第7話

 突然の出来事に、ワンは激しく動揺していた。

 サシャがナギに襲いかかるなど、予想外だった。

 予想外だったが、予想できるべきだったと、自身の浅慮さに腹が立った。

 情けをかけられたことを悔しがり、ワンに強い敵意を見せていたサシャが、ナギにも同様の感情を向けないはずがなかったのだ。

 夜になったとはいえ、日は沈んだばかりで、まだ空は紫がかっている。さらに月明かりが辺りを照らしていて、視界は極めて良好だった。

 痩せぎすの貧相で小さな少年は、女に腕を拘束されている。暴れているが、ナギはびくともしていない。

「サシャ殿っ……」

 思わずそこへ駆け寄ろうとしたワンの前に、ドゥッラの腕が延びて、道を遮った。

 こちらを見てはいない。相変わらず感情の見えない横顔だった。ワンには何の声もかけず、ナギとサシャの様子を黙って見つめている。

 サシャを担いで歩き出したとき、ドゥッラにかけられた言葉を思い出す。

 彼の言う通り、この、黒い森の中で保たれてきた均衡を、崩してしまったのはワンだった。それによって今のこの状況となっているのであり、とがは自分にあると、ワンは思っていた。離れたところでただ様子を見ていることは、許されるものではない、と。しかしドゥッラは、ワンが彼らの元へ駆けつけるのを認めないようだった。

「ふざけるなよ……っ!」

 悲鳴のような、癇癪を起こしているような、サシャの声が辺りに響く。その言葉に反応する者は誰もいない。サシャ自身もそれを期待しているわけではないようだった。

「ちくしょう、ちくしょう! 馬鹿にしやがって! 見殺しにするのかと思ったら、気まぐれに拾って、ゴミみたいに地面に転がしやがって! 憐れんで嘲笑いやがって!」

 喉から絞り出すような絶叫だった。金切り声に似た音は、言葉として聞き取るのも難しかった。だが、ワンには辛うじてほぼすべての言葉を理解できた。

 稚拙で、支離滅裂で、理に適わない言い分だと思った。だが、そこに至る感情に寄り添えないわけではなかった。大人になるまでの猶予を与えられていいはずの、未熟な少年に、許されるべき不条理だとワンは思う。ここが異民族に踏み荒らされる前の、静かで平和だったワンの故郷であれば、だ。

 唯一理解者になれたかもしれない自分が、その可能性を失念して、こんな事態になるまでこの少年を放ってしまったことに、ワンは震える。

 ワンが壊してしまったのは、少年の心と、この集団の保つべき秩序だ。そして、今、優先されるべきは、後者だ。ドゥッラに止められた以上、今この場でワンができることは何もない。

 この事態に対して、ナギが何らかの裁定を下すのかと思い、ワンは黙って様を見ていた。

 ナギは、暴れるサシャの腕を突然解放した。地面に一度倒れ込んだサシャは、血走った目でナギを見上げた。

 ナギは、サシャが狂ったように紡いだ言葉の意味もわからないし、それに対してかける言葉も特に思いつかなかった。自分に対して刃を向けてきた者への処遇は、ひとつしかない。腰に帯いた剣に手をかけようとした瞬間、またサシャが声をあげた。

「なんだよ! なんでみんな、こんな女についていくんだよ! こんな、こんな、化け物みたいなやつの、言うこと聞くんだよ!」

 叫びながら、サシャは地面に落としていた自分の得物を手早く拾い、ナギに襲いかかろうとした。

 その動きをナギが読み損ねたのは、サシャの狙いが完全に想定外だったからだ。

 命を奪うつもりなら、首か、腹か、刺し易い急所であり、目の前の敵は懐に入るはずだった。しかしサシャは、それよりも身体の中心部から遠い場所に刃を向けたのだ。

 左腕に着けていた手袋は、どれぐらい使っていたのか、ナギはもはや覚えていない。くたびれて着け心地が悪くなった頃に、適当に付け替えているもので、思い入れはないからだ。ただ、簡単には損傷しないよう、常に頑丈な魔物の革で作っていた。

