第6話

 間もなく日が落ちる。そうなると、男達は身体を休め、眠り、再び日が昇るのを待つ。ナギには本来必要がないが、今は男達に必要な時間を供給してやる義理がある。

 ワンをワガノア王国まで連れて行かねばならない。大陸の現在の地理に詳しくないナギにはその所在がわからないが、ドゥッラによると、黒い森を抜けた先から距離があるのだという。ナギはもう長い間、黒い森の外に出ていない。目的地にたどり着くまで、他の人間を巻き込まねば耐えられないだろう。

 ため息をつくと、ナギは傍にあった大木に左腕を埋めた。ぐにゃりと空間が蠢く感触がして、肘より深い部分まで木の幹に飲み込まれていく。

 黒い森に乱立している木々は、すべて、生きることをやめている。しかしかつては、自らの意志で大地に根を張り、枝葉を伸ばし、太陽の光を受けて呼吸をし、鳥獣や虫、目には見えない微小な生き物達に、その身を預けさせていた。その頃の大木達は、膨大な時間をかけて、地中深くから水を吸い上げ、大事に抱き込んでいる。

 ナギの左腕は空間を越え時空を越え、その大木の生きていた証を引きずり出す。

 やがて、ナギが木から離れると同時に、その木には穴が空き、そこから澄明な水が流れ出した。

 手袋をしていない右手でそれを受け、すする。ひんやりとした、何の味もない液体が、ナギの喉を潤す。

 これは、今夜はこの場所で移動を止めて留まり、一晩を明かすという、ナギの決定の示し方だった。

 ナギがその場から距離を取ると、男達は何も言わず慣れた様子でそれぞれ荷物を下ろし、動物や魔物の革で作られた水筒を取り出し、木の幹から流れるわき水をそこに補充した。

 年かさの男が、近くにあった木に刃を入れ、皮を剥ぐ。手の届く範囲の枝を折り集める男もいる。ドゥッラが鋼と火打ち石をこすり合わせた。

 火を起こす準備を始めた男達を見たワンは、肩を貸して共に歩いてきたサシャを、ゆっくりと地面に座らせた。小柄で軽い少年だが、半身を預かって長距離を歩くとさすがに負荷が大きかった。まだ苦しげな呼吸を繰り返しているサシャが木の幹に背中をもたれる姿を見届けながら、ワンは凝り固まりかけた肩を回す。

「大丈夫か、サシャ殿。どこか痛みの強いところは――」

「クソッ!」

 気遣うワンの声が耳に入らなかったのか、サシャは激しく悪態をついた。まだ変声期の終わりきっていない、掠れた高い声だった。

 痩せた顔は青ざめ、汗ばんでいる。ワンは、脚を投げ出しているサシャに目線を合わせようと、膝をついた。

「怪我をしているなら安静にした方が良い。骨に障りがあるなら固定を――」

 ワンの言葉を遮るようにして、怒りの感情をその目に湛えたサシャが、突然、唾を飛ばした。口の中は乾いていたのだろう。少量だったが、粘りけのある温く不快な液体が、ワンの頬に張り付いた。

「――!」

「俺を見下してんのか、情けなんかかけやがって!」

 ワンは目を見開き、少年の顔を黙って見つめた。生気を消耗したかのようだった姿が、今は燃えるような敵意に溢れている。

 緊張感を伴う沈黙が流れる。すぐ傍から、男達の、火を起こし、夜を越す支度をする音が絶えず聞こえてくる。こちらを気にする気配はない。

 ここの男達は、基本的に他人に無関心だ。言葉も、身振りも、動作も、必要最低限のものしか交換しない。

 相手の心情を慮り敢えて口を噤むことで、摩擦を避けている、というわけではない。端から、相手の領域に踏み込まないことで、諍いを起こさぬようにしているのだ。

 ワンの故郷の小さな邑では、あり得ない関係の築き方だった。

 ――自尊心を、傷つけてしまったのか。

 自分が過度に構ったことで、このまだ稚い少年が、辱められたように感じたのだと、ワンは気づいた。

 それは、この年頃の少年であればありがちなことであり、大人になる過程で必ず経験しなければならないことだと、ワンは思う。しかし、この黒い森の男達といる限りにおいては起こりえないことでもあった。他人に己の失敗や未熟さを助けられ、気遣われるような場面があれば、それはこの森では「死」に直結するのだから。

 ――それが良きことか、悪しきことかを、私が断ずることはできないが。

 サシャが何歳の頃からここの男達と過ごし、どういった理由でこの過酷な環境で生きていこうと決めたのか、ワンにはわからない。

 いずれにせよ、今ここでこれ以上サシャに声をかけるのは得策ではないと感じたワンは、頬に吐きかけられた唾を掌で拭うと、静かに立ち上がり、少年に背を向けた。

「ちくしょう!」

 サシャが拳を地面に叩きつける鈍い音が、背後から聞こえた。


 太陽が出ているのが昼であり、沈んでしまった後が夜である。そして人は、朝日とともに目覚め、夜には眠りにつく。

 しかし、ナギにはもうずっと、昼夜の区別は意味をなさないものになっていた。

 月がひとつではなくなってしまってから。

 昼であろうと夜であろうと、月は常に空に出ている。しかし、太陽が沈むとよりいっそう眩しくなるように、ナギには感じられる。日が沈む度に、ナギは苦痛に襲われた。

 ナギにとっては、ひどく目が眩み始めるのが夜の合図だ。日中、黒い森を歩き続け、今日は災厄にも見舞われた男達は、もうじき仮眠を取るだろう。

 「災厄」がいつ現れるかわからないから寝ずの番をしているのだと、ナギは男達に説明している。しかし実のところ、単純に月明かりが眩しくて眠れないだけだ。

 身体が疲労してはいるので、ナギにも休息をとる必要はある。目を閉じて背を大きな木の幹に預けてただ静かに呼吸をする。このように男達と行動をともにする必要がない時は、太陽の出る昼間にしていた休み方だった。

 少し離れた場所から、男達が食事の後を片づけたり、寝床を整えている音が聞こえてくる。それに耳を傾けながら、ほんの少し、気が緩みかけた――しかし次の瞬間。

 ナギは何を考える間もなく、自分に襲いかかってきた何者かの腕を掴んでいた。

 ――人間の敵意に向き合うのは久々だな。

 そんなことを思いながら、目の前で荒い呼吸をする幼い男をナギは見下ろした。

 細い腕をひねりあげながら、ナギは立ち上がる。少年が悲鳴をあげた。

「ちくしょう、ちくしょう!」

「ナギ!」

 ドゥッラが声をかける。普段は必要以上にナギの傍には近寄らない男達も、集まってきた。

 暴れるサシャから、何とはなしにナギは顔を上げた。ワンが、青ざめ、目を見開き、サシャを見つめているのが視界に入った。

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