優しさや愛しさといった感情を向けてくれることを望んでいるわけではなかった。
ラーストチカは貪欲なので、そんな平凡な特別では納得できない。
(だから化け物に喰われて死んでしまうお姫様が千人いるのなら、私は化け物から逃れて生き残るたった一人のお姫様になる)
ベッドの横に掛けられていた厚手の外套を羽織りながら、ラーストチカは自分が新たに望む未来について考えた。
ラーストチカがこの国にやって来たのは、恐ろしい化け物に殺されてしまう可哀想な姫君になるためであった。
しかし一方で、別のおとぎ話には囚われた塔から抜け出すしたたかな姫君もいることを、ラーストチカは知っている。
本当は偽物であるからこそラーストチカは、自分のなりたい姫君を選ぶことができるはずだった。
食卓の影にある嘘を見て見ぬふりをしても、現実はラーストチカのおとぎ話を否定する。
それならばラーストチカは、違うおとぎ話を生きるのだ。
「これで外に行けるかな」
外套の紐を結び終えたラーストチカは、姿見の鏡に自分を映してみた。
薄闇に銀色の長い髪を下ろして微笑むのは、昨日までとは違う意思を宿した華やかで美しい自分の顔である。
真っ白な夜着はドレスのようにたっぷりとレースをあしらったものであるので、薄青の外套を身に着ければ十分に人に見られても恥ずかしくない可愛らしさだ。
自分の装いがきちんと姫君らしくなっていることを確認したラーストチカは、寝室の戸を音を立てないようにそっと開けた。
外の冷気がラーストチカの頬を撫で、火炉で温められた寝室の空気と混ざる。
ゆっくりと顔を出して確認すると、中庭につながった渡り廊下はしんと静かで、人影はなかった。
(見張りも誰も、いないんだ)
いくつかの早咲きの花を咲かせた庭の梅を眺めながら、ラーストチカは静寂を破らないように気をつけて居館の正門へと続く磚の上を進む。
もしかすると、これまで犠妃に選ばれてきた少女たちは皆自分の立場を受け入れていたから、逃げ出した者は一人もいなかったのかもしれない。
逃げた前例がないからこそ誰も見張りがいないのであり、だからやはり自分は特別なのだと、ラーストチカは都合よく考える。
おそらく本来は夜着に外套で出歩くには寒い夜であったが、凍土で育ったラーストチカにはそれほど問題はなかった。
雲のない空を見上げれば、月は満月で闇夜に白い光が冴え渡っている。
やがてラーストチカは、何重にも屋根を重ね、鮮やかな色彩で塗られた饗花宮の正門の前に立った。
垂れた花を模した飾りがついた軒下も、立派な竜の形をした金の取っ手も、どこを見ても華やかで美しい門だ。
「昔々、世界に精霊や妖精、魔法使いがたくさんいたころ……」
かつて何度も口にしてきたおとぎ話を始める言葉を、ラーストチカは今日またほんの小さな声でつぶやいた。
取っ手の金具を引いて、扉を開ける。
分厚く重い木製の扉なので、さすがに無音というわけにはいかず、ぎぃっと木がきしむ音がした。
それでも人の気配は、近くにはなかった。
扉を開けた音に気づいた誰かがラーストチカを引き戻すのかもしれないし、居館を出ても続く皇城の敷地の中で誰かに捕まってしまうのかもしれない。
またたとえ運良く皇城の外に出られたしても、見知らぬ異国の地ではラーストチカは生きていけないのかもしれない。
しかし何が待っているのかわからなくても、ラーストチカは門をくぐって外に出た。
その瞬間に強く冷たい風が吹いて、ラーストチカの銀色の髪をなびかせる。
風にはためく外套を抑えながら、ラーストチカは白い鳥に乗って囚われていた塔から去っていく、美しい姫君の姿を思い浮かべた。
ラーストチカは、この別の新しいおとぎ話の欠片になる一瞬のために、館を出ていくことにした。
そうすることでラーストチカは、自分だけの特別を極めることができるはずだった。
扉を閉めて、前に進む。
楼閣の上から見えていた皇城の外へと繋がる運河を目指して、ラーストチカは暗い池の周りを一人歩く。
振り返れば星が凍る夜空の下、月明かりに照らされた饗花宮が見えていた。
「これでめでたし、でしょう?」
館のどこかにいるはずのルェイビンの仏頂面に、ラーストチカは問いかけた。
そして夜着の裾を持ち上げ、偽の姫君として学んだ通りに丁重にお辞儀をする。
あとは一度も振り返らずに、ラーストチカは外を目指した。
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