 だから、それを一閃で破ったサシャの短剣の扱いはなかなかに上等だと、ナギは内心、感心した。

 ――どうでもいいことだが。

 剣術の腕があろうと、戦略に長けていようと、政の知恵があろうと、この黒い森にいる限りは、何の意味もなさない。

 冷めた目でサシャを見るナギに対し、サシャの興奮はなおも醒める様子はなかった。

「ほら、ほら、なんだよ、これ! 気持ち悪ぃ! 畜生の腕じゃないか! 化け物! 化け物女! みんな、なんでこんな女の言いなりになってんだよ! なあ! なあ! なあ!」

 昼間に木の死骸から引き上げた時に触れてしまって、隠していた左腕が異形であることに気づかれたのかもしれない。

 ナギはむき出しになった自身の左腕を見る。自分でも目視するのは久々だ。サシャの言うとおり、そこには明らかに人間の腕ではない、白銀の獣毛に覆われた脚があった。手があるべき先端にはおよそ目視できるほどの長さの指はなく、長く鋭い爪が4本伸びている。

 吐き気のする光景だが、これでもまだ見られた方の姿では、ある。

 サシャは、ナギの恥部を晒し、ありったけの言葉で貶したにも関わらず、ナギも、他の男も何の反応もないことに戸惑ったのか、急に口を噤んで、微かに震えだした。

 その様子を見て、ナギは急に、おかしな気持ちが腹の底から這い上がってきた。鳩尾が震え、口角があがり、高い声が知れず漏れてくる。

「ははは……! あはははは!」

 一連の様子を見守っていたワンは、奇妙な展開に戸惑いを隠せなかった。それと同時に、ナギが笑っているのを見るのは初めてだ、と、場にそぐわないことを考えていた。笑いと言っても、こちらの気分が良くなるような好意的な笑顔では決してなかった。

 同じようにその様子に尋常でないものを感じたらしいサシャは、ついに怯える表情を隠しきれないまま、腰を抜かしている。

「あはは……」

 ひとしきり笑った後、ナギは突然、ワンに目線を向けて、言い放った。

「王子殿。「人間が踏破できるはずのない」とお前が言うこの黒い森を、私がどう統べているか、お見せしよう」

 その言葉の意味をワンが飲み込むより前に、突然、サシャの身体が宙に浮いた。まるで何かに投げられたように、鋭い弧を描くように、高く、その身体が動いた。だが、誰もサシャの身体には触れていないはずだった。

 何が起きたのかわからず、ワンは目を見開く。これまでのことに無反応かのように見えた男達にも、わずかに動揺する様子があった。

 地面に叩きつけられるサシャは、悲鳴すらあげられない。仰向けになった身体にはやはり誰も触れてはいないはずなのに、今度はそこから、血が吹き出した。

 ワンは目を凝らし、そこに、獣の爪で引き裂いたような痕があることに気づいた。目を瞬く。それと同時に、不可解な影が見えた。

 黒い森に入ってからの数日間、生き物という生き物を一度も目にしていない。だが、今この瞬間、サシャの上に馬乗りになる猛獣が見えた。

 森は急に暗くなった。青々とした枝葉や苔に溢れている、生きた森になっていた。月明かりがちらちらと、木々の葉の合間から落ちてくる。その青白い光を、四つ足の獣の灰銀の毛が波打つように受け、反射して、神々しい姿を見せている。長い尾と耳を立て、周囲を警戒するような赤い目で辺りを確認すると、鋭い牙を剥き出しにした。

 あっけに取られた次の瞬間、その牙が狙う先にサシャがいることに気付いて、ワンは思わず声をあげた。

「待て――!」

 急に腕を引かれて、ワンは我に返った。

 そこは黒い森だった。地面はすべて剥き出しの土で、周辺の木々は枯れていた。ドゥッラが自分の腕を掴んでおり、その周辺には動揺して顔色を悪くした男達がいた。ナギだけが、変わらず平然とした顔で、足下を見ていた。

 その視線の先で、サシャは血塗れになり、内蔵を取り出し引き裂かれ、絶命していた。

 血の臭いが漂ってくる。それが鼻孔を着いた瞬間、胃の中からこみ上げてきたものを、ワンはその場にうずくまって吐き出した。

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