第二章:女神の単眼
第8話
少女の父親は、
少女は娘であったので、いずれは女になり、そして誰かの妻になるのだと繰り返し聞かされて育った。
少女には兄がいた。兄は王の息子であったので、いずれは父のように人々を率いる者になるのだと言われていた。
少女は兄を好いていた。性根の優しく、繊細で、誰にも愛を向ける男だった。兄が誰かを見る目は常に慈愛に満ち、誰かが兄を見る目もまた、いつも幸福を湛えていた。
よく晴れた、秋のある日だった。夕刻になっても姿の見えない兄を捜し、少女は集落を走り回った。
兄は、森の入り口で一人、膝を抱え声を殺していた。
「お兄さま!」
少女は無邪気だった。ただ、幼い頃から慕う兄の姿を見かけたので、駆け寄っただけだった。
駆け寄ってようやく、彼がひどく青ざめ、震え、頬を濡らしていることに気付いたのだった。
「どうしたの、お兄さま」
驚いて尋ねる妹に、兄は笑いかけて見せようとする。しかしそれが、いつもの溌剌とした、心から何かを楽しんだり、期待したりするときの笑顔とは違うと少女は気付いた。そんな兄の顔を初めて見た。
なんでもないのだと、心配しないでくれと、兄は言った。しかしそんなはずはないと妹は思った。
気まずい沈黙の果てに、兄は力なくため息をついた。
「僕は弱虫なんだ」
その告白に妹は首を傾げる。兄のことを、民と集落を危機から守った言い伝えられた歴代の首長や、あるいは世界を一つに導いた伝説の
少年は、また震えだした自分の両の掌を見つめ、それからそっとそれを握りしめた。
「今日、初めて、狩りで獲物を仕留めたんだ」
「聞いたわ! ウサギを捕まえたんでしょ?」
兄は妹に目を合わせずに、小さく首を振った。
「矢が、うまく当たったよ。急所にね。でも、すぐには死ねないんだね。ウサギは悶えて――それから、血も出てた……。ウサギの身体は、まだ生きているから、僕の体温よりもずっと暖かかくて、柔らかかった。だんだんと力が失われて、そのうち動かなくなったよ」
少女は、兄の語る言葉が何を意味しているのか理解できず、ただ次の言葉を待っていた。
「生きるためには、時には何かの命を奪わなきゃいけないこともある。僕たちは漁と狩猟の部族だから……。その重みを今日、今更になって初めて知ったんだ。そして動揺して、こんなところに一人で逃げて……自分が情けないよ」
そう言い切った少年の横顔は、しかし、妹に心情を吐露する前よりは、やや覇気が戻ってきたようにも感じられた。
激しい困惑で冷静になれなくなったのは、少女の方だった。兄が今、何故このように動揺し、怯え、震えているのか、彼の告白を聞いても、彼女には一つも理解ができなかったのだ。
少女は娘だったので、男達が行く漁や狩りに参加することはできなかった。それは部族のすべての娘がそうだったので、疑問や不満を持つことはなかった。ただ時折、自分が男になって銛を振りかざし、巨大な鮫と戦ったり、あるいは森を支配する狼の喉元を矢で射る姿を夢想することがあった。生温かい返り血を浴び、自分の足下で徐々に力を失っていく雄々しい生き物の姿を想像する度、少女は恍惚とした。
自分には生涯叶わない憧れを、泣きながら恐れ怯える兄の気持ちが、少女は一つも理解できなかった。
いつかの嵐が来た日、少女はその予感を海岸沿いの集落の人々に告げ、丘の上に避難させた。
民たちは、災害から無事な場所へ人々を導いた少女を讃え、褒めそやした。
そのとき少女は思ったのだった。次の王の座には、自分の方がふさわしいのではないかと――。
***
「――ッ!」
息を呑む声と、殺気がこちらに向けられるのはほぼ同時だった。だが、今回のワンは、比較的簡単にナギの攻撃をいなすことができた。
空振りさせた手を掴んでやった。彼女の状態が万全であったら、あっけなくこの手刀をどこか致命的な場所に食らっていただろうが、今のナギの動きはワンでも制することができる程度には、緩慢だった。
「何のつもりだ」
ナギはいつもの夜のように、燃える火の傍で大木に背を預けながら座っていた。ワンはその隣で膝をついていた。ほんの少しだけ見上げる形になりながら、ナギはワンを睨みつける。気が緩んだ隙をついて接近されていた、という事実に怒りを覚えていた。
ワンはそっと周囲の様子を伺った。他の男達が目覚めてこちらに集まってくる様子はない。
ためらいがちに声を潜め、ワンは言った。
「首長どのが、……うなされていたようなので」
その言葉に、ナギは瞠目する。
――私が、眠っていたというのか? こんなにも眩しいのに。
不愉快そうに舌打ちするナギにかける言葉を、ワンは考えあぐねる。
サシャの死にざまを見て明らかな動揺をしたのは、ワンだけだった。ああいったことはこの集団の中では初めてではなかったのだろう。「ナギへの恐れ」で男達がまとまっている、というドゥッラの言葉の意味を、そのときになってようやくワンは理解したのだった。胃の中の物を吐き戻し、眩暈で立てなくなり、ドゥッラに男達から離れた場所へ連れて行かれて一人でしばらくの時間を過ごした後、冷静になったワンの中に最初に沸き上がった感情は、羞恥と後悔だった。
覚悟が足りなかった。
この、ナギと男達の集団のことを何も知らないのにも関わらず、己の信条によってサシャを助けろと半ば強要し、それは後に騒ぎの火種となり、それを裁定したナギの前で盛大に嘔吐した。
礼を失し、筋の通らないことをしでかした、とワンは思っていた。
その一方で、また時間を戻して同じ状況に立たされたとしたらあの時とは違う選択をするのか、と、ワンは自分自身に問い、否、と自分自身に答えた。
サシャを見捨てることが正しいと、どうしても言い切れない。
この件について、ワンの頭の中はいつまでもまとまらなかった。
まとまらない状態で、ナギにわざわざ自分の非を認めて見せたり、弱さを見せるのは違う、という気がしていた。
――別の話題を、何か。
そう思い、ワンは前から気になっていたことをナギに尋ねた。
「首長どのは」
ナギが気だるげにワンを見上げた。
「夜は、いつも一睡もしておられないようだが。それで身体が持つのか」
「黒い森がいつ異変を起こすかわからないからだ。熟睡はしていないが、こうして身体は休めている」
ナギの返答に、ワンは意外な思いがした。出会ってから初めてまともに会話ができた気がする。それが、ひどく不機嫌な口調と態度で、こちらを煩わしく思っているのが見える様子でも。関係性に進歩があったように思えた。
「あのような「異変」は――」
ナギがまた機嫌を損ねて会話が終わらないように、ワンは注意深く言葉を選んだ。
「昼夜問わず起こるものなのか」
ワンの問いに、ナギはふと考え込んだ。普段ならこのような面倒な問いなど即座に拒絶するのに、思わずその内容に意識がいってしまった。頭がぼんやりとしているせいだ。本当に、一度眠ってしまったのかもしれない。
「昼も夜も」
思わず、考えなしに言葉が口をついて出た。
「私には違いがわからない」
その意味がわからず、ワンは目を丸くした。しばらくの沈黙の後、ナギが特に続ける言葉がないようだと気付く。
「……昼は太陽が出て、夜は沈む。暗くなると多くの生き物は眠るだろう。人も含めて」
「夜が暗いだと?」
髪を掻き上げながらナギが吐き捨てるように呟いた。
「月が眩しすぎる」
ワンは思わず空を見上げた。ちょうど頭上に、丸い月が一つだけ輝いていた。月の様子をしっかりと観察するのが久々であったことにふと気付いた。
「……今夜は、
「かさねづき?」
ぽつりと口にしたワンの言葉を、ナギが繰り返した。ワンが視線を天井の闇から地上へ戻す。振り向きざま、至近距離で目が合った。力強い黒い瞳が潤み、それを白い月明かりが輝かせている。思わずワンは後ずさった。同時に、ナギが自分の言葉に興味を示すように聞き返すなど初めてのことだ、と思った。
「私の故郷では、そう呼ぶ。月が空に一つしかない夜は――」
そこまで言って急に、ワンは気まずい気持ちが湧いてくるのを感じた。
こちらを見るナギの目に、急に吸い込まれそうな、妙な力を感じた。これまで、気圧されそうになったり、にらみ合ったりしてきたのとは違う何かに圧倒された感覚だった。
一度咳払いをして、軽く目をそらす。
「女神が、恥じらって目を伏せているのだ」
